専修大・原田周大 キャンパス周辺の坂で鍛えた4年間、パリオリンピックで金メダルを
昨年10月、今夏に開催されるパリオリンピック・ボクシング男子57kg級の出場権を獲得した専修大学の原田周大(4年、豊国学園)。北九州で過ごした高校時代に無冠だったボクサーは、関東で過ごした大学4年間でいかにして大きく飛躍したのか。
内心どこかで、声をかけられると思ったが……
冬晴れの昼下がり、小高い丘の上にある専修大学生田キャンパスには大きな垂れ幕がかかっていた。プロ野球の東京ヤクルトスワローズからドラフト1位指名を受けた西舘昂汰投手(4年、筑陽学園)らとともにその名前はあった。
「祝 2024パリ五輪出場内定 原田周大選手 法学部4年」
中国から凱旋(がいせん)帰国して4カ月。本人に取り巻く環境の変化を尋ねると、首を横に振って苦笑する。ボクシング場への道すがら、同じ専大の学生とすれ違っても気付かれることがなく、学生食堂でも1人で好物のチーズハンバーグ定食を食べているという。
「内心、大学内のどこかで『原田選手ですか?』と少しくらい声をかけられるかなと思っていましたが、まったくないですね」
自虐交じりに話す、柔和な表情には気さくな人柄がにじむ。カジュアルな黒のパーカーがよく似合う22歳の大学生も、リングの上ではスポットライトを浴びる存在になる。
持ち味のスピードを発揮し、つかんだパリ行きの切符
2023年10月4日、熱気が充満する中国の杭州体育館。パリオリンピック男子57kg級の出場枠をかけた準決勝のリングに向かう原田は、目の前の試合に勝つことに集中していた。すでに東京オリンピックに続いて2大会連続の出場権をつかんでいた岡澤セオンから「お前なら行けるよ」と背中を押され、堂々と決戦の舞台へ。あと1勝のプレッシャーは、さほど感じていなかったという。
「リングに立っていたタイ人の選手をどう攻略するか。それだけを考えていました。思ったよりも身長が高かったので」
1回から落ち着いて対応し、イーブンの採点で迎えた最終ラウンドの3回。スタミナは十分に残っていた。コーチの指示に従って足を使い、プレスをぐいぐいとかけてくる相手を持ち味のスピードで翻弄(ほんろう)。ラウンド途中にかかった「前で止めろ」という助言を耳に入れ、得意の左ジャブを上下に打ち分ける。ポイントを取っている手応えはあった。判定結果は予想通り。レフェリーに手を挙げられ、気付けば「パリに行くぞー」と雄たけびを上げていた。熱を帯びたリングの上で息を整えると、大会前の記憶が一気によみがえった。
鋭い左ジャブを支える強靱な足腰
残暑が厳しい9月。息が上がるまで生田キャンパスの外周を走り、自らを追い込んでいた。
「いつも同じ景色なので、きつくて、しんどくて、嫌になりそうでした。でも、『ここで走ったから勝てたんだ』と思いたくて。アジア大会をイメージし、1人で2日に1回のペースで走り込み、その後にボクシング場でサンドバッグを打っていました」
ある日は坂道ダッシュ、またある日は10kmのジョグ。日によって走るメニューも変えていたが、生田キャンパス周辺はどこを選んでも起伏のあるコースばかり。最も歯ごたえがあるのは、寮のすぐ隣の坂道だ。4年前の春に入寮し、初日の朝練習から音を上げそうになったことは、いまでもよく覚えている。
「本当にめちゃくちゃきつくて。最初は酸欠で足が痛くなり、立てなくなりましたから。かなりの傾斜があるんですよ」
ただ、その坂道で4年間鍛えた脚力こそが、原田のボクシングを支えるベースになっている。アジア大会の大一番でさえ渡った鋭い左ジャブは、強い足腰から繰り出されたもの。自らフェンシングに例え、不意を突く一発でポイントを稼いできた。出入りの速さには、絶対の自信を持っている。
「実際、国際舞台でも通用しました。高校時代の土台はありますが、今の爆発力は大学でより増したのかなと。ジャブだけは誰にも負けない、いや負けたくないと思って、ずっと磨いてきた武器です」
世界の大舞台を見据えてフェザー級に転向
大学1年時の前期はコロナ禍の影響でボクシング場を使用できず、監督、コーチの指導をまともに受けられなかったが、その分自ら目的意識を持って練習に取り組んできた。常に試合をイメージし、路上でシャドーボクシングに励んだという。同期の仲間たちと互いにミットを持ち、パンチを打ち込むこともあった。
「左をうまく使うためにどうすればいいのか。左を当てた後、どうすればポイントを取れるのか。毎日のように考えていました。ちょっとでもいいからレベルを上げたかったんです。路上の練習から何か一つでも覚えようとしていました。コロナ禍でも地元、北九州の友達たちは社会に出て働いていたので、彼らと同じくらい頑張らないと、顔向けできないという思いもありましたね」
高い意識を持った練習の積み重ねは、2年目以降に生きてきた。2021年の全日本選手権ではバンタム級で優勝。高校時代の最高成績は国体での準優勝だったが、すでにこのとき日本一の座では満足できなくなっていた。「もっと強い人たちはいる。僕はまだ本物ではない」と自ら言い聞かせた。恩師であるHKスポーツボクシングジム(北九州)の桑原秀彦会長、専修大の小坂則夫監督には「お前の夢は何だ?」と言われていた。原田が目指していたのは、世界の大舞台。翌年にはパリオリンピックを見据えて、フェザー級への転級を決意した。周囲からは1階級上げることに対し、慎重な意見もあったが、本人の意志は固かった。
「『まだ若いから』と言われても、個人的には(パリを)狙いたかった。これまで取り組んでいなかった筋トレにも力を入れ、体を作り直しました」
2022年1月、U-22アジア選手権の決勝でパワーの差を痛感した。同年11月の全日本選手権ではフィジカル強化が実り、フェザー級を制覇。原田は世界の壁にぶつかるたびに課題を見つけ、成長してきた。2023年5月に出場した世界選手権は初戦で敗れ、技術の違いを思い知らされた。アジア大会前に実力を示すつもりが、厳しい現実を突きつけられてしまった。
「なぜ、自分が負けたのかも分かりませんでした。いま思えば、僕自身、世界レベルのボクシングをまったく理解していなかったです」
留年覚悟で同行した海外合宿
その答えを見つけるために支援企業のサポートも受け、留年を覚悟して岡澤らに誘われた海外合宿に同行した。すべては世界で勝つためだ。5、6月にカザフスタン、ウズベキスタンで練習を積み、7月にはイタリアでスパーリングを重ねて、ボクシングをイチから見直した。
「行く価値は、ものすごくありましたね。カザフスタン、ウズベキスタンの選手たちと一緒に練習してスパーリングを繰り返すことで、彼らがなぜ強いのか分かりました。基礎技術の徹底、さらなるフィジカルの強化、特に足の動きは勉強になりました」
大学の単位は落としたが、武者修行の成果は周知の通りだ。アジア大会で銀メダルを獲得。ただ、念願だったパリ行きの切符を手に入れても、胸を張って帰国の途につくことはできなかった。決勝では世界選手権の覇者、ウズベキスタン代表のアブドゥマリク・ハロコフに技術とスピードで圧倒される。想定より5cm以上遠い距離からパンチを浴び、最後まで距離感をつかめなかった。屈辱の2回RSC負けを喫し、左の眼窩底(がんかてい)骨折で入院。改めて試合を思い返すと、苦虫をかみつぶしたような顔になる。
「ハロコフをイメージし、彼に勝つために練習していたんです。ようやく戦えるチャンスが巡ってきたと思い、かなり意気込んでいたのですが、ボコボコにやられました。こんなにも差があるのかって。絶望に近い感情を覚えましたね。日本に帰るときはオリンピックを決めたうれしさよりも、悔しさのほうが大きかったです」
ハロコフを倒すために
想像以上に高かった本物の壁の存在はいま、大きなモチベーションになっている。負けたまま終わるつもりはない。今春からは練習拠点を地元の北九州に移し、夏のパリで雪辱を果たすためにトレーニングに取り組んでいくという。
「絶対にハロコフを倒したいです。他の誰かには負けてほしくない。決勝で対戦するのが一番いいかなと。僕は金メダルしか見ていません。もう負けたくないので」
卒業は少し先延ばしになったが、秋には「金メダリストの5年生」として専修大に戻り、残りの単位を取得する予定だ。そのときは、生田キャンパスですれ違う学生たちに声をかけられているかもしれない。原田は半年先の未来を想像し、人懐っこい笑顔を浮かべた。