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特集:2024年 大学球界のドラフト候補たち

日体大・寺西成騎 コロナを機に手術決断、大学3年目のブレークから上位指名をめざす

寺西は昨春に5勝を挙げてブレーク、秋のドラフト候補として名前が挙がる(撮影・井上翔太)

日本体育大学の寺西成騎(4年、星稜)は高校3年の春に右肩を手術し、日体大に入ってからも最初の2年間は首都大学リーグでの登板機会がなかった。ところが、デビューとなった3年春にいきなり5勝をマーク。チームの全日本大学選手権出場に貢献し、一躍ドラフト候補として注目されるようになった。

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高校1年の夏から甲子園のマウンドを経験

寺西は高校1年生のときから、甲子園のマウンドを経験している。2018年の第100回全国高校野球選手権記念大会。チームは開幕戦に登場し、このときはOBの松井秀喜さんが始球式を務めた。1学年先輩のエース・奥川恭伸(現・東京ヤクルトスワローズ)の後を受けて、5点リードの九回に登板。「いろんなものが重くのしかかっていて、一番緊張した試合でした。あそこまで大人数の前で野球をするのは初めてでしたし、足が震えました」と当時を振り返る。

一番印象に残っているのは、延長13回のタイブレークにまでもつれた2回戦の済美(愛媛)戦。1点リードの八回に逆転3ランを浴びた場面だという。「あのときは細かいことを考えずに、自分が持っている力をぶつけることしか考えてなかったんです。でもホームランを打たれたシーンだけ、右バッターのインコースに置きにいってしまった」。チームも敗れ、その後は悔しさを晴らすため、練習に励んだ。

奥川が翌年の秋にドラフト1位指名を受けてプロに進んだことで、寺西の夢も膨らんだ。改めて奥川のすごさを尋ねると、「意外とフレンドリーで、『みんなと楽しくやる』ことが好きな方なんですけど、いざキャッチボールやピッチングとなると、すごく頭を使って投げているんです。高校生のときからレベルの高いことをされているんだな、と感じていました」。プロに行くには何が必要か、目標となる存在が身近にあった。

星稜高校時代からマウンド経験は豊富だ(撮影・小俣勇貴)

練習でキャッチャーまで届かず……

星稜が準優勝に輝いた翌年夏の甲子園にも、寺西は登板している。ただ、右肩にはずっと違和感を覚えていた。「夏の石川大会の前ぐらいから、『アドレナリンが出ないと投げられない』という状態でした。痛かったけど、アドレナリンに頼ってしまっていました。甲子園で投げたい思いがあったので、隠していたところはあります」

新チームとなった後、優勝を果たした秋の北信越大会でも投げた。ところが神宮大会を控えた練習中、野手との投内連係で軽くキャッチャーまで投げた際、ボールがノーバウンドで届かず「もう無理だと思いました」。練習を中断し、関節唇(しん)損傷の診断を受けた。

ノースローで様子を見るか、手術に踏み切るか。最終的に手術を決断できたのは、コロナ禍の影響も大きかった。出場を決めていた選抜高校野球大会が中止になり、最初の緊急事態宣言が発令された2020年4月、寺西は右肩のクリーニング手術を受けた。「あの頃はチームの練習もなかったですし、地元に戻って体を動かす程度しかできませんでした。コロナがなかったら、もしかしたら手術しなかった可能性もあると思います」

コロナ禍が右肩の手術に踏み切った要因の一つだったと振り返る(撮影・居石忠)

奥川のように高校からプロをめざす道は、この時点でほぼ諦め「大学からプロに行けるよう、練習だけは怠らずにやろうと思いました」。松本航(現・埼玉西武ライオンズ)や東妻勇輔(現・千葉ロッテマリーンズ)ら投手の育成に定評がある日体大に進んだ。

約3年ぶりの復帰戦で148キロをマーク

元中日ドラゴンズの投手・辻孟彦コーチからは「けがを完璧に治してから投げよう」と言われ、寺西自身も納得。1年目はまるまるトレーニングに充てた。「野球選手にとって野球ができないことは、一番つらい。そのことを身をもって感じたので、体のケアやトレーニングは高校時代より重点的にやっていました」。ただリハビリも順風満帆とはいかず、2年生になるときにキャッチボールや捕手を立たせた状態でのブルペン投球ができるようになったところで、再び肩を痛めた。

辻コーチが当時を回想する。「徐々に同級生が試合で投げ始める中で、ちょっと焦りも感じられました。そこで『まだ2年生のはじめだ。4年生のときに自分の実力がどうなのか、というのが一番大事なんだ』という話をしました。そこから、一つひとつへの取り組み方が、より丁寧になりましたね」。周りに流されず、1人でも淡々と練習できるようになり。練習の質が上がったという。

大学では一つひとつの練習により丁寧に取り組むようになった(撮影・井上翔太)

3年生になるとき、約3年ぶりの復帰戦で当時の最速だった148キロを計測し「自然と力がついていたんだな、と感じました」。春に首都大学リーグでのデビューを果たすと、イニング制限もありながら5勝。防御率0.31という圧巻の成績を残し、優勝に貢献した。「たぶん他の大学は僕のデータがなかったと思いますし、後ろのピッチャーにも助けられました」と本人は謙遜する。

「正しいトレーニングは絶対にある」

一方、昨秋は課題を残した。最速を更新する153キロを出した分「スピードを出しにいくことで、コントロールに重点を置かなくなってしまった」。コンディションは春より良かったのに、成績が伴わず2勝(2敗)。神宮大会では慶應義塾大学主将の廣瀬隆太(現・福岡ソフトバンクホークス)に3ランを浴びて敗れた。「ツーボールになったところで、サインはインコースの真っすぐだったんですけど、首振ってフォークを投げました。『打ち損じてくれ』という思いだったんですが、抜けてしまいました」。高校時代と同様、後悔している1球だ。

昨秋、神宮大会で浴びた3ランは課題の残る1球だった(撮影・小俣勇貴)

ラストシーズンに向けて、本人はまだまだ伸びしろ十分と感じている。「昨年は5、6イニングで終わることが多かったので、今年は先発として完投完封ができるようになりたいです」。スタミナをさらにつけるため、日頃から「すべての練習メニューで最高出力」を心がけているという。「練習からマックスでやらないと、マックスって伸びないと思うんです。手を抜かないということを一番大事にしています」

高校時代はけがに加え、最後の夏もコロナの影響で中止になり、納得のいく形で終わることができなかった。当時の自分に伝えたいことを尋ねると、「正しいトレーニングは絶対にあるので、どれだけ日がかかるか分からないけど、諦めないでほしい」と答えた寺西。これはいま悩んでいるすべての球児にも、当てはまることだろう。昨年以上の成績を残し、高校時代に成し遂げられなかったドラフト上位指名をめざす。

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