柔道

特集:パリオリンピック・パラリンピック

国士舘大・斉藤立 パリオリンピックを控え、父・仁さんの「謙虚になれ」を何度も反芻

父・仁さんと親子二代での金メダルに挑む斉藤立(撮影・杉園昌之)

大きな体に合うスーツで出席した国士舘大学の卒業式から2日後、柔道男子100kg超級でパリオリンピック代表の斉藤立(たつる、4年、国士舘)は、多摩キャンパス内の道場で大粒の汗を拭っていた。今春からJESグループ所属になるが、練習拠点は変わらないという。191cm、170kgの迫力ある体には、柔道着がよく似合う。

【特集】パリオリンピック・パラリンピック

大学の卒業式で「柴田徳次郎賞」を受賞

3月20日の式典では在学中の功績をたたえられ、国士舘創設者の名を冠した「柴田徳次郎賞」を受賞。総代として壇上で佐藤圭一学長から賞状を受け取り、「お父さんもさぞお喜びでしょう。パリ五輪、期待しています」と言葉をかけられると、表情はぐっと引き締まった。1984年ロサンゼルス・オリンピック、1988年ソウル・オリンピックの柔道男子で2連覇している父親の故・斉藤仁さんも、41年前に同じ賞を受賞していることを知り、感慨を覚えた。

「多くの人に応援してもらっていることを実感し、もっと頑張らないといけないなと思いました。国士舘の卒業生として、これからも大学の看板を背負って戦っていきたい。夏のパリオリンピックはもちろん、この先もずっと国士舘を胸に刻んでいくつもりです」

区切りの春を迎え、汗が染み込んだ畳の上で大学4年間を振り返ると、次から次に記憶がよみがえってくる。仲間たちと切磋琢磨(せっさたくま)し、胸に日の丸を付けて国内外で多くの経験を積んできた。「ものすごく濃い4年間でした」としみじみ話す。

取材で訪れた日も稽古に励んでいた。卒業後も拠点は変わらない(撮影・杉園昌之)

「自分に甘えたらダメだ」と意識が変わった武者修行

2021年秋のフランス合宿は、柔道人生のターニングポイントの一つになった。当時大学2年生。グランドスラム・パリ大会に日本代表の練習パートナーとして同行した後、そのまま飯田健太郎(旭化成)と田中龍馬(筑波大学)の3人で現地に残り、柔道漬けの毎日を過ごしたという。

「あの武者修行で『自分に甘えたらダメだ』と思い、意識が変わっていきました。海外の強い選手たちと稽古を重ね、『俺はもっと強くなれるし、絶対に勝てる』と思えるようになったんです」

自信が確信に変わったのは、同年11月のグランドスラム・バクー大会。父直伝の体落としで幸先の良いスタートを切ると、4試合すべて一本勝ち。コロナ禍の影響で無観客開催となり、会場の盛り上がりこそなかったが、思いはこみ上げた。シニアの国際大会で初めて頂点に立ち、堂々と胸を張ることができた。

「気持ちだけではなく、日本トップレベルの実力があると思えました。それまでは自分はまだジュニアレベルの選手だと思っていたので。大学1年のときは、腰を痛めて大会も出ていませんでしたから」

大学2年でグランドスラム・バクー大会を制し自信が確信に変わった(撮影・杉園昌之)

日本の頂点まで上り詰めた後の「スランプ」

シニアの第一線で戦う自覚が芽生えてからは、「国内では何が何でも勝たないといけない」と言い聞かせるようになった。迎えた2022年4月の全日本選手権。幼少期から憧れてきた舞台。トーナメントに懸ける思いは相当なものだった。試合中に心が折れそうになったときには、「こんなところで負けてる場合ちゃうやろ」と気持ちを奮い立たせた。日本武道館の大観衆が見守るなか、決勝では14分以上に及ぶ大熱戦を制し、拍手喝采を浴びた。

「投げた瞬間の歓声は、忘れられません。心が震えましたね。夢のような瞬間でした。言葉で言い表すことができないくらい。最後は執念。全日本は名誉ある大会ですが、自分にとっても特別な場所だったので」

親子二代での全日本選手権制覇は史上初。1988年に父・仁さんが制覇した大会の映像は、幼い頃から何度も見てきた。年齢を重ねて、画面に映っていない背景も知った。仁さんのひざはぼろぼろの状態だったという。それでも、類いまれな精神力で日本の頂点まで上り詰めたのだ。大会前は全日本選手権の雰囲気にのみこまれないため、父親の映像をあえて見返さず、目の前の試合に勝つことだけに集中した。斉藤立はあらためて偉大な父親に敬意を表す。

「あれこそ、執念でつかみ取った優勝。僕とは立場も、状況も違うと思います。本当にすごいです」

全日本選手権の準決勝で原沢(手前)を攻める(撮影・西岡臣)

名実ともに日本の柔道界で名を成すと、同年10月にウズベキスタンで開催された世界選手権で銀メダルを獲得。12月には世界ランキングの上位者らで争うワールドマスターズに出場し、オール一本勝ちで初優勝。世界トップレベルの舞台でも実力を証明してみせた。3年生で飛躍のきっかけをつかみ、4年生の8月にパリオリンピック内定の知らせを受けたが、大学ラストイヤーは決して満足できるものではなかった。むしろ、2023年はひざや太ももの負傷などが影響し、個人戦では一度も優勝できず、苦悩の日々を過ごしたという。

「けがをして負けて、試合にも出場できない時期もありました。気持ちも沈みましたし、地獄のような日々もありました。スランプでしたね。自信がなくなり、思い切りもなくなっていたんです。技の入り方まで分からなくなり、『これはヤバイな』と。一度は頂点に立ちながらも、すぐに鼻をへし折られた感じですかね。慢心はしていなかったのですが、神様から『調子に乗るな』と言われたのかもしれません。2024年はこの苦しい1年があったから、いまがあると言えるようにしたいです」

父が他界してから本気で取り組み始めた

今夏のパリオリンピックを控えて、12歳のときに逝去した父の残した言葉を何度も反芻(はんすう)している。

「謙虚になれ」

ずっと言われ続け、いまも胸に刻み込まれている教えだ。キャリアを積み重ね、一度トップに立ったときに「謙虚」の二文字が持つ深みをより感じた。強くなれば、なるほど忘れてはいけない心。自信と過信は紙一重であるが、似て非なるものだと自らに言い聞かせる。嫌々と稽古していた小学校時代にオリンピック2連覇を成し遂げた父・仁さんの心持ちを直接、聞くことはほとんどなかったが、はっきりと覚えている話もある。

「『もしも山下(泰裕)先生に勝っていれば(8度対戦して未勝利)、ソウル五輪で金メダルは取っていなかった』と。当時はその意味すら分からなかったのですが、いまとなっては分かる気がします」

本気で柔道に取り組み始めたのは、厳しく指導してくれた父が他界してからだ。大阪市平野区で生まれ育ち、いたずら好きで母親を困らせることもあった少年は、大きな師を失ったときに柔の道へ邁進(まいしん)することを誓った。

「あそこで、俺がちゃんとやらなあかんという気持ちが芽生えたんです」

国士舘高校時代の斉藤、柔道に本気になったのは父の他界後だった(撮影・朝日新聞社)

お世話になった人たちには、五輪でしか恩返しできない

あれから9年。日本柔道界の期待を背負う存在になった。男子最重量級は父・仁さんが代表監督を務めた2008年北京オリンピック以降、優勝から遠ざかっており、本人も復権を願う周囲の思いをひしひしと感じている。3月8日に22歳の誕生日を迎えて、心機一転。日々の練習で自信を取り戻し、パリに向けて胸は高鳴るばかりだ。

「あきらめない気持ち、執念を見せたい。お世話になった人たちには、五輪でしか恩返しできないと思っています。自分だけの優勝ではない。父を含めて、いろいろな人の思いを背負って舞台に立ちます。思い切って、一本を取る柔道をみなさんに見てもらいたいです」

力強い言葉には責任と覚悟がにじんでいた。道着の襟を正すと、右に国士舘の文字、左に日の丸がくっきり見える。今夏、誇りを胸に花の都へ向かう。

周囲からの期待も一身に受けながらパリへと向かう(撮影・西岡臣)

in Additionあわせて読みたい