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特集:第78回甲子園ボウル

関西学院大LB渡部大二郎 戦闘機パイロットの夢封印、もがきたどり着いた最後の闘い

関西学院大のLB渡部大二郎はかつて同年代のトップ選手だった(撮影・篠原大輔)

アメリカンフットボールの全日本大学選手権決勝・甲子園ボウルは12月17日、阪神甲子園球場でキックオフを迎える。関西学院大学ファイターズは史上初の6連覇をかけて、法政大学オレンジと戦う。関学のディフェンスリーダーを務めるのがLB(ラインバッカー)の渡部大二郎(わたなべ、4年、関西学院)だ。戦闘機のパイロットになるために退学することも考えたが、夢を封印してファイターズ愛を貫いた。「最後は俺が甲子園に神風を吹かせる」と意気込む。

「FIGHTERS愛に溢れている人」ランキング1位

渡部はこの1年、主将のLB海﨑琢(箕面自由学園)、DB山村翔馬(足立学園)、RB大槻直人(京都共栄学園)の同期3人とともに、「ファイターズホール」と呼ばれる部の施設の一戸建てで共同生活を送ってきた。午前9時から海﨑、山村らとともにディフェンスコーディネーターを兼ねる大村和輝監督とのミーティングに出席し、そこで決まったことをかみ砕いてディフェンスの下級生たちに伝えていく。そして午後の練習へ。そんな日々だった。

ただ関学のLBはとくに競争が激しく、渡部は今シーズンほとんど試合に出られていない。「力不足やったし、自分が甘かったのもある。節目節目で頑張ってやってきた自負はあるけど、もう一回やっても同じというのが正直な感想です。それでも瞬間、瞬間で言うと、LBの楽しさはめちゃめちゃ感じられた4年間でした」。現在の心境を包み隠さず、こう話す。

ファイターズのイヤーブックには例年、「何でもBEST3」というコーナーがある。今年、渡部は「FIGHTERS愛に溢(あふ)れている人」ランキングで1位になった。関学から自転車で10分のところで生まれ育ち、父の総一郎さんと兄の慎太郎さんがファイターズOB。父はWR、兄はDBで試合に出ていた。少年野球をしていた大二郎も関学の中学部へ進むと同時にフットボール人生を踏み出した。当時は関学のレジェンドで「マジックモンキー」と呼ばれたWR堀古英司さんの華麗なキャッチに憧れていた。

戦闘機のパイロットになる夢は諦めてはいない(撮影・北川直樹)

高等部ではDBとしてプレーし、3年の1月にはU-18日本高校選抜チーム40人の一員として渡米。テキサス州ダラスで開かれたインターナショナルボウルでU-17 USAナショナルチームを下した。同世代のトップ選手の一人だった。いまは身長173cmで体重は92kgあるが、当時は70kgそこそこで、大学ではWRをやろうと考えていた。それでもLBを希望した。「関学のLBには歴代、ヤバい人がゴロゴロいる。そんな選手になりたかったし、高校までの自分は当たるのが好きじゃなくてボールへの嗅覚(きゅうかく)で勝負してたけど、高校時代の海﨑の激しいプレーに『これがアメフトや』と感じてたのもあった。それに最終的に大学でもディフェンスリーダーとしてみんなを引っ張りたいと考えたときに、毎プレー絡んでいけるLBの方が影響力を発揮しやすいと思いました」

全日本大学選手権準決勝の九州大戦は久々にLBで出場した(撮影・北川直樹)

心意気に胸を打たれた大槻直人との合宿生活

渡部の大学生活は、関学の前監督である鳥内秀晃さんの著書のタイトルを借りれば、「どんな男になんねん」と常に自分に問いかけてきた4年間でもあった。大学ではLBでやっていこうと決めた一方で、戦闘機のパイロットへの憧れもあった。母がキャビンアテンダントだったこともあって飛行機には興味があり、最初はエアラインのパイロットになろうと思った。高1のときにチームメイトになった藤田大佑(現4年、DB)から「戦闘機のパイロットがええんちゃう?」と言われ、主に好奇心から「これしかない」と夢を定めた。

調べてみると、高校を卒業して航空学生として自衛隊に入る道があった。大学1年のときはコロナ禍で部活に割く時間も少なかった。渡部は学科試験に備えて朝4時に起きて勉強した。9月の1次試験に始まり、3次試験は4泊5日の長丁場。練習機に試験官と乗り、空中で操縦桿(かん)を握る飛行検査もあった。30~40倍の難関と聞いていたから受かるとは思っていなかったが、大学1年の1月に合格通知が届いた。当初は「選ばれたんやな。退学して自衛隊に行くしかないな」と思った。

自衛隊へ心が傾いていながらも、当時は同じLBだった同期の大槻の下宿で合宿生活をした。朝5時からトレーニングをして、LBの視点でいろんなフットボールの映像を見た。そして人生を語り合った。高校までの野球から転向してファイターズという最高峰の集団でアメフトを始め、とくに競争の激しいLBに挑戦している大槻の男気に触れた。「逃げも隠れもせず、丸腰で戦いを挑む。正々堂々という言葉が似合うヤツでした。中学高校のころから、こういうヤツと一緒に部活をやりたいと思ってた。大槻直人のような男が目の前にいるのに、いま自衛隊に行くのはもったいないと強く思いました」

学生らしさとは何か、と常に考えてきた(撮影・北川直樹)

失敗してもいいからチャレンジできるのが学生の特権

ファイターズ愛も渡部の心を押しとどめた。「ファイターズのOBには憧れの人がいっぱいいて、ここで4年間やり通すことが人生において絶対に大事なんだろうと思いました。それに自衛隊に入る試験の中で、学生と社会人の違いが身にしみたんです。失敗してもいいからチャレンジできるのが学生の特権だと。自衛隊で与えられたことをやるよりも、自分でいろいろ考えてやることの方がしんどくて、それがいまの自分にとって大事と思った」

さらに、LBに挑戦すると決めたのに、逃げる形になるのは嫌だった。「大きな課題があるのに逃げてしまうのはセコいなと。高校のとき日本代表で、そのままパイロットになる道へ進んだら、何かめっちゃカッコいいヤツみたいになる。それもセコいなと。何もないところからLBとして4年間、自分の力をもう一回試したかった」。こうして大学に残った。

今回、この記事を書くにあたって、私は渡部と1時間向き合った。その翌々日の早朝、彼からメールが送られてきた。長文の最後に「取材を受けてから4年間を振り返り、いろいろと考えていると、篠原さんに伝えられなかった思いもあり、モヤモヤが止まらず、メールで送らせていただきました」とあった。こんなことは初めてだし、上っ面の言葉ではないと実感した。ここからしばらく、彼が送ってきた文章をほぼそのまま載せたいと思う。

2回生の秋の話なんですが、あの調子がよかった時、自分で言うのもあれですが、神がかっていたように思います。このfightersでどういうプレーヤーになりたいのか、どんな男になりたいのかということを自分の中でしっかり考え、イメージして、それに対して、今の自分はどうあるべきなのか、どんな行動をとるべきかと冷静に考えられていました。澄んだように精神状態もかなりよく、今起こることすべてがアメフトにつながるし、成長につながるんだという感覚がありました。生活の質も高かったし、一日中、自分の強みを活かしたプレースタイルはどんなものなのか、今日の練習ではどういうプレーでどう一歩を出そうか、ということを考えていました。すると、練習では神がかったように勝手に体が動くようになり、あの調子でいけば、海﨑のレベルに届くか、越せるんじゃないかという自信を持てたくらいです。

そこでけがをしてしまってシーズンアウトになりましたが、そのけがさえも成長する材料だと思い、けがをした時の動きから自分の動きの弱みを分析したりしていました。また、その時、同じアウター(けがなどで練習できない選手)だった人たちの中には入学してから2年間ろくに練習もできていない人もいて、いろんな人たちの思いを知る機会にもなり、自分の価値観もかなり変わる時期だったように思います。

3回生こそはと思っていましたが、「打倒海﨑」を掲げて書き初めもしたこともあり、海﨑や他人の動きばかりを意識しすぎて、自分の動きに注意が向かなくなってしまい、伸び悩んでしまったように思います。なので、あの書き初めは、自分の士気を高めた部分もありますが、苦しめられたという思いの方が強いです。そんな中ですが、海﨑がけがをしたこともあり、3年の秋にパスラッシュ要員としてポイントポイントで、立命戦に出場する機会がありました。試合中は何が何だか分からないままでやっていて、うれしいというよりむしろ、スタメンで出られていないことの悔しさが大きかったです。ですが、4回生になり、このチームを背負って試合に出た際の1プレーの重みを知ると、立命戦という大舞台でチームを背負って自分は戦っていたんだという自信にもつながりました。

3年生の正月、渡部自身の心境を記した書き初め(本人提供)

4回生でディフェンスリーダーになり、個人としてよりも、ディフェンスとしてどうなのかということを考えることが多く、さらに自分の動きが疎かになっていってしまったように思います。下級生のころに自分の爆発的な原動力となっていた、試合に出られない「悔しさ」も、どんどん感じることが少なくなり、試合を見にきてくれる親に抱いていた「申し訳ない」という気持ちも小さくなっていました。そんな自分に虚しくなることが何度もありました。そんな自分の私情が先行して、ディフェンスリーダーはおろか、ファイターズの4回生としての責任を果たさずに過ごしてしまってた期間が大半だったように思います。ただ、このチームには僕と同じように責任を果たせていない4回生も多くいました。

4回生だけで泊まった立命戦の前夜、監督はそんな僕らに対して「特攻隊の人のように10秒あればまだ変われる(強くなれる)。チームの力になれることがある」と言われ、自分のやってきたことを振り返り、そこから自分の弱さに向き合い、自分の人間としての真の強さを知れたように思います。そして、僕を含めた4回生がみな、堂々と立命館に対して戦ったように思います。勝ったあと、前日に思いを共有した4回生の顔を見ると無性にうれしかったです。関大戦ではうまくいきませんでしたが、最後の甲子園ボウル、またみんなが、また立命戦前以上に、自分の弱さと向き合い、自分の力を出し切れるようにしたいです。そこで、僕の本当にほしかった仲間ができると思います。

情熱を持って接してくれた父に感謝

渡部は入部以来、2年生の半年間を除いて、ずっと頭を丸めている。最初は「監督の目に止まればもうけもん」の思いがあった。上級生から「なんで?」「やめてくれ」と言われたこともあって考えたが、明確な意味はない。頭を丸めたからといって、直接的に何がどうなるわけでもないのは渡部も分かっている。「でも、意味のないものを価値づけられるかどうかは、やってからの行動次第。意味のないものに意味を見いだしていくのが、これも学生の特権だと考えるようになった。甲子園ボウルが終わって、自分なりに価値が見えるのかもしれないと思ってます」。高校時代から自転車で旅をするようになり、高3のときと大学3年のときに東京まで自転車で行った。留年する来年は、自転車で北米大陸を横断しようと決めている。もちろん戦闘機のパイロットになる夢も諦めない。

ファイターズ10年間のラストゲーム、終わって大二郎は何を思うのか(撮影・北川直樹)

いま、渡部は父への感謝を強く持っている。「とても子どもに対して熱い人で、僕が小さいころ、野球の特訓をするといって真夏の早朝にたたき起こされ、甲山(かぶとやま)に連れて行かれて、2時間ほどノックを受け続けました。その時は、いつかこの特訓で僕は死ぬんやと思ってたぐらいです。その時はとても嫌で、一般的な父親のもとに生まれたかったと思ってました。でも10年間ファイターズにいて、肉体的にも精神的にもいろんな苦しみがありましたが、乗り越えられた。いまの僕があるのはまぎれもなく父のおかげ。とても感謝しています」。父は渡部の心が自衛隊へ傾いていたとき、「試合に出てなくてもいい。お前がサイドラインにいるチームを、もうちょっと応援したかったな」と言った。その言葉は永遠に大二郎の胸に刻まれている。

「これがファイターズの4回生だ」というプレーを

さあ、関学での10年を締めくくるラストゲームだ。「ディフェンスでもキッキングでも、1プレーでも出られるのであれば、少年野球のころから続けてるようにダッシュでフィールドに入っていく。そして、これがファイターズの4回生だというプレーを見せたい。家族にも、コーチにも。僕にとってアメフトを続けてる意味は、このスポーツを通じて人とつながってるってことだった。それをしっかり感じられる一日にしたい。僕が甲子園に神風を吹かせます」

いけ、大二郎。

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