フィギュアスケート

特集:駆け抜けた4years.2024

東洋大・園田りん、出身地の沖縄で描く夢「全日本に出場できる選手を育てたい」

東洋大学の園田りんは卒業後、出身地の沖縄でコーチを目指す(撮影・古都悦朗)

東洋大学4年の園田りん(北谷)は、フィギュアスケート界では珍しい沖縄県出身のフィギュアスケーターだ。1月にあった日本学生氷上選手権大会(インカレ)では琉球の曲に乗り、万感の思いで滑り切った。卒業後は故郷に戻り、スケートのコーチとして競技の普及に努める。将来の夢は沖縄から全日本選手権に出場する選手を育てることだ。

月1回のレッスンがモチベーションに

園田は5歳の時、スケートに出会った。祖母と母が沖縄県南風原町(はえばるちょう)にある県内唯一のアイススケートリンクに連れていってくれたのがきっかけだ。当時はコーチがおらず、タクシーの運転手から滑り方を教わり、スケート靴の刃の研磨もアイスホッケー靴を研磨している人に頼んでいたという。

いつしかスケート靴を履くのが日常になった。学校の授業が終わると、祖父が運転する車で往復2時間かけてリンクに通った。小学校低学年の頃、福岡県で指導していた津留(つる)豊コーチが月に1回程度教えに来るようになると、園田は必死に学んだ。「次に津留コーチが来る時までに『これをうまくなろう』と目標を決めていました。試合はなかったのですが、それが練習のモチベーションになっていました」

その後、津留コーチが沖縄県に移住し、スケートクラブを創設。園田もそこで技術を磨いた。

しかし、決して恵まれた環境とは言えなかった。リンクの貸し切り練習は週に1回しかとれず、大会やバッジテストは福岡県まで飛行機で遠征しなければならなかった。スケートが好きでも続けられず、やめてしまう仲間もいた。

「今後、沖縄でスケートをしていく子たちにこういう思いをさせたくない」

高校生になるとその思いが強くなり、外の世界を知るため思い切って上京を決意した。バッジテストの7級を取得し、全国レベルの選手がいる東洋大学に進学した。

素敵な同期や部員に囲まれ、充実した4年間を過ごした(以下、すべて本人提供)

都会に慣れずホームシックになったことも

東京都西東京市のリンクを拠点に、津留コーチの妻、野上由樹絵コーチに師事することが決まった。新生活に胸を膨らませていたが、コロナ禍で練習は制限された。電車の乗り降りや地元と異なる人との距離感など都会の生活に慣れず、ホームシックになる時もあった。

コロナが明けると、1日2回の貸し切り練習ができ、同じ級の選手たちと切磋琢磨(せっさたくま)した。とくに仲が良かったのが、東洋大学同期の田中陽織(ひおり、山梨学院)。「田中選手が頑張っている姿を見て、自分もこのままじゃいけないと思えて、しんどい時も乗り越えることができました」。たまに大学の部練(部活動)があると、久しぶりに会った部員が上達している様子を見て刺激をもらった。

大学に入ってフリーの得点が20点も上がり、2年次にインカレに初出場、成長を実感できた。

上京後、野上由樹絵コーチ(左)のもとで成長した

ラストのインカレ「今までで一番幸せな3分間」

「本当に東京に出てきて良かった」。園田は笑顔で4年間を振り返る。とくに印象に残っている大会が二つある。一つは2023年3月にあった東西私立フィギュアスケート競技会。7級女子で小学生以来の優勝を飾った。足を痛めていたため3回転ジャンプは跳べなかったが演技構成点が評価された。

もう一つは2024年1月のインカレ。今シーズンのショートプログラム(SP)は、沖縄でなじみの曲「ダイナミック琉球」を披露した。最初は周りの賛否が分かれ、園田自身も使用を迷っていたが、最後は野上コーチや振り付けを担当した横谷花絵さんが背中を押してくれた。衣装にもこだわり、沖縄の生地を祖母から送ってもらって作った。

歌詞に方言が多用されているため、祖父に変換してもらった標準語を元に振り付けを考えた。胸がわくわくする気持ちを表す「ちむやどんどん」では胸に両手を当てて踊ったり、喜怒哀楽をかきまぜるという意味を持つ「カチャーシー(沖縄の手踊り)」の動きで自分のスケート人生を表現したり。演技後はあたたかい拍手とスタンディング・オベーションを浴びた。

「観客席に自分の名前が書かれたバナーが見えて、沖縄で一緒に練習していたメンバーも応援に来てくれて、演技が始まる前から泣きそうになりました。演技中も手拍子やエイサーの指笛が聞こえ、カチャーシーを踊ってくれた人もいて。ラストシーズンに目標だったインカレに出られて、唯一無二の、自分しかできないプログラムを観客や部員と一緒に作ることができて、今までで一番幸せな3分間でした」

インカレで自分のバナーを見つけ涙が出そうになった

インカレでは惜しくもフリーに進めなかったが、用意していた「火の鳥」も大切なプログラムだ。元フィギュアスケート選手で國學院大學助教の町田樹さんが演じた「火の鳥」の動画を繰り返し見て、いつか踊ってみたいと心に秘めていた。たまたま拠点リンクで町田さんに会った際、この曲を使いたいと伝えると、喜んでくれたという。そして「この曲はジャンプだけでなく表現も大事だから」とアドバイスをもらい、思い出になった。

まずは沖縄でスケートの楽しさを広めたい

卒業後は沖縄に戻り、津留コーチのアシスタントを務めながらスケートの指導者を目指す。コーチの養成講習会に参加し、検定試験も受検している。

まずは競技環境を良くし、「沖縄でスケートの楽しさを広めたい」と目を輝かせる。子どもの習い事だけではなく、大人も楽しめるようなスケート愛好者を増やしていきたいという。将来は沖縄から国民スポーツ大会や全日本選手権に出場する選手を育てることが夢だ。

ラストのインカレは沖縄の曲を披露し、幸せな時間を共有した

子どもの頃に出会った大好きなスケート。その楽しさを伝え続けたい。いつか沖縄でスケートが盛んになる日を夢見て、園田の挑戦が始まる。

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