陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2024

城西大学・野村颯斗 故障に泣いた4年目、仲間からの「また一緒に走りたい」が支えに

今年の箱根駅伝で3位になったチームを主将として引っ張った野村(左、撮影・佐伯航平)

山口県立美祢青嶺(みねせいりょう)高校時代、全国高校駅伝やインターハイの出場経験はない。高校までの5000mのベストは14分43秒94。城西大学に入学した時、15人いた同期の中で11番目の選手に過ぎなかった。「箱根駅伝を4年間で1回でも走れれば」と考えていた野村颯斗(4年)だが、学年が上がるほど、チームになくてはならない存在になっていく。第100回箱根駅伝で大躍進を遂げることになるチームの中で、どんな4年間を過ごしてきたのか。振り返ってもらった。

【特集】駆け抜けた4years.2024

コロナ禍をプラスにとらえて成長

2019年1月、高校2年生だった野村は母親と2人で上京し、大手町で箱根駅伝のスタートを沿道から見ていた。「テレビで見る箱根とは雰囲気が全然違う。選手が輝いて見えたのが印象的でした」と感じるとともに、「大学生になったら選手として1区を走る姿を親に見せたい」と心に誓った。

入学の時期とコロナ禍が重なり、1年目は大会が次々に延期や中止となったが、野村はそれをプラスにとらえた。

「普通に試合があれば、出場する選手とそれ以外の選手で練習が分かれていたと思います。でも、試合がなく、練習も限られた中だったので、みんなと同じ練習をさせてもらえました。自分は負けず嫌いなので、だんだん『みんなに勝ちたい、駅伝も1年目から出たい』という気持ちに変わっていき、気づけば練習でもチームの10番前後でゴールできるようになっていました」

箱根駅伝は予選会から出走し「櫛部(静二)監督から『下りの練習をやってみないか』と言われてやっていたら、意外に速く走れた」ことから、本戦では6区に抜擢(ばってき)された。コロナ禍で観客はほとんどいなかったが、「カメラの多さに驚きました。これがテレビで見た箱根駅伝かと思った記憶があります」と、野村は区間11位で堂々の箱根デビューを飾った。

1年目から箱根駅伝に出走、6区を任された(撮影・佐伯航平)

念願の箱根駅伝1区出走がかなった3年目

2年目のシーズンは、出だしから順調だった。4月に10000mで28分台(28分54秒48)をマークし、野村は「練習の質も上がって、夏合宿も前年よりレベルの高い練習ができました。いい感じで力を伸ばせて、万全な状態で箱根予選会に臨める」と自身に期待していた。しかし、大一番の予選会で思うように走れず、チームもまさかの15位。本戦出場を逃し、野村はそれ以降、故障に苦しんだ。

「11月から翌年1月まで原因不明のひざ痛が治らず、春先に腓骨(ひこつ)を疲労骨折。1カ月弱の練習で迎えた6月の全日本大学駅伝の選考会は自分なりにいい走りができ、7月に5000mで13分台を出せましたが、今度は右大腿骨(だいたいこつ)を疲労骨折し、8月はまた走れませんでした」

2年の後半から3年生のシーズンにかけて断続的に苦しい時期が続いたが、心は折れなかった。「自分が次の大会で走れているところを想像しながら、ひたすらリハビリというか、走る以外のトレーニングをやっていました」と、今できることに全力で取り組んだ。

チームも前年度の箱根駅伝予選会敗退で味わった悔しさをバネに、2年ぶりの本戦行きを決め、野村は念願の1区を任された。スタートラインに立った時、6区で見た景色とは全く違う光景が広がっていた。

「1区を走るという夢がかなってうれしかったです。親も応援に来てくれていたので、恩返しができたかなと思います」

先頭とは29秒差の11位で襷(たすき)をつなぎ、「残り3kmで一気に差をつけられた」という課題が残ったものの、トップバッターの重責を果たした。その後も同期や後輩たちの懸命の継走で城西大は9位フィニッシュ。5年ぶりのシード権獲得に、「最後はひやひやでしたが、みんなを信じるしかなかった。感動しました」と万感の思いだった。

3年時の箱根で1区を走り、後輩の斎藤に襷をつないだ(撮影・北川直樹)

もう何もしたくない状況に……

第100回箱根駅伝に向けた今年度、チームはさらなる高みをめざして始動した。キャプテンに就任した野村は、「自分は言葉でみんなを引っ張るタイプではない。その分、走りや練習の姿勢など背中で引っ張る」ことを意識したという。

しかし、またしても故障に泣かされることになった。

「3月に左ふくらはぎを肉離れして、それが5月までかかりました。急ピッチで合わせた全日本の選考会ではいい手応えがありましたが、その10日後に中足骨の骨折。これが重傷で、お医者さんからも『手術しないといけない』とか『箱根は間に合わない』と言われて、心が折れました。もう何もしたくない状況になって、半分鬱(うつ)みたいな感じになりました」

昨年6月の全日本大学駅伝関東地区選考会を走った野村(撮影・藤井みさ)

診断結果が出た数日間は、「本当に引きこもるぐらい落ち込んだ」という。支えになったのはチームメートの存在だった。

「桜井(優我、2年、福岡第一)は『また一緒に走りたいです』と言ってくれたり、平林(樹、3年、拓大一)は前に『桃が食べたくなった』と話したのを覚えてくれていて差し入れでわざわざ持ってきてくれたりしました。他にもみんなから声をかけてもらいました。自分は練習にも出ていなかったので、朝と夜のご飯の時間に唯一、みんなと会える。本当に心が落ち着く貴重な時間でした」

それだけ野村が慕われていたとも言えるだろう。けがは医師も驚くほどの回復を見せ、駅伝シーズンを迎える頃には、一通りの練習ができるまでに状態が戻っていた。

2年連続の箱根1区、3位発進でチーム最高順位に貢献

大事を取って回避した出雲駅伝で3位に食い込んだチームメートを野村は「頼もしいメンバーだな」と感じ、「自分は足を引っ張らないようにしないといけない」と考えていたという。

自身初出場となった全日本は、5区で「順位を2位から5位に落としてしまった」ことを反省したが、城西大は出雲に続いて過去最高となる5位。その頃、チームの雰囲気は最高潮に達していた。「今年度は1年を通していい雰囲気でしたが、とくに駅伝の時期はチーム全体で戦いにいけている感じがしていました」

最後の箱根は6区を走る予定だった。櫛部監督は5区と6区を重視し、山本唯翔(4年、開志国際)と野村に任せたいと考えていたのだ。しかし、けがの影響から「思い切り下れないくらいくるぶしが痛かった」ことで、前回と同じ1区に回った。冷静な判断が結果的に奏功し、野村は3位発進でチームを勢いづけた。

走り終えた後、テレビの画面越しに見る2区以降の選手は「普段から一緒に生活しているメンバーなのに、すごくかっこよく見えました」。過去最高順位を大きく上回る3位という好結果に「城西大にきてよかった。最高のチームでした」と喜びをかみ締めた。

「城西大に来てよかった。最高のチームでした」(本人提供)

目標を言葉にする大切さを実感

野村は夏に帰省する度、色紙に駅伝の目標を書いて親に渡していた。3年時は「箱根の1区に出走」、4年時は故障を抱えていたにもかかわらず、「全日本で区間1桁、箱根1区で5位以内」と書き、いずれも達成した。「目標を言葉に出すのは大切なんだと実感しました」

卒業後は中国電力で競技を続ける。「実業団でやる以上、日本選手権は出てみたいですし、駅伝も頑張りたいです」。大学4年間でコツコツと力をつけたように、次のステージでも真摯(しんし)に競技と向き合い、活躍の場を広げていくに違いない。

大学では目標を言葉にする大切さを知った(本人提供)

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