東海大・飯田孝雅 新チーム始動後、左肩を手術 最善尽くし「初めて勝って終われた」
この1点が決まれば銅メダルを手にする。
2023年12月の全日本インカレ3位決定戦、最終第5セット14-12。マッチポイントで託されたトスは、東海大学の飯田孝雅(こうが、4年、市立船橋)にとって、何が何でも決めたい1本だった。だが、そこで簡単に決めてヒーローになれるほど、現実は甘くない。
照れ笑いと苦笑い、どちらも混ざった笑顔で飯田が振り返る。
「託してくれるのがうれしかったし、ありがたくて。何としても決めたかったんですけど、ブロックされてしまって、悔しかったです」
東海大の主将として「1」を背負い、万感の思いと共にコートへ立った学生生活最後の試合。有終の美を飾りたい、というだけではない。どうしても勝ちたい理由が、飯田にはあった。「迷惑をかけた同期、後輩を勝たせたい。絶対勝とう、頑張ろう、って。とにかく必死でした」
痛みは限界、自ら切り出した「手術をしたい」
よみがえるのは、1年前の苦い記憶だ。
優勝を目指した前年は、決勝で筑波大学に敗れた。最後に勝つか負けるかでこれほど違うのか。嫌というほど味わった。前主将の山本龍(ディナモ・ブカレスト)からもらった「よくやった」という言葉とは裏腹に、悔し涙を浮かべながら銀メダルを首にかけた。
新チームが始まり、山本の後を受けて主将に就任した。悔しさを晴らすべく、最終学年にすべてをぶつける。その思いは誰よりも強く持っていたが、強烈なスパイクを繰り出す左肩は限界を迎えていた。
ごまかしながらプレーをするレベルの痛みはとっくに超えていた。全日本インカレ翌週の天皇杯に臨む頃には限界を迎え、春季関東大学リーグまでに手術をするか、手術せずに治癒させるか、選択を迫られた。医師の診断の結果、手術は回避したが、バレーボールどころか日常生活を送る中でも肩の痛みは消えず、春季リーグ開幕が1カ月後に迫る3月には、肩を回すことすらできなくなった。
新チームとして臨む最初の大会が間近に迫る中、主将が離脱するわけにはいかない。頭でわかっていても、痛みに耐えるのはもう限界だった。自ら「手術をしたい」と希望し、4月18日に入院。すぐに手術をした。術後すぐに始まるリハビリも痛くて苦しかったが、何よりも胸が痛み、苦しかったのは、病院のベッドで春季リーグの試合を配信で見ていた時だった。
「コートに立っている4年生は(高木)啓士郎(崇徳)だけ。後輩ばかりの中で、まだチームとしての形もできていなくて、結果も出ない。手術した直後に見たのが慶應戦で、ストレート負けしたんです。関東1部のチームはどこも強いけど、でも少なからず、僕が東海大に入ってから慶應に負けた試合はなかった。悔しくて、申し訳なくて、涙が出そうでした」
「自分がやりたいと思うことをやればいい」
退院後もリハビリが続き、本格復帰には程遠かった。前年優勝した春季リーグは、3勝8敗で10位に沈んだ。「自分で決めたことなのに、『手術しなければよかった』って。何度も思いました」
失いかけた自信を取り戻すには、「これだけやった」と胸を張れるぐらいやりきらなければならない。思い通りのプレーはまだできずにいたが、できることはある、とばかりに夏場は体力強化に努めてきた。
チーム全体としても「全試合フルセットになっても勝ち切れる体力をつける」ことを掲げ、ボールを使った練習で足を動かすメニューを多く取り入れるだけでなく、ボール練習を終えてからは走り込み。300m走を短いインターバルで6本繰り返し、心身を追い込んだ。
春季リーグ、東日本インカレと結果を出してきた前年とは異なり、自身も満足のいくプレーができていない。そんな自分はチームに対して何ができるのか。消えない不安を払拭(ふっしょく)してくれたのは、前主将の山本だった。
「龍さんに『キャプテンって、何をすればいいんですか』と聞いたんです。そうしたら『自分がやりたいと思うことをやればいい』と言ってくれた。僕の中で、龍さんは本当にすごいキャプテンで、理想のキャプテンだったから、どこかで龍さんを追い求めていたんです。でも、龍さんからそう言ってもらえて、気持ちが楽になりました」
接戦でも競り負けないチームになる
自身もチームもタフさを取り戻し、3位となった東日本インカレに続いて、秋季リーグも8勝3敗で3位に入った。飯田もコートに立ち、プレーする時間が少しずつ増えていった。春季リーグは飯田と同じく、けがで試合出場の機会が限られていた佐藤隆哉(4年、東北)も完全復帰。守りでは高木が、攻撃では佐藤がチームを引っ張り、最後の全日本インカレを前にチームとしての形がより明確に、強固になり始めていた。
とはいえ、トーナメントは負けたら終わり。全日本インカレ3回戦では天理大学とのフルセットに及ぶ大激戦を制し、準々決勝は中央大学からストレート勝ちを収めた。飯田も要所でセッターの當麻理人(1年、東山)からトスを託された。
「肩の状態を気にして、『本当はこっちに持ってきたいだろうな』という時も散らしてくれて、僕のことを気にしながら組み立ててくれた。後輩を助けるのが先輩の役割なのに、僕が理人に助けてもらっていたので、託してくれたボールは全部決めたい、と思っていました」
接戦でも競り負けないチームになる。まさに有言実行、とばかりに、3位決定戦の日本体育大学戦もフルセットに及ぶ熱戦が繰り広げられた。第1セットを26-24で先取したが、第2セットを取られ、第3セットを奪い返したが、第4セットは日体大。最終セットはスタートから東海大が先行し、中盤には高木の好レシーブを飯田が決めて、さらにリードを広げた。それでも終盤に追い上げられ、1点差まで迫られたが15-13で振り切った。勝利を決めた直後、コートに倒れ込みながら両手を突き上げ、全身で喜びを表現した。
「新チームになって一番苦しい時にいなくて、チームに貢献することもできなかった。そんな自分が、どうしてキャプテンという肩書をもらっているんだろう、と思うと苦しかったです。でも、スパイクでチームを勝たせることができないなら、それ以外でキャプテンとしてどう取り組むか。その姿を見せなきゃいけない、と意識するようになりました。走り込みの時期も、全体のメニューが終わっても自分だけひたすら走り込んで体力が落ちないようにしてきて、それが全部実ったかと言えばわからないし、まだまだ完全復活とは言えない。後輩の目に、キャプテンとしてどう映っていたかはわからないけど、できることは全部やった。最善を尽くした1年でした」
中学3年時に憧れたチームのためにも
目指した色ではないが、全日本インカレの最終日に勝ってメダルをかけたのは初めてのことだった。飯田にはどうしても「最後に勝って終わりたい」理由がもう一つあった。
「小澤(翔)先生が監督になってから7年、全カレを勝って終わったことがないんです。最終日まで進んでも『いつも負けて終わった』というのを聞いて、絶対に先生を勝たせて終わりたかった。それができたことが、本当にうれしかったです」
ずっと、東海大に憧れてきた。
中学3年生の時に見た東海大は全日本インカレの決勝に進出するような強いチームで、決勝こそ石川祐希(パワーバレー・ミラノ)を擁した中央大に敗れたものの、選手一人ひとりが輝いていた。だから高校に進学すると、聞かれてもいないのに、バレーボール部の監督へ自ら宣言した。
「僕は東海大に入ります。東海でバレーします!」
とはいえ現実は、千葉県内で優勝することができず、3年間で一度もインターハイや春高に出場できなかった。全国での実績がない自分を東海大に引き寄せてくれたのが、小澤監督だった。
「練習や試合でどれだけ周りがうるさい中でも、小澤先生の叫ぶ声はいつも絶対聞こえるんです(笑)。日本一にはなれなかったけど、最後に勝って終われてよかったです」
春からはVリーグのVC長野で、バレーボール選手として新たな生活が始まる。東海で培ったたくましさを武器に、完全復活した姿を見せつけるのはこれからだ。