柔道

【寄稿】『七帝柔道記』作家・増田俊也 全国の学生へ「迷うな。4年間を突っ走れ」

大学時代という限られた時間に本気で競技に打ち込む学生たち。彼ら、彼女らが作り出すドラマに一つでも多く寄り添っていきたい。そんな思いから、2018年10月25日に生まれた「4years.」。今年度、創業5周年を迎えた特別企画として、北海道大学柔道部を舞台にした自伝的青春小説『七帝柔道記』の作家・増田俊也さんに、大学スポーツをテーマに寄稿してもらった。

最初は相手にされなかった『七帝柔道記』

各社の担当編集者たちみんなに足蹴にされて悩んだことがある。『七帝柔道記』という北海道大学柔道部での生活をモチーフに描いた私小説の出版を持ちかけたときだ。

七帝柔道とは全国にちらばる七つの旧帝国大学(北海道大学・東北大学・東京大学・名古屋大学・京都大学・大阪大学・九州大学)が年に一度集う「七帝戦」で戦われている柔道のことである。

この大会はオリンピックや全日本選手権などの普通の柔道とは違い、戦前のいわゆる高専柔道ルールを踏襲する。一本勝ちのみでポイント勝ちはなく、場外もなく、寝技膠着(こうちゃく)の「マテ」もない。完全決着のデスマッチルールである。これを球技なみの大人数、15人対15人の抜き勝負で延々と戦い、1試合を終えるのに2時間もかかる。

もう一つ大きな特色がある。寝技への「引き込み」が許されていることだ。引き込みとは、投げ技をかけずに自分から意図的に寝て寝技に誘うことである。だから寝技技術だけが異様なまでに発達している。しかし一般の公式ルールとは違うので、新聞どころか柔道専門誌にさえ結果が掲載されない。

だからどの社の編集者も鼻で笑って、草稿も読んでもくれなかった。

「そんなマイナーな話は本にできません。そもそも増田さんとその友達しか出てこないんでしょう? いったい誰が読むんですか」

あちこちで言われて落ち込んでいる私に手を差し伸べてくれたのはKADOKAWA(旧・角川書店)の編集者だった。スポーツ経験者である彼に一縷(いちる)の望みを託して草稿を渡すと、次の日「一晩で一気に読みました。こんなすごい小説は読んだことがない。読んでいる間ずっと泣いたり笑ったりの時間を過ごしました。ぜひうちで出しましょう!」と興奮した電話がかかってきた。

やはり経験者はわかってくれた。夏の暑い日、エアコンの効いた部屋で過ごす一般学生を傍目(はため)に汗まみれになって練習をこなす日々を。じとじと降る雨の日に「今日は練習休み」と、唐突にキャプテンが言ってくれるのではと淡い期待を抱きながらいつものように始まる練習にうんざりした日々を。

作家・増田俊也(撮影・安藤美穂)

コスパから最も外れた大学の運動部

いつからだろう。コスパばかり言う世の中になってしまったのは。大学で運動部に所属することは、このコスパから最も外れた生活だ。現役当時は「どうしてこんな生活を選んでしまったのか」「こんなことやっても何にもならない」「この練習時間にバイトしたら4年間で幾らになるだろう」。そんなことを思いながら練習漬けの毎日を送り続けた。

北大柔道部に一緒に入部した私の同期は1年生の夏前には多くが退部していった。スポーツ推薦のない大学では部を辞めるか続けるかは自分の意志次第だ。

退部していく者たちは「勉強ができないから」とか「バイトがしたいから」とか様々な理由をつけた。時間を割かれるのはわかって入部してきたのだから、本来は理由にならないはずだ。そもそも北大柔道部OBには学部学科の首席卒業者も多い。彼らは合宿中でも専門書を開いて勉強している。アルバイトをしながら部を続ける部員も多い。早朝の午前3時前に起きて新聞配達をしたあと午前6時からの朝練に参加するOBもいた。だから退部理由はどれも言い訳である。

しかし「練習がつらいから」などと言えるわけがない。後から辞める者は同じ理由では仲間たちが納得してくれないので新しい理由を考えねばならない。たくさんの1年生が辞めたあと秋口に退部を言ってきたある同期は理由に困った揚げ句「他大学の医学部を受験する」と言った。

「部を辞めたいためだけに理由を作ったんだろう」

そう指摘する私たちに「違う。もし今年受からなかったら部に復帰する」と約束した。しかし私たち同期は「3月末には部に戻ってくるしかないな」と笑って見ていた。なぜなら彼は文系だったからだ。春の受験まであと半年しかないのに、微積分や物理、化学などを合格レベルまで持っていけるわけがない。しかし驚いたことに彼は合格してしまった。それくらい練習から逃げたかったのである。

北海道大学柔道部時代の増田。東京大学七徳堂前にて(本人提供)

無名の人にも必ずドラマがある

たかが地方国立大学の運動部である。だが練習は本当にきつかった。毎日毎日延長練習である。2部練や合宿では朝から夜まで寝技漬けである。とにかく寝技ばかりやっている。世間では誰も知らないルールで、関係者以外は誰も観戦に来ない。そんな大会を目指してなぜあそこまで私たちは打ち込めたのか。

沢木耕太郎さんに『無名』という作品がある。死期の近づいた父にあらためて向き合い、息子としてその人生をたどり、作家として活字に落とし込んだものだ。無名という題はまさにその字面どおり、何者でもなかった恬淡(てんたん)な父の生涯への敬意がこめられている。しかし無名の人にも必ず小さなドラマがある。運動部も同じである。強豪チームだけではなく、どんな田舎の、どんな弱小運動部にもドラマはある。中学でも高校でも大学でもずっと補欠だった部員にもドラマがある。

来る日も来る日も延長練習。とにかく寝技ばかり取り組んでいた(本人提供)

私が北海道大学で引退試合を戦ったのは1989年の7月だから、もう34年も前のことである。七帝戦で負けたその夜、OBたちが酒席を持ってくれた。私たち4年生はOBや後輩たちの前で1人ずつ引退のあいさつをさせられた。私はそのとき自分が何を言ったかいまだに覚えている。あとで監督が「増田のあいさつが一番実感がこもっていた」と言ってくれたのがうれしかったからだ。私はこう言ったのだ。

「この柔道部生活に最後の日が来るとは思っていませんでした。永遠にずっと続くと思っていました」

涙で咽(むせ)びながら一区切りずつこれだけを話した。

やっと練習から解放されるという安堵(あんど)もあったかもしれない。しかし、ずっとこの仲間たちとこの生活を続けたいという思いもあった。悩んでばかりの日々だった。辛すぎる練習に逃げ出したくなったり、怪我が続いて思ったような結果が出せなくなったり、OBから厳しく怒られたり。何しろ私たちは七帝戦5年連続最下位という泥沼状況のなかで部生活を送ったのだ。

「私は彼らのあの生活に憧れていたんだ」

社会人になってから私はことあるごとに、同僚たちに北大柔道部時代の話をした。「こんな辛いことがあったんです」「こんな感動することがあったんです」「こんな素晴らしい先輩がいて後輩がいたんです」。会社内でも酒席でもそんな話をした。

若いときは同僚たちが「またいつもの話か」という困惑顔をしていた。しかし30歳、40歳と年齢を重ねるうちに、その同じ同僚たちが「おまえはいいな。そんな自慢できる大学生活があって。俺なんかディスコ行って旅行行って彼女つくって楽しくやってたけど、今になると何も残ってない」と、うらやましがるようになった。

北大柔道部での日々を綴(つづ)った私小説『七帝柔道記』は売れに売れてベストセラーとなり、多くの読者から感想をもらった。面白いのは出版してくれたKADOKAWA以外の社の編集者たち、つまり「そんなマイナーな話は本にできません」と無碍(むげ)に断った編集者たちが「読みました。あまりに眩(まぶ)しくて涙が止まりませんでした。こんな大学生活を私も送ってみたかった」と連絡してきたことである。運動部出身ではない人たちにも伝わったのが何よりうれしかった。

2013年に角川書店から出された『七帝柔道記』(左)の表紙には、かつてのライバルたちに声をかけて集めた本物の柔道衣が使われている。小説は小学館のビッグコミックオリジナルで女性漫画家の一丸によって漫画化され、外伝を含め全7巻の単行本(右)になっている

別の編集者からはこんなことを言われた。

「中学高校時代から、土と砂まみれになって教室に入ってくる彼ら運動部員たちが私は大嫌いでした。休み時間になると仲間と集まって笑顔で話している彼らはもっと嫌いでした。でもこの本を読んだ今、はっきりわかりました。私は彼らのあの生活に憧れていたんだということが」

これ以上の言葉があるだろうか。全国の現役学生よ。迷うな。4年間を突っ走れ。必ずその部生活には意味がある。

増田俊也

 

◆4years.では今後、様々な大学の運動部を取材する増田さんの記事を随時掲載する予定です。「勝者にも敗者にも物語はある」という思いを持って、今年も学生スポーツを盛り上げていきます。

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