陸上・駅伝

特集:New Leaders2024

東洋大学・梅崎蓮主将の自覚と覚悟 エースになり、“鉄紺の覚醒“を体現する存在に

箱根駅伝2区で好走。名実ともにチームの中心となりつつある梅崎(すべて撮影・藤井みさ)

箱根駅伝では総合4位と、底力を発揮した東洋大学。2024年度は「鉄紺の覚醒」をスローガンとしてチームがスタートした。酒井俊幸監督から主将に指名されたのは、梅崎蓮(4年、宇和島東)。東洋大で実力を伸ばしてきた経緯と、ラストシーズンへの意気込みを聞いた。

【主将特集】New Leaders2024

経験を積んで、もっと応援される選手になってほしい

梅崎は2年まで学年リーダーを務めていたが、3年時は別の選手がリーダーをしていた。だが、1月の後半に酒井監督と瑞穂コーチに呼ばれ、「主将をやってほしい」と話があった。「自分はもともと前に立つタイプではないので、(主将になるのは)別の人かと思っていました」。話をされて最初は驚いたが、任されたからにはしっかりやろう、という気持ちが湧き上がってきた。

インカレのレース後などの取材でも、寡黙な印象があった梅崎。酒井監督からは「もっとしゃべるのをうまくなってほしい」との言葉があったという。「ここでしっかりと経験を積んで、社会人になってからももっと応援される選手になろう」「チームを引っ張って、東洋で結果を出してから卒業しよう」とも期待を込めて言われた。

主将は梅崎だが、副主将に小林亮太(豊川)、吉田周(広島国際学院)、寮長に北村勇貴(東農大二)、副寮長に石田洸介(東農大二)、主務に松田爽(東北)と、役職がついているのは梅崎を含め6人。いずれも酒井監督が指名し、「4年生の役職がついている者同士協力し、1人に負担がかからないように」という意図も説明された。

東洋大で結果を出し、応援される選手になろうと酒井監督から言葉をもらった

主将になってなにか変えたことなどはありますか? とたずねると、「変えたいという気持ちはないんです」との答え。箱根駅伝前からチームの雰囲気が引き締まり、上級生と下級生のコミュニケーションもしっかり取れていた。「だから生活面ではこれまでの取り組みを継続し、競技面を上げていこうと思っています」。他大学と比べると、現状の戦力的には劣る状況だと口にし「個々のタイム、自己ベストを伸ばしていくことはもちろん、大舞台でもしっかり走れるような選手を増やしていきたいです」という。

「強くなりたい」と東洋大へ

梅崎は中学ではソフトテニス部に所属していたが、学校の駅伝大会では助っ人として走っていた。テニスも走るのも好きだったが、陸上の方が結果が出て、陸上の強豪・宇和島東高校からも推薦をもらったため、本格的に陸上に取り組むことになった。

始めてみるとどんどん結果が出て、高校2年時は沖縄インターハイ5000mに出場。決勝にも進み14位だった。高校3年時は新型コロナウイルスの影響でインターハイの開催は中止になったが、チームは5年ぶりに全国高校駅伝(都大路)に出場。梅崎はエース区間の1区を走り、区間11位の成績を残した。

高2でインターハイに出場した梅崎のところには、多くの大学からの声かけがあった。高校入学当初は陸上を続けるイメージを持っていなかったが、結果が出始めてから意識をするようになった。数ある大学の中から東洋大学を選んだ理由を聞いてみると「オリンピック代表をはじめとして、『強い』選手が出ていたこと、そして酒井監督の指導を受けて自分も強くなれると思ったからです」という。

強い先輩と切磋琢磨し成長してきた

漠然と、いつかは自分も先輩たちと同じように活躍したいな、という気持ちも持っていた。箱根駅伝に関してはそこまで昔から意識していなかったが、大きな舞台で、たくさんの人が応援してくれる大会だと知り、「走りたい」と思うようになっていった。

関東インカレ表彰台でつかんだきっかけ

梅崎の同期には石田洸介がおり、中高時代からの実績は抜きん出ていた。チームには強い先輩たちもいたが、梅崎は萎縮することなく「強い選手のいいところを盗もう」と積極的に周りを見て、自分の取り組みに採り入れた。序盤はけががあり出遅れたが、夏合宿で走り込み調子を上げて全日本大学駅伝で大学駅伝デビュー。「ロードの方が得意」と適性を発揮し、ルーキーながら5区区間4位と好走。箱根駅伝にも選ばれたが、この時は7区区間11位と満足いく走りではなかった。

その悔しさを胸に臨んだ2年生の関東インカレ1部ハーフマラソンで、梅崎は2位に入った。国立競技場を発着し、神宮外苑を19周するタフなコースだったが、冷静な走りで表彰台に。「ここですごく自信がつきました。伸びたなというきっかけになった試合でした」と振り返る。

ロードが得意と考えている梅崎にとって、この表彰台は自信をつける転機になった

この自信をきっかけに、梅崎は5000m、10000mでも自己ベストを更新し、全日本大学駅伝と箱根駅伝に出場。2月の熊日30キロロードレースでは1時間31分17秒で学生トップの4位と、着実に力を伸ばしてきた。熊日30キロは、かつて大先輩の服部勇馬(現・トヨタ自動車)が優勝し、世界への足がかりとした大会。「歴代のエースの方が走ったのを知っていたので、その道をたどりたいと思いました」と、この頃からゆくゆくはチームのエースとなることを意識し始めていた。

「自分が流れを変える」と臨んだ箱根2区

3年時の関東インカレも1部ハーフマラソンに出場し、3位となり2年連続表彰台に。しかしチームは故障者や体調不良者などが相次ぎ、出雲駅伝は7位、全日本大学駅伝では14位と苦戦。梅崎自身も出雲では6区区間6位、全日本8区区間12位と本来の力を発揮しきれなかった。「自分も含め、悪い流れを断ち切れる選手がいませんでした」と梅崎。核となる選手が不在で、チーム全体がもがく状態になってしまった。

出雲、全日本とチーム全体が噛み合わない時期が続いた

しかしその後、12月のチーム内のミーティングで4年(当時)の松山和希(学法石川)が主体となり、「箱根駅伝で3位を目指す」とチームがまとまった。箱根駅伝後にマラソンに挑戦することが決まった梅崎は、しっかり走り込みを行い、12月23日の法政大学記録会では10000m28分39秒97で自己ベストを更新。その後に酒井監督から、2区にエントリーすると告げられた。

「(2区だと)言われるまで、自分が走るとは思ってもいませんでした。山以外ならどこでもいくぞ、という気持ちではいましたが……。走ると決まってからは、任された場所でチームに貢献しようという気持ちで当日を迎えられました」

迎えた1月2日、1区の九嶋恵舜(現・安川電機)から襷(たすき)をもらった時はトップと1分6秒差の暫定15位だったが、梅崎は焦らなかった。前にたくさん選手が見えたので、1人でも多くの選手に追いつこう、強い選手に勝ってやろう、という気持ちでぐんぐんと前を追った。「自分が流れを変えなきゃ、という思いはありました。自分がいい走りをすれば後続(の選手)も必然とよくなるだろうと、責任感を持って走れました」。8人抜きで区間6位、1時間6分45秒の快走だった。

よかったところは「6分台、ラスト競り負けなかった」悪かったところは「権太坂でタイムを落としてしまった」

梅崎が作ったいい流れを受けて、往路は4位で芦ノ湖へ。最終的に総合4位と、全日本までの苦しさをくつがえす結果となった。「ただ、3位を目指していたので個人的には悔しい思いの方が強いです。3位との差は21秒だったので……」。くしくも『その1秒をけずりだせ』のスローガンができたきっかけになった第87回大会(2011年)で優勝を逃したときのタイム差も21秒だった。改めて1秒の重みを考えされられたと梅崎は言う。

エースになり、チームを引っ張りたい

悔しさを胸に、もっと強いチームになっていくために。昨年度のスローガンは「鉄紺の再建」、そして今年度は「鉄紺の覚醒」へ。「再建はできたと思っています。『覚醒』はその発展系だと思っていて、もっと強いチームになっていかないといけないです。誰か1人が強くなるのではなく、チーム全員が強くなることが必要。そのためには一人ひとりが意識を高く持つことが重要だと考えています」

梅崎は主将としてチームを引っ張るのはもちろんだが、「エースになっていかないといけない」とも思っている。「今現在はまだ、エースではないと思います。3大駅伝では区間賞を目指して、エースと言われる存在になれればと思います。自分がチームを引っ張って、東洋の『定位置』、箱根での優勝争いができるように。春のトラックシーズンから、チームとしてしっかり結果を出していきたいです」

3年時の関東インカレは後半ほぼ単独走状態となり、粘りの走り

関東インカレでは3年連続で1部ハーフマラソンにエントリーされている梅崎。「最後なので優勝を目指したい」と直近の目標を語った。「鉄紺の覚醒」をかかげるチームの先頭に立つ自覚は、すでに十分持っている。

in Additionあわせて読みたい