野球

特集:駆け抜けた4years.2024

仙台大学・坂口雅哉 ベストナイン3度受賞の好捕手が貫く「プロに近づく」ための行動

4年春のリーグ戦で優勝を決めた試合後に笑顔を見せる仙台大の坂口(中央、すべて撮影・川浪康太郎)

昨年11月下旬、取材で仙台大学硬式野球部のグラウンドを訪れると、1カ月半前に学生野球を引退したはずの4年生・坂口雅哉(八王子学園八王子)が打撃練習で快音を飛ばしていた。仙台六大学リーグで3度のベストナインに輝いた強打の捕手。聞けば、最後の秋季リーグ戦が終わってからも自主練習を欠かしておらず、週に3日ほどは全体練習にも参加していたという。「チームの中で一番、練習したと思う」と胸を張る坂口は、これまでも、これからも、貪欲(どんよく)に野球と向き合う。

【特集】駆け抜けた4years.2024

「右打ちの一塁手」→「左打ちの捕手」

坂口は常に「プロ野球選手になる」という目標に近づくための選択をしてきた。例えば、高校生の頃。1年の夏に「右打ちの一塁手」から「左打ちの捕手」に転向した。

中学時代は地元東京の強豪・江戸川区立上一色中学校の野球部でプレーした。3年時は「4番・一塁」に座り、同期の横山陸人(現・千葉ロッテマリーンズ)らとともにチームを全国準優勝に導いた。高校進学後は「プロにいくならキャッチャー」という考えで、小学生の頃に経験していた捕手に再挑戦。さらに、斜視の影響で硬式球や変化球への対応に苦戦したことから、球が見やすい左打ちに転向した。

プロをめざすため「右打ちの一塁手」から「左打ちの捕手」に転向した

全国の舞台で結果を残した「右打ちの一塁手」を継続することもできた。ただ、選手としての成長に「限界」を感じた坂口は、先を見据えて自ら変化を起こした。高校では目立った実績こそ残せなかったものの、2年秋から正捕手を務め、実戦の中で配球の基礎を学んだ。

コロナ禍で味わった緊迫のブルペン

高校卒業後は東京を離れ仙台大に進んだ。練習や設備を見学した上で、野球に集中できる環境を求めて仙台大を進学先に選んだ。

当時はコロナ禍の真っただ中で、入学してすぐの春季リーグ戦は中止になった。全体練習や試合が行われない期間、坂口は地元に戻らず寮生活を送り続け、ウェートトレーニングに励んだ。この時に寮生活をともにしていた当時の4年生・宇田川優希(現・オリックス・バファローズ)との出会いが大きな転機になった。

宇田川からはトレーニングやサプリメントに関する助言を受けたほか、キャッチングや投手とのコミュニケーションの取り方など、捕手としての基本も教わった。また、実際に宇田川の球を受ける機会もあった。

宇田川から学んだ投手との対話を、試合中に実践する坂口

「プロのスカウトがウダさんを見にきた時に『(球を)受けてくれ』と言ってくれたんです。音を鳴らして気持ちよく投げさせないといけないし、後ろにそらすわけにもいかない。試合ではないですけど、ものすごい緊張感でした」

高校を卒業したばかりの捕手には酷な状況だが、坂口にとっては願ってもない機会だった。コロナ禍でも経験値と自信を得て、2年春からはリーグ戦の出場機会をつかんだ。

成功も失敗も成長の糧にした4年間

スタートダッシュを切れたとはいえ、4年間すべてが順風満帆だったわけではない。最初の壁にぶち当たったのは2年秋。夏のオープン戦では1番手起用が続いていたにもかかわらず、秋季リーグ戦が始まると別の選手に正捕手の座を奪われた。

「なんで俺じゃないんだ……」。すぐには理由が分からなかった。それでもシーズンを終えて自己分析した結果、明確な課題が見つかった。正捕手の選手が公式戦で1度もパスボールを記録しなかったのに対し、坂口は2試合に1回のペースで後逸していたのだ。

高いレベルで野球を学び、課題を克服するため、オフシーズンは森本吉謙監督に頼み込んで社会人野球チームの練習に参加した。当時からプロ注目だった同期の辻本倫太郎(中日ドラゴンズ3位指名)についていく形で参加することもあった。社会人の選手から体で球を止める技術などを学ぶと、守備力は格段に向上した。

正捕手から外れると課題を分析し、行動に移した

3年春は正捕手に定着したが、リーグ戦最終節で東北福祉大学に負け越して優勝を逃し、またしても壁にぶつかった。「強力な投手陣がいる中で負けたということは自分のせい」。杉澤龍(現・オリックス)、甲斐生海(現・福岡ソフトバンクホークス)ら強打者にここぞの場面で一発を浴びたことが敗戦につながっただけに、自責の念に駆られた。

「構えたところに投げてくれる投手陣なので、安心しきってしまっていた。どんなにコントロールのいいピッチャーでも間違えることはあって、いいバッターは失投をホームランにしてしまう。間違い方を間違えないために、ただ構えるのではなく、『このバッターのこのゾーンはダメだよ』など自分の意思をジェスチャーでもっとはっきりと伝えないといけない」

第2の故郷・宮城での挑戦は続く

苦い記憶を胸に刻み、それ以降は日常生活における会話から試合中のジェスチャーまで、常に意識を張り巡らせて投手陣とのコミュニケーションを図った。同時に、ほぼ毎日欠かさずバットを振り、自己流で磨いてきた打撃も、小野寺和也コーチの指導を受けながら改良した。3年秋からは中軸を打つ正捕手として攻守の要を担い、3季連続でベストナインを受賞。2度の全国大会出場にも大きく貢献した。

大学卒業後は、宮城県石巻市を本拠とする日本製紙石巻でプレーする。2年冬以降に練習参加した社会人チームの一つで、「プロに近づける」と感じたのがやはり一番の理由だった。「試合に出ることが、『好きなようにしていい』と言ってくれた親への恩返しになる」との思いを高校生の頃から抱いており、現在は2年後のプロ入りを目指すのはもちろん、レギュラー奪取を目下の目標に掲げる。

今後は社会人チームに進み、プロ入りを目指す

自らの成長を第一に考えた選択、熱心な自己分析と積極的な他者へのアプローチ、そして誰にも負けない練習量――。すべては目標を達成するための行動だった。駆け抜けた4years.の先には、必ずゴールがある。

in Additionあわせて読みたい