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特集:駆け抜けた4years.2024

関西学院大DL今村優斗 けがに泣いたラストイヤー 仲間のおかげで味わえた「絶景」

甲子園ボウルの試合後、関学の選手はほとんど泣いていなかったが、DL今村優斗は号泣だった(撮影・篠原大輔)

昨年12月17日。アメリカンフットボールの学生日本一を決める甲子園ボウルで、関西学院大学ファイターズが史上初の6連覇を果たした。61-21と法政大学オレンジを大きくリードして迎えた最終盤、今シーズンほとんど出番のなかった4年生たちがフィールドへ送り出された。DL(ディフェンスライン)の今村優斗(関西学院)もその一人だった。

【特集】駆け抜けた4years.2024

一気にその名が知られた大学3年の春

試合時間残り1分6秒、敵陣45ydから関学のオフェンス。もう前進を狙ったプレーは必要なく、時計を進めるだけの状況だ。選手たちがフィールドへ入る前、関学のサイドラインではコーチが「いまむらー」と叫び、それが聞こえた部員たちも口々に「いまむらー」「ゆうとー」と言った。ベンチの端の方にいた今村があわててやってきた。ディフェンスの選手なのに、オフェンスの一員として最後に甲子園に立たせてもらえる。その意味をかみしめてフィールドに向かった。

今村はボールの置かれた場所から12ydも後ろにセット。今村の7yd前でスナップを受けたQB鎌田陽大(4年、追手門学院)が、すぐにひざを地面につけるニーダウン。ハドルを組むと、今村はもう泣き出していた。「みんな、ほんまにありがとう」とほかの10人に言うと、「まだ早いわ!」と一気にツッコまれ、ヘルメットをバシバシたたかれた。鎌田がもう1回ニーダウンし、試合が終わった。1分あまり、甲子園のほぼ真ん中に立てた。「絶景でした」。今村は満面の笑みで振り返った。

甲子園ボウルの最後にフィールドに立った今村(左奥)は、早くも泣いていた(撮影・北川直樹)

身長184cm、体重104kg。堂々たる体格の今村は3年生の春、一気にその名が知られる存在になった。明治大学戦のキックオフカバーで、関学の大きな62番の選手が誰よりも速く走っていくと、その勢いのまま相手のブロッカーを吹っ飛ばした。さらに、もう1人はじき飛ばした。その動画がSNSで拡散された。それがきっかけで、私も今村に注目し始めた。その後、DLの交代メンバーとして試合に出る姿を見てはいたが、最終学年になると、彼のプレーする姿が見られなくなった。

やっと昨年12月の甲子園ボウルの最後に今村の姿を確認し、試合後に号泣する彼の姿を目にした。長年アメフトを取材していると、ピンとくる。彼に聞くと、4年生の春にひざの手術を受けることになり、その時点でファイターズの選手としては事実上の引退が決まったという。「しんどいことも多かったんですけど、周りの人たちのおかげでほんとに濃い4年間を送れました」。今村は感謝の言葉を口にした。

甲子園ボウル6連覇を記念した学内パレードで手を振る今村(中央、撮影・篠原大輔)

大阪桐蔭との練習試合で一発

兵庫県西宮市内で生まれ育った。小学1年から高校3年までは野球に打ち込んだ。高校進学にあたって「文武両道で甲子園を目指せる学校に」と関学高等部を目指した。中3の夏から毎日12時間勉強して、合格できた。常にホームランを狙って振り回す外野手だった。それが裏目に出て試合に出られない時期もあったが、3年の4月にあった大阪桐蔭との練習試合でホームランを打ったのがきっかけで、スタメンになった。しかし夏の兵庫大会直前の練習試合でフライを捕ろうと跳び込んだ際に脳振盪(のうしんとう)に。第1シードで臨んだ初戦の2回戦・神港橘戦はスタメンで出られず、代打で出てレフトを守って2打数無安打。今秋のドラフト候補に挙がるサウスポーの金丸夢斗(現・関西大3年)に抑えられ、1-6で負けた。

野球部を引退し、秋になると何度もアメフト観戦に出かけた。父はかつて神戸大学レイバンズのDB(ディフェンスバック)であり、4学年上の姉は当時、関西大学カイザーズのマネージャー。アメフトは今村にとって身近な競技だった。大学で野球を続けるかアメフトを始めるか迷っていたが、姉がいる関大の試合を見に行くようになると、野球とはまた違うアメフトの華々しさに心をつかまれた。関大が9年ぶりに立命館大学に勝った試合はとくに心に残っている。「スタジアムの盛り上がりがすごくて、自分もこんな中でプレーしたいと思うようになりました」。関学高等部のアメフト部にいて、ほかの大学に進むことになった親友がいつも「大学でアメフトやれよ」と言ってくれていたのも大きかった。

3年春の桜美林大戦、キックオフカバーで相手のブロックをかわし、駆けていく今村(撮影・篠原大輔)

大村監督とのマンツーマン練習

ファイターズに入るとまずWR(ワイドレシーバー)になった。高校までのアメフト経験者がほとんどという環境に置かれ、技術的な面で差を埋める一方、「筋トレだけは絶対に勝つ」とトレーニングにのめり込んだ。その冬にひざを痛めて手術。練習に復帰するまでの半年間はがむしゃらに体を鍛えた。すると大村和輝監督から「ディフェンスエンドやらんか?」と声をかけられ、2年生の夏からDLになった。

2年生のころはただひたすらにボールキャリアーを全力で追いかけていた。すると、キックオフカバーで試合に出られるようになった。秋の初戦の同志社大学戦で初めてフィールドに立つ。「やっと俺のアメフト人生が始まったという感じでした」と今村。甲子園ボウルでは何プレーか、DLとしても出場できた。3年生になると「重点強化選手」に指名されたかのような日々を過ごした。練習の2時間前から同じポジションの先輩に見てもらってヒットの練習。時には大村監督自身が付きっきりで教えてくれた。「ありがたいことなんですけど、当時の自分にとっては逃げ出したくなるほどつらい時間でした。チームで一番練習してるんちゃうかと思ってました」。そして春の初戦の明治大戦で前述のように強烈なインパクトを残した。

3年春の明治大戦のプレーには、「またすごい選手が出てきたな」と思わされた(撮影・北川直樹)

大村監督による熱血指導は続き、時に厳しい言葉をぶつけられた。その口調が息子に対する父親のようで、周りの仲間からは「親子やん」とイジられた。「大村さんの期待に応えたい」との気持ちが日々大きくなっていった。のちに大村監督がチームのトレーナーに「今村を試合に出したりたいから、体の使い方を教えたってくれ」と頼んでいたと知った。

手術を回避する道を探したが……

3年秋の関西学生リーグでも、試合の途中からDLとしてフィールドに立った。第6節の関大戦前、今村はビッグゲームに出たいという思いから足の肉離れを隠して練習した。その結果、けがが長引き、関大戦も最終節の立命館大戦も出られなかった。早稲田大との甲子園ボウルには間に合ったが、練習に復帰したその日に今度は足首を痛めた。試合の当日もまだ痛かったが、気持ちが高ぶる中で痛みを忘れ、夢中でプレーした。キックオフカバーで相手のブロックを突き破り、タックルを2度決めた。「あの瞬間の甲子園の歓声は忘れられません」。高校時代は野球で目指し、遠く届かなかった聖地で輝けた。ただ、この試合がファイターズの一員として体を張って戦う最後の試合になるとは、夢にも思わなかった。

3年の甲子園ボウルで鋭いタックルを決めると、甲子園の真ん中で跳び上がって叫んだ(撮影・北川直樹)

大学での最後の年が始まり、春の試合が迫ってきていた。今村はひざに違和感を抱えながらも、3年生のときと同じように休むことなく練習を続けていた。するとある日、OL(オフェンスライン)とぶつかった瞬間、ひざに激痛が走った。診断は前十字靱帯(じんたい)の断裂。手術、リハビリとなると、最後の秋のシーズンを棒に振ることになる。今村は手術を回避して周りの筋力を強化し、戦列に復帰する道を選んだ。

そして6月、練習に戻ったその日に、再び激痛が……。医師には「もう手術するしかない」と告げられた。納得できない今村は手術しない道を模索したが、見つけられなかった。ファイターズでプレーする望みが絶たれた。「そこからの毎日は、夜に一人になると『もう試合には出られへんのか』という思いが頭をぐるぐる回って、なかなか寝られなかった。みんなが好きなアメフトをプレーしてる姿がうらやましかった」。7月に手術を受け、夏合宿に途中から駆けつけた。みんなが笑顔で迎えてくれた。それが何よりもうれしかった。

3年春の東大戦でボールキャリアーを追う今村。「女系の家族だったので、親族からはアイドルみたいに扱われてました」(撮影・篠原大輔)

4年間を思い出し、止まらなかった涙

秋の学生ラストシーズン。今村はディフェンスの控え組のまとめ役となり、関学オフェンスの仮想敵として練習台になる彼らを引っ張った。京都大学戦の直前、DLのスターターで同期の浅浦理友(関西学院)に「頑張れよ」と声をかけたとき、もう自分がプレーできないことを改めて実感し、涙が出てきた。

試合に出ることを諦めてからはチームに貢献できているのかどうか分からない日々だったが、立命戦に勝ったあと、「お前の分もやったぞ」と言ってくれる同期の選手が何人もいた。一緒に戦っているんだと実感できた。リーグ最終戦の関大戦で敗れた瞬間は放心状態だった。しかし同率優勝の3校主将による抽選で海﨑琢(4年、箕面自由学園)が「1位相当」を引き当て、甲子園ボウルへの道がつながった。

甲子園ボウルでは今村らけがでプレーできない4年生もメンバーに登録され、防具を着けた。チームとして、チャンスがあれば甲子園のフィールドに立たせてやりたいとの思いからだ。そして最後に回ってきたオフェンスで、ディフェンスの選手である今村もフィールドへ送り込まれた。「みんながサイドラインから僕の名前を叫んでくれて、この仲間たちとアメフトができてよかったと心から思った」と今村。試合後の整列では誰よりも泣いていた。「なんで泣いてるのか自分でも分からなかったんですけど、この4年間を思い出してたら涙が止まりませんでした」。両親や親戚は今村が試合に出られないのが分かっていても、毎試合のように観戦に来てくれた。恥ずかしくて直接は伝えられなかったが、いま、「ほんまに感謝してます」と口にする。

最後の甲子園ボウル直前、今村は久々に防具を着けた(撮影・北川直樹)

「少しでも漢を磨けていたとしたら、うれしいです」

振り返ってみると、高3のころから大事な試合を前にけがに見舞われてきた。アメフトを始めてからの負傷は、今村自身にもし慎重な姿勢があれば、ここまで大きな痛手にはならなかったのかもしれない。でも、それも含めて、これが今村優斗の4years.だ。「最高の同期やコーチ、先輩後輩に恵まれました。この4年間で少しでも漢(おとこ)を磨けていたとしたら、うれしいです」。いい笑顔で彼が言った。

その答えは、ここからの長い人生で見えてくる。

最後の甲子園ボウルのあと、4年生で記念撮影。今村は最前列の左端に座り込んだ(撮影・北川直樹)

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