陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2024

駒澤大・赤星雄斗 箱根駅伝での悔しい思いは実業団で晴らす 今後はマラソンにも挑戦

自身ラストの箱根駅伝を走る駒澤大の赤星(撮影・宮澤希々)

「全体的に考えたら、充実した4年間でした。監督やコーチ、同期などに恵まれた幸せな4年間だったと思います」。駒澤大学の赤星雄斗(4年、洛南)の3大駅伝デビューは、2年時の全日本大学駅伝。以降、計4度の出走を果たした。ロードで勝負していきたいと選んだ駒澤大での4年間を振り返った。

【特集】 駆け抜けた4years.2024

自信をつけたニューヨークシティハーフマラソン

大学で駒澤を選んだのは「距離で強いイメージがあった」から。大学ではハーフマラソン、将来的にはマラソンを、と思っていたため決めたという。

1年目は練習についていけず、苦しかった。夏合宿で「結構できた」と自信をつけたものの、同期はつわものぞろい。10000mで一気に28分10秒台を出す選手たちもいて、焦りがあった。ただ、年末のタイムトライアルでトップを取れたことが2年目につながった。

今まで「暑い中のレースは苦手」と避けてきていたが、挑戦すると5000mで初めて13分台を出せた。夏も好調のまま終えると、2年目の全日本大学駅伝でついに3大駅伝デビューを果たした。メンバーに入れたのは「たまたま」だと話すが、「自分が走る時は根拠のない自信があって、いけると思いました(笑)。区間4位で、初めてにしては良い感じで走れたんじゃないかと思います」と振り返る。

3大駅伝デビューとなった2年目の全日本は4区区間4位で終えた(撮影・西畑志朗)

3年目は赤星にとって大きな転機となった。11月の上尾シティハーフマラソンで学生3番手に入り、ハーフで初めて結果を残せた喜びを感じた。また、この大会でニューヨークシティハーフマラソンへの派遣が決定。ニューヨークは4年間で1番印象に残っているレースだという。初めての海外レースで、スタートラインに立つと世界記録保持者や世界大会で活躍する選手がいた。スタートして10kmぐらいまではその選手たちと並走できたことが自信につながり、4年目の活躍につながるターニングポイントになった。また、ニューヨークには大八木弘明総監督と妻の京子さんが同行し「勇退されるタイミングで一緒に海外に行けたのは恩返しができたのかな、ってことでとても良かったです」。

スランプから抜け出すきっかけとなった藤田監督の言葉

ラストイヤーの前半は関東インカレ2部ハーフマラソンで優勝。しかし、3年目まで順調にこなせていた夏合宿で試練があった。

関東インカレのゴール後は応援していた仲間にガッツポーズで応えた(撮影・藤井みさ)

駅伝シーズンに向けて大事な時期となる夏合宿。序盤はチームの核となる4年生の中でポイント練習に参加できていたのは赤星と鈴木芽吹(4年、佐久長聖)、金子伊吹(4年、藤沢翔陵)のみ。他の選手たちは全員故障などで抜けており、チームとしてあまり良くない状態だった。この状況で赤星は「自分も最上級生として何とかしないと」と思い、普段はBチームでやっている練習をAチームでやるなど無理をしたことで空回りしてしまった。

1次合宿の途中からなかなか疲労が抜けないようになり、普段ならこなせるポイント練習もこなせなくなった。志賀高原での2次合宿に入ってもその状態は続き、どれだけ疲労を抜こうとしても抜けない。「全く体が言うこと聞かず、練習が継続できなかったのがつらかったです」

2次合宿の1回目の距離走ですぐに集団から離されてしまい、練習の途中だが、そのまま宿舎に戻ることになった。

「藤田(敦史)監督はいつもそういう時に声をかけてくださって、その時自分はかなり責任を感じていたので『チームに迷惑ばかりかけてすみません』と大泣きしながら伝えました。藤田監督からは『今、お前が苦しんでいる時はチームが支えてくれるんだ。チームが苦しんだ時はお前が支えてやれ』という言葉をいただいて、そこからちょっとずつではあるんですけど、立て直せました」

4年目の夏合宿で調子を落としたが、復調してきた(撮影・浅野有美)

3大駅伝初出走の後輩へ、最上級生としての声かけ

最後の箱根駅伝は、優勝すれば前人未到の「2年連続三冠」を達成する大事なレースだった。往路はトップの青山学院大学と2分38秒差の2位。6区の帰山侑大(2年、樹徳)と10区の庭瀬俊輝(3年、大分東明)が3大駅伝初出走となる中、赤星をはじめ復路にエントリーされた4年生たちは、後輩たちに少しでも楽になってもらおうと「ここで巻き返そう」と誓った。

いつもは試合前にネガティブになる赤星も、今回ばかりは最上級生として「自分がなんとかするから。大舞台だからこそ楽しんで走れ」と2人に声をかけた。前年に赤星自身が初めての箱根路を楽しんで走れた分、後輩たちにもその経験を味わってもらおうという優しい赤星らしい声かけだった。

復路はスタートから、先頭の青山学院大と差が広がっていった。赤星はこの1年、何度も藤田監督が言ってきた「一つひとつ戦っていくこと」を意識していたが、いざ平塚中継所のスタートラインに立つと「やっぱり体は正直で、思っていたよりもプレッシャーを感じていた」。10kmぐらいから体がきつくなり、事前に「笑わせてくれ」と頼んでいた唐澤拓海(4年、花咲徳栄)から15km地点で給水を受けても、笑うどころではなかったという。

それでも「思うような結果は出なくて悔しい結果に終わったんですけど、自分としてはやり切りました」。区間4位で最後の箱根駅伝を終えた。

最後の箱根は苦しい走りになったが「やり切った」(撮影・浅野有美)

「『目立たない走り』とか言ってたんですけど、本当はもうちょっと目立ちたかったです(笑)」と赤星。4年間でやり残したことはあるようだが、卒業後はマラソンで世界大会に出るという目標に向け、実業団で競技を続ける。「箱根駅伝で悔しい思いをした借りを、もう箱根では返せない。この悔しい思いは実業団で生かしたい」。まずはマラソンを走るための土台作りから。地道にコツコツ、今後も陸上人生を駆け抜けていく。

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