アメフト

高校時代の盟友、キャプテン同士でアツい再会 関西学院大・永井励と大阪大・元木怜達

関学の永井励(左)と阪大の元木怜達。大学ラストイヤーに初めて同じフィールドに立つ(合成、ともに撮影・北川直樹)

アメリカンフットボールの関西学生リーグは台風10号の影響で開幕が遅れ、1部の8校は9月7日と8日にそれぞれ中3~5日で第2節の戦いを迎える。7日には甲子園ボウル7連覇を狙う関西学院大学ファイターズと、38年ぶりに1部で戦う大阪大学トライデンツが対戦。関学のLB(ラインバッカー)永井励(れい)と阪大のOL(オフェンスライン)元木怜達(りょうた)の両キャプテンは、関西大倉高校(大阪府茨木市)アメフト部の同期だ。永井はスポーツ推薦で関学に入り、1年の春からスターター。阪大の元木は2部で3年間を過ごした。対照的な道を歩んできた二人が、フィールドで向き合う。

ともに「カンクラ」からフットボールの世界へ

9月3日の今シーズン初戦。阪大は立命館大学に挑んだ。12-48と敗れたが、DB兼キッカーの澤田悠太(4年、American International School of Johannesburg)が50ydと46ydのロングFGを成功させ、第3クオーター終盤にはQB立石航大(2年、高槻)がWR朝木陽生(4年、豊中)への40ydのTDパスを決めた。ディフェンスでもDB中根凜太(4年、市立西宮)が相手のエースQB竹田剛(3年、大産大附)のパスを奪取。ゴール前に迫られてもしぶといタックルを繰り返した。未知の舞台でしっかり挑戦者魂を示せた。関学は3年ぶりに1部で戦う桃山学院大学と対戦。U20日本代表でカナダ遠征中の重大な規律違反で処分を受けた5選手を欠いたが、選手層の厚さを見せつけ、75-10と完勝した。

永井と元木はともに身長が170cm弱と大きくはない。それでも永井はいつも通りスピードあふれる動きで相手のブロックをかわし、タックルを決めた。早々に控えメンバーと交代し、サイドラインから声で仲間をもり立てた。一方の元木は待ちに待った1部のフィールドで暴れられなかった。けがで万全な状態ではなく、欠場した。

阪大の元木はけがでリーグ初戦を欠場した(撮影・篠原大輔)

二人は私立の関西大倉高校(通称・カンクラ)で出会った。ともに府立高校の受験に失敗してカンクラへやってきた。永井は5歳から中3までフルコンタクト空手に打ち込んできたが、チームスポーツへの憧れがあった。「周りを頼れる部分とか、仲間と楽しめるところがいいなと思って。そしたらアメフト部の強引な勧誘につかまって。でもついて行ったら意外と面白そうで、入りました」。元木の中学時代は「帰宅部」だった。「テニス部だったけどやめちゃって。中学の同級生で一緒にカンクラに進んだヤツが『アメフトやる』って言ってたんで、ノリだけでついて行って始めました」。元木が苦笑いで振り返る。

1年秋から試合に出た永井、毎日やめたかった元木

カンクラはかつて全国的な強豪で、高校日本一を決めるクリスマスボウルに5回出場しているが、それも2006年が最後。そこからは勝てない時期が続く。ただ伝統的に練習は厳しく、1対1の勝負には常に「やるかやられるか」の心意気で臨むことが求められる。帰宅部上がりの元木はずっと「今日でやめよう」「明日でやめよう」と思っていた。「練習がとびきりキツいうえに、3年生の先輩も割とキツめの人が多くて。僕は足が速くなくてボールも捕れなかったんで、『できることないんやったらオフェンスラインやっとけ』みたいな感じでした。体もそんなに大きくないんで、壁ばっかり感じてました。何回やめようと思ったか分からんぐらいです」

関西大倉高校1年の夏合宿で。左から3人目が元木。1年生はメッシュに名前を書くのがカンクラのしきたりだった(永井励さん提供)

そんな元木からすれば、永井はかなり先をいく存在だった。「最初から異彩を放ってました。空手でも全国トップレベルだったし、アメフトへのやる気もすごかった。僕らの代のリーダーみたいな立場で、筋トレも一番強いし、動きの素早さも一番でした。ほんまにすごいヤツやなと思ってました」。永井は1年の秋からDB(ディフェンスバック)で試合に出た。元木はその冬の新人戦に、初めてスタメンで出た。「自分の武器は何かなってずっと考えてて、当たってからも足を止めへんとこかなと思うようになって。それを最初の試合で出せたんです。めっちゃこわかったOBさんからも『よかったな』って言ってもらえて、そこからアメフトに前向きになれました」

最初はDBだった永井だが、ポジションがどんどん前に、そしてインサイドに変わっていった。「誰が相手でもビビらず当たるのをコーチが気に入って、どんどん中のポジションにしたんやと思います。小さかったからこそ体を鍛えましたし、その中で僕のラインバッカー像ができてきた感じです」と永井。カンクラは大阪府大会で勝ち上がれなかったが、永井自身は2年の夏に関西選抜チームの一員としてアメリカ遠征も経験。2年冬の「ニューイヤーボウル」では大阪選抜で出て、いま立命館大のキャプテンである山嵜大央(だいち、大産大附)とともに個人表彰された。そして、憧れの関学ファイターズから声がかかった。

永井(前列左から2人目)は3年間ずっと頭を丸めていた。2年のとき、同じく頭を丸めた同期たちと。後列の左から2人目が元木(永井励さん提供)

元木は大阪府豊中市内の自宅から近いという理由で阪大の経済学部を第一志望にしていた。高2までに受けた模擬試験では常にE判定。3年の春の府大会で完全燃焼して退部し、受験勉強に専念しようと考えていた。しかし、新型コロナウイルス感染拡大の影響で中止になった。約20人の3年生のうち、受験組の6、7人は予定通り退部したが、元木は迷っていた。

キャプテンになった永井をはじめ、推薦で進学するメンバーたちは、元木に「秋まで一緒にやろうぜ」と持ちかけた。元木が振り返る。「とくに(永井)励が強く言ってきました。『お前の受験に責任は持たれへんけど、絶対に続けてほしい』って(笑)。浪人したらどうすんねんと思いながらも、ここでやめたら一生後悔すると考え、勉強もしながら秋までやろうと決めました」

永井が元木を強く引き留めた理由

なぜ永井は元木を強く引き留めたのか。「OLとして強かったという実力的な面もあるんですけど、それ以上にアイツの熱量というか、フィールドに立ったときの闘争心が誰よりもすごかったからです。元木の勉強のことを考えたら躊躇(ちゅうちょ)する部分もあったけど、みんなアイツのことを大好きやったし、春の大会で一緒にやれなくて、終わるのは嫌でした」。厳しい練習の中で培われた「関倉魂」が、永井と元木をつないでいた。

高3秋の箕面自由学園戦で試合開始のセレモニーを終え、仲間たちのところへ走っていく永井(永井励さん提供)

国公立大志望で秋まで残ったのは元木だけ。現役生向けの予備校に通い、授業がある日は練習を休ませてもらった。永井には、高校最後の府大会は箕面自由学園(通称・ミノジ)と戦いたいという気持ちがあった。「高1の秋にミノジと対戦して、世界の違いを思い知らされたんです。僕は高校からアメフトを始めて関西大倉という世界しか知らなかった。ミノジと試合をして、フットボールのレベルもフィールドで向き合ったときのオーラも、組織としての一体感も全然違いました。7-36で負けてから、『高3のときにはぶっ倒す』と。だからオンラインの組み合わせ抽選会の前に『ミノジ引いてくるわ』ってみんなに言って、ほんまに引きました」

目標が明確になり、夏の練習にも熱が入った。だが試合の1カ月ほど前に3年のQB(クオーターバック)が退部。RB(ランニングバック)としてもプレーしていた永井がQBに入ることになった。しかもWR(ワイドレシーバー)のエース格の3年生も試合直前に骨折して出られなくなり、ポジションをやりくりして決戦に臨んだ。オフェンスは大半が永井のランプレー。タッチダウン目前まで進んだが、永井がサイドラインに下がった間のプレーでミスがあり、転がるボールを拾った箕面自由学園の松井将一(現・関西大4年)にリターンタッチダウンを許した。0-14で負け、永井と元木たちの高校フットボールが終わった。

箕面自由学園戦でロングゲインした永井(右)に元木が駆け寄り、たたえた(元木怜達さん提供)

元木はこの試合後のことをよく覚えている。「3年生だけ学校に戻って用具の片付けをやって、『ここでこのチームは終わりです』ってなったときにウワッと涙が出てきました。そしたら友だちのお父さんが泣いてる僕に『君は受験があるんやから、これからが勝負やで』と。『あ、ほんまや』と思って、すぐ帰って勉強しました(笑)」

永井にこのエピソードを伝えると、柔らかい笑顔で話し始めた。「あったなあ、そんなん。すごい頑張ってたっすね。弱小ながらに力を合わせて取り組んでたのが懐かしいです。あのころは努力しても報われないことばっかりで、さらにコロナに追い打ちをかけられた。それでも諦めずに最後まで全力を注いでやりきった高校生活が、いまの自分に生きていると感じます」

二人ともキャプテンに立候補

箕面自由学園戦の前、元木は以前に受けていた共通テストの模擬試験の結果を受け取った。思いのほか好成績で、初めて阪大経済学部の合格可能性でA判定が出た。だから勉強に専念するとき、前向きに集中できた。年が明け、1月の共通テストで目標の8割を超える点数をゲット。そこまで手をつけていなかった2次試験の勉強に没頭し、現役合格をつかみ取った。インスタグラムのストーリーに「阪大合格しました」と載せると、朗報が一気に仲間たちの間を駆け巡った。永井が言う。「信じてましたけど、ビックリしました。カンクラの周りの子たちも国公立は結構落ちてたし、どれだけ難しいか分かってるから。ほんまにリスペクトしてます」

元木は当時関西学生リーグ2部だった阪大でアメフトを続けると決めていたわけではなかったが、カンクラとは正反対の楽しそうな雰囲気が大学っぽくていいなと感じ、入部した。1年の春から試合に出たが、あまりにも厳しさが足りないんじゃないかという思いが積み重なっていった。2年の夏合宿で4年生にその思いを伝えたが、すんなり受け入れてはもらえなかった。

今年の春の阪大―桃山学院大戦から。元木(54番)はプレーごとに気迫を出して相手に向かっていく(撮影・北川直樹)

38年ぶりの1部復帰を決めた昨年のシーズンは、オフェンスの4年生とうまくいかなかった。「いま思えば大人になりきれてなかった僕が完全に悪いんですけど、若干腐ってて、アメフトはもういいかなという思いもありました」と明かす。そして迎えた1部との入れ替え戦。そこまで試合に出続けていた元木は、OLのスタメンから外された。1部復帰に沸くチームメイトの中で、手放しで喜べない元木がいた。「実力で負けて出られなかった試合で、みんなが1部昇格を決めてくれた。絶対にこんな形では終わられへん」。ラストイヤーに自分自身を奮い立たせようと、キャプテンに立候補した。「関西大倉イズムみたいなものを阪大に持ち込めたらいいなと思っていたので、ずっとそこに取り組んできました」

永井は弱かったカンクラから常勝軍団に飛び込んだ。不安もあったというが、最初のチャンスに食らいつき、1年の春の2試合目に早くもスタメン。そこからずっと関学ディフェンスを支えてきた。1年のころから学年を引っ張っていく立場を任されていたこともあり、いつしか4年になったらキャプテンをやると決めていた。昨年12月、史上初の甲子園ボウル6連覇を達成して新チームが始まり、永井はキャプテンに立候補。同じく立候補したOLの巽章太郎(関西学院)と話し合いを続け、永井がキャプテンに、のちに巽が副キャプテンになった。

元木はYouTubeで関学の練習潜入動画を見て、常に大声を出して仲間を引っ張る永井の姿に「俺に似てるな」と感じた。「似てるって言ったら励に怒られるかもしれないですけど、結局僕の中のキャプテン像は高校時代のアイツからきてる部分が大きいんですよね」。確かに二人ともキャプテンになって以来、いつも声がかれている。

昨年秋の関学―立命館大戦から。永井(45番)は関学ディフェンスの屋台骨であり続けてきた(撮影・北川直樹)

大きく離れたフットボール人生、再び交わる日

阪大と1部で対戦することについて、永井は「それだけはないと思ってました」と笑う。ただ元木がキャプテンになったタイミングで、二人はLINEでアツい言葉の数々を交わした。「最高の試合しようぜ」「たぎってきたわ、マジで」。永井がLB、元木がOLだから、試合となればバチバチにぶつかる。この夏に二人それぞれに取材したとき、「実際にぶつかることになるね」と話を振ると、図らずも二人とも「ボッコボコにしてやります」と言って笑った。

前述のように元木は初戦を欠場した。中3日で迎える関学戦もサイドラインで立つだけになるだろう。永井も試合に出なかった元木の姿を見て、そう感じ取っている。それでも確実に、試合前のセレモニーで両キャプテンは向き合う。「目で殺すっすよ」。永井は笑った。

カンクラで一緒にアメフトを始めた日から約6年半。お互いに親友と認める二人のフットボール人生はいったん大きく離れたが、また交わる日が来た。9月7日、神戸・ユニバー記念競技場。「関倉魂」を胸にチームを引っ張る二人に、至高の瞬間が訪れる。

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