野球

日体大・関戸康介 明徳義塾中・大阪桐蔭高時代から注目浴びた右腕、勝負の3、4年目

中学高校時代から注目を集めてきた日体大の関戸(撮影・井上翔太)

明徳義塾中学(高知)時代に最速146キロを計測した当時から、日本体育大学の関戸康介(2年、大阪桐蔭)は野球ファンの間で注目を集めていた。ただ高校時代、甲子園での登板は3年春の第93回選抜高校野球大会のみ。制球に苦しみ、本来の姿からは程遠かった。大学でもここまで首都大学リーグでの登板はなし。野球を始めた頃から変わらないプロの世界をめざすため、はい上がる覚悟だ。

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高知で同学年の森木大智が大きな刺激に

長崎県佐世保市出身の関戸は進路を選択するとき、「自分が成長できる場所か」を常に念頭に置いてきた。小学1年で野球を始め、野球好きだった父親からは「とにかく遠くに、速いボールを投げろ」と言われて育った。「特別な知識とかはなかったんですけど、遊ぶときはずっと野球をやってました」。小6で129キロを投げるまでに成長した。

当時全国大会に出たときの姿を明徳義塾中の監督が知り、話をもらった関戸は野球環境に触れようと高知を訪れた。「そこで改めて話を聞かせてもらって、『いいなあ』と思って行きました。レベルの高いところで野球がしたいっていう思いがずっとあったので、親元を離れる不安もなかったです。楽しみが勝ってました」

先輩たちのレベルの高さもさることながら、同じ高知県内に同学年の森木大智(現・阪神タイガース)がいたことも、関戸にとっては大きな刺激だった。「中学1年の5月に対戦して、そこで初めて知りました。真っすぐもめちゃくちゃ速かったですし、フォームもきれいだったんで、普通にしてては絶対に勝てないなと」。中学時代に146キロを出した関戸だったが、「勝手にライバルと呼んでます」と評する森木は当時150キロ。「森木の方がすごかったので、僕は全然だと思っていました」と振り返る。

自分が成長できる場所を選び続け、中学から親元を離れた(撮影・居石忠)

人さし指の感覚が戻らなかった選抜大会

高校はそのまま明徳義塾高に進む道もあったが、「一度環境を変えたい」という思いが募った。地元に戻り「甲子園で春夏連覇したいと思いましたし、自分が成長できる場所かなとも思いました」と一般入試で大阪桐蔭高に入った。ボーイズリーグなど中学から硬式球に触れてきた選手たちが多い大阪桐蔭に対し、関戸は軟式出身。当初は「レベルの差を感じた」と言う。

高3春の選抜大会を控えた冬には、アクシデントにも見舞われた。バント練習をしていたとき、ボールがバットに当たる瞬間に右手を挟んでしまい、利き手の人さし指をけがしてしまった。爪がはがれ、骨にも少しヒビが入ってしまったという。その後はボールを投げる際、感覚がわからなくなることがあった。

「完治しきれなくて、感覚的にも精神的にも安定していない状態で投げてしまった」という選抜大会。1回戦の智弁学園高(奈良)戦で2番手としてマウンドに上がったが抜け球が多く、1回3分の1を投げて3四死球を与えた。「選抜で良い結果が出たらプロ志望届を出そうと決めていたんですけど、出なかったので……」と関戸。最後の夏を前に右肩を痛めてしまい、夏の甲子園はベンチ入りメンバーに選ばれたが、登板機会は巡ってこなかった。

高3の選抜では直前のけがを完治しきれないまま「感覚的にも精神的にも安定していない状態で投げてしまった」(撮影・前田充)

大学では「土台作り」からスタート

関戸には高校時代から、日体大の野球部に関心があった。「大阪桐蔭のコーチの方が日体を卒業されていて、お話を聞いてましたし、高校野球を引退してから野球部のYouTubeも拝見させていただいてました。投手としてプロ野球選手を輩出していますし、辻(孟彦)さんに教えていただいて、もう一度プロをめざせる選手になりたいと思いました」

中日ドラゴンズの元投手の辻コーチは、関戸についてこう語る。「もともと能力も高いし、名前も知られていた選手。高校の時のバント練習以降、思うようにいかないこともありましたけど、しっかりと練習を積んでいました。たぶん大学1年目から、バリバリ投げるつもりでは来ていないと思います。自分の置かれている状況もしっかりと理解して、練習に取り組める。そんな人間性があります」

大学ではまず「土台作り」からスタートした。「高校の最後にけがをして投げられなかったので、『けがをしない体作り』をしていました」と関戸。下半身のトレーニングだけでなく、上半身のインナーマッスルも鍛え上げ、大学での初実戦は2年生になるときの沖縄キャンプだった。いきなり150キロ超をマークし「全身を使えて、しっかり指にかかっている感覚もありました」。

日体大の野球部に入ると、まずは「土台作り」からスタート(撮影・井上翔太)

ただ、直後のオープン戦で再び肩を痛めてしまった。関節唇(しん)の損傷で半年ぐらい投げられず、チームが加盟する首都大学リーグでは入学から2年間、マウンドに上がることができていない。「もちろん早く投げたいという気持ちはあるんですけど、やっぱりトレーニングしないと投げられない。ただ昨年末から徐々に投げられるようになっているので、良くなっているという実感はあります」

大阪桐蔭の仲間と高め合ったからこそ

チームのエース・寺西成騎(3年、星稜)も2年目まではけがでリーグ戦に投げられない中、3年春に5勝を挙げてブレークした。春から上級生になる関戸も同じ道を歩めるか。本人はこの2年間を踏まえて、まずは野球観を取り戻したいと話す。「公式戦で投げないと分からない感覚もあるので、そこをもう一度感じ取りたいです」。投手は捕手のミットをめがけてただ投げればいい、というものではない。内野手との守備の連係や牽制(けんせい)球、相手打者との駆け引きも、中心投手になる上では大事な要素となる。

今になって改めて「大学でも野球ができていることは当たり前じゃない」と感じている。「野球をやめざるを得ない選択をした人もいっぱいいますし、大学に入ってから辞めてしまう選手も見てきました。自分がいま野球できていることに感謝しながら、日々過ごしています」

リーグ開幕を前に「野球ができていることに感謝しながら、日々過ごしています」と語った(撮影・井上翔太)

高校時代の仲間とは最後の夏を終えた後、「これからはそれぞれが別々の道で日本一をめざそう」と誓い合った。「僕もあの仲間じゃなかったら、心が折れていたというか、野球を続けたくても続けられなかったかもしれない。今の自分があるのも、仲間のおかげかなと思います」

チームメートとの約束を果たし、プロ野球選手の夢をかなえるため、関戸にとって勝負の3、4年目が始まる。

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