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立教大学・古庄直樹コーチ 学生と一緒に笑って泣いた「人生の第3ステージ」元年

昨年11月の東大戦で、ディフェンスの選手たちに語りかける立教大学の古庄直樹コーチ(近影はすべて撮影・北川直樹)

2023年シーズンの関東大学アメリカンフットボールリーグ1部TOP8で、日本のルーツ校が久々に輝いた。今年創部90周年を迎える立教大学ラッシャーズだ。法政大学に敗れただけで5戦目を終えた時点では、58年ぶりの甲子園ボウル出場の芽もあった。結局5勝1敗でシーズンを終え、早稲田大学との最終戦を落とした法政とトップで並んだが、直接対決の結果により順列2位。躍進を支えた一人が、就任1年目でディフェンスコーディネーター(DC)を務めた古庄直樹コーチ(こしょう、46)だった。

「気迫の塊」のような元日本代表キャプテン

昨年11月23日、立教は東京大学とのリーグ最終戦を62-35で制した。前半は東大オフェンスの繰り出すフレックスボーンからのオプションに手を焼いたが、後半はアジャストし、突き放した。「フレックスボーンのチームとやるのは僕自身の4回生ラストゲームの京大戦以来。今日が学生を教えて1年目の最後だったから、これも運命かなと感じました。立教のこと、選手のこと、何も知らずに来たんですけど、こんなに楽しませてもらえるとは」。試合後の横浜スタジアムで、古庄コーチが笑った。

シーガルズ時代から選手勧誘で大学生とのコミュニケーションはとっていた

日本代表のキャプテンを務めたこともあり、日本のフットボールを長く見ている人にとっては説明もいらない人物だ。立命館大学でDB(ディフェンスバック)として活躍。体は小さくても動きにキレがあり、何より気迫の塊のような男で、笛が鳴り終わるまでプレーし続けた。私が最初に彼を認識したのは、下級生のころの平成ボウル。民放の深夜の録画放送を見ていると、パントでナイスカバーをした立命の選手に対し、実況のアナウンサーが「ふるしょう、いいですね~」と言った。すると解説の河口正史さんがボソッと「こしょうです」とつぶやいた。

野球からアメフトに転じた関西大倉高校ではRB(ランニングバック)だったから、大学でも時にリターナーとして鋭い走りを見せた。2001年から15年までXリーグのオービックシーガルズでプレー。07~14年の長きにわたってキャプテンを務め、その間、大橋誠ヘッドコーチ(現・中京大ヘッドコーチ)とのコンビで史上初のライスボウル4連覇を達成した。10年からはコーチ兼任で、選手を退いてすぐの15年にDCに。翌16~19年まではヘッドコーチに就いたがXリーグ王者に返り咲けず、苦しい時期を過ごした。20~22年は再びDC。23年にシーガルズを離れ、立教へやってきた。

選手時代は日本代表の常連だった(撮影・朝日新聞社)

当初は週4日、のめり込んで夏から週6日に

23年2月4日のシーズンイン礼拝から、古庄コーチはラッシャーズに加わった。「ああ、こういう文化があるチームなんだな」と受け止めた。礼拝の間にフットボール人生を振り返り、ここからの一年について考えたという。納会に出ると、チームを出ていくキャプテンがあいさつに立ち、両親に対して「22年間育ててくれてありがとうございました」と言った。それを聞いて古庄コーチは思った。「シーガルズに22年いたんで、俺がシーガルズに入ったタイミングで彼らが生まれて、彼らがラッシャーズを出ていくタイミングで俺がチームに加わって。大学までの22年、シーガルズでの22年があって、ここから俺にとっての第3ステージが始まるんやな」

週に4日練習に出るスタイルで、コーチ生活が始まった。春のオープン戦、定期戦に向けては「去年は順位が上のチームでも、今年のスタートラインは一緒のはずや」と選手たちに言ってきた。4月、関西大学に0-12で負け、5月は前年の甲子園ボウルに出た早稲田大学に24-21で勝ち、6月は学生王者の関西学院大学に0-20で敗れた。「少しずつ勝つチームが作れると信じられる瞬間が増えた。早稲田に勝てたのが大きかったし、関大、関学にはめちゃくちゃやられるのも覚悟してたけど、戦えるのが分かった」

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「関東側から甲子園ボウルを目指すなんて考えもしなかった」と古庄コーチ

平日は午後9時前に練習が終わると、すぐに映像をチェックしてコメントをつける。選手たちがその日のうちに振り返られるように。朝起きて、その日の練習メニューを考える。秋のシーズン初戦が見えてくると、どんどんのめり込んでいった。週4日だったのが、8月からは週6回すべての練習に通った。「週6日やけど『週10日』ぐらいの感じで、睡眠時間を削ってやってました」

とくに印象に残った「ガク」と「ユウ」

古庄コーチのもう一つの顔が治療家だ。シーガルズの選手時代に専門学校に通って資格をとり、鍼灸接骨院を開業した。「スポーツ選手として、選手の気持ちを理解できる治療家として生きていきたかった」。治療だけでなくトータルでの健康管理ができないかと模索し、シーガルズを離れてから準備を進めてきたが、「夏以降は完全にフットボール優先の生活になりました」と笑う。「選手の熱がすごくて、全力で応えないといけない。リーグ初戦から勝って泣き、負けては泣いて。たった1シーズンやのに、何シーズンもやってる気持ちになりました。ほんとにもらい泣きしましたから。こういう世界があるって、ラッシャーズに入ってみないと分からなかったですね」

コーチとして学生と向き合った最初のシーズンで、とくに印象に残った2人の選手がいる。4年生DL(ディフェンスライン)の玉川雅久(がく、立教新座)と3年生DB(ディフェンスバック)の金子湧(ゆう、佼成学園)だ。「ガクとユウはフットボールに対する物差しを持ってる子だった。自分はここまでフットボールに打ち込むんだというのが、本当に一年を通じて変わらなかった。学生でその域に達してるのはすごいなと思ったし、あの子らがラッシャーズに与える影響は大きかった」。玉川はリーグ戦で通算4度のQBサックを決め、TOP8で2位タイ。「オール関東」に選出された。古庄コーチの選手時代と同じ2番をつける金子は、24年度のキャプテンに就任した。

東大戦でDL玉川(左)と話す。玉川はいま、柔術に取り組んでいる

古庄コーチは就任間もなくの昨春から「みんな一生懸命やるチームだな。おもろいし可能性のあるチームやな」と感じていたそうだ。その中でも玉川は異色の存在だったという。「みんながサボらない中でも、『コイツほんまにずっとやるな』って気づいたんです。練習だろうが試合だろうが、暑かろうが強い相手だろうが、手を抜かない。人数が多いチームじゃないから、同じポジションで誰かが休んだら練習に入りっぱなしになることもあるけど、決して自分から抜けようとはしなかった。こっちで止めたぐらい」。タックルなしの練習でも玉川がタックルに入ってしまうことがあった。注意すると、玉川は「でもここまでやっとかないと試合でできませんよね」と返したそうだ。そんなときは古庄コーチが「最後の最後のヒットは試合に残しとくっていうメンタリティーでギリギリまでやると、試合の日に解放されてめちゃいいねんぞ。それはめっちゃレベルの高いことやけど」と言った。主張もありながら、聞く耳を持っているところも、玉川のよさだったという。

昨秋のシーズンが深まると、古庄コーチのやりたいディフェンスを玉川や金子たち数人が理解してくれて、一緒に作っていけている実感があった。「今年は一緒に作るメンバーを去年より増やそう、と考えられる。それが去年との一番大きな違いかな」と古庄コーチ。今年から、シーガルズで古庄コーチとともに戦ってきた平澤徹コーチ(DL、関西学院大)が加わったのも、「古庄ディフェンス」を作る上では追い風だ。

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「ラッシャーズに来てよかった」と言ってもらえるように

初めて学生を教えるにあたって、古庄コーチが「これだけは、やらなあかん」と決めていたことがあった。「いろんな選択肢があるこの時代に、ラッシャーズでフットボールをやると決めてくれた。そんな学生たちに『やっぱアメフトおもしろいな』『ラッシャーズに来てよかったな』と言って出ていってもらえるようにしたかった」。いつもそのミッションが心にあった。そして最後、甲子園ボウルには届かなかったが、「いい顔して引退していった4年生たちを見られたから、そこの役割は果たせたのかなと思います」。古庄コーチはそう振り返る。

ラッシャーズのコーチをやって気づいたのは、「学生に伸びない子はいない」ということだという。「社会人のクラブチームは練習が少ないし、すでに自分のスタイルを持ってる選手もいて、伸びないヤツは伸びない。でも立教では『この子は厳しいやろな』と思ってても変わっていった選手が何人もいた。それがうれしかったですね」

今年2月のトレーニング合宿で学生たちに語りかける

古庄コーチの輝かしいフットボール人生で、あまり触れられることのない時期がある。大学時代に強豪実業団の松下電工から声がかかったが、「人と違う選択をしたい」と、「打倒電工」を掲げるマイカルへの入社を決めた。しかし廃部騒動が浮上。入社を前に呆然(ぼうぜん)とする彼と向き合った日を、私は昨日のことのように思い出せる。その後、マイカルはクラブチームとして再出発することになり、2000年のシーズンだけマイカルで戦った。あのころ彼は言っていた。「高校から始めたフットボールが、自分を成長させてくれた。ずっと関わっていたいと思ってます。引退したら柔道整復師の資格をとって、フットボールへの恩返しがしたい」と。あの時期は、彼の人生にとって大事な時間だったと思う。

結局、選手として第一線で戦い続けながら治療家となった。そしていま、学生と向き合うことでもフットボールへの恩返しをしている。古庄直樹の「人生第3ステージ」も、この目で見ていきたいと思う。

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