野球

中央大学・大塚豪 チーム初の〝アナライザー〟努力と探究心で、勝利への道しるべに

中大硬式野球部初の「アナライザー」となった大塚豪(撮影・中大スポーツ新聞部)

「野球は間違いなく、頭のスポーツ。頭脳戦だ」。これはプロ野球で監督通算1565勝を挙げた故・野村克也氏が残した言葉だ。1990年代にヤクルトを率いてデータを用いる「ID野球」を提唱した。あれから約30年が経った今、大学野球界でもデータの力を武器に戦う者がいる。

東都大学野球秋季1部リーグで、バックネット裏からチームを見守る中央大学のアナライザー・大塚豪(3年、沼津東)。かつては神宮球場でプレーすることを志した彼が、硬式野球部初のアナライザーになるまでの道のりをひもとく。

「文武両道」ではなく「文武同道」

大塚は小学生の頃に野球を始めた。テレビに映る憧れのプロ野球選手たちと同じブランドのグラブをはめ、白球を追いかける野球漬けの少年時代だった。その熱が冷めることはなく、静岡県の進学校・沼津東高校に進んでも硬式野球部へ。高校の監督からは「文武同道」という言葉を授かった。「文武両道」ではない。「できないことに目を向けて、できるようになるまで一生懸命やるのは、勉強も野球も同じことだと教わりました」。大塚は片道1時間半の通学をしながら授業の課題をこなし、勉強と野球の「同道」を極めた。

高校時代の大塚(右)は「文武同道」を胸に学校生活を送った(本人提供)

キャプテンを務めた高校最後の夏を終え、大学でも野球を続けるつもりだった。監督に大学野球部の練習へと連れられたとき、「ただ野球がうまい人たちじゃないな」と感じたという。猛勉強の末、中大に合格。大塚は迷うことなく硬式野球部の門をたたいた。各校の実力が拮抗(きっこう)し「戦国東都」とも称される東都大学野球1部リーグに、中大は16年間とどまっている。全国から集まる猛者たちの中で、大塚は毎日必死に食らいついていった。

しかし努力が報われないことも、この世界にはある。朝の練習を終えて1限の授業に向かう前、監督室へ呼ばれた。そこで清水達也監督から「選手として厳しい」と告げられた。大塚は通告を受けても、野球への情熱は変わらなかった。すぐに選手以外の形でチームに貢献できる道を模索し始めた。

高校3年のとき、大塚(左)はキャプテンを務めた(本人提供)

最初に着手したのは「ラプソード」の使い方

このとき、チームは1部リーグの6位に沈み、2部1位との入れ替え戦に進むことが決まっていた。原因は相手チームの研究不足だった。「選手以外でチームに貢献するなら、これかなって」と大塚。リーグ戦が終わって実家へ帰ると、両親に思いを伝えた。「自分は選手として花を咲かせるのは厳しい。裏方の道を選ぼうと思う」。彼の決意に対し、両親からは「自分を生かせる道を選びな」という言葉を返された。大塚は中大硬式野球部初のアナライザーになる道を選んだ。

とは言え、当初はデータに関する知識がゼロ。野球のデータに関する本を読みあさり、分析の知識をたたき込んでいった。最初に着手したのは計測・分析機器「ラプソード」の使い方だ。ピッチング用では球速、回転数、変化量など、バッティング用では打球速度や打球角度などを測定することができる。中大には2年前から導入されていたが、大塚がアナライザーとなってからは毎日使用されるようになり、本格的な運用が進められていった。

「本を読んだことでホップ成分やシュート成分など、ボールにはいろんな力が働いていることを知ったんです。ホップ成分が高いピッチャーなら真っすぐが武器になるし、シュート成分が大きいならインコースを攻めるとバッターは詰まりやすい」。測定したデータをもとに、選手へ助言していった。

リーグ戦の試合中はバックネット裏でデータを打ち込む(撮影・中大スポーツ新聞部)

分析力がチームの危機を救ったことも

昨春には、大塚の分析力がチームを救う出来事が起こった。

チームはエースの西舘勇陽(現・読売ジャイアンツ)が苦しみ、最下位争いへと巻き込まれた。大塚は不振にあえぐ西舘の姿に疑問を持った。「おかしいなと思って。こんなに打たれるはずない、何かあるなと思いました」と西舘の投球の映像を繰り返し見続けた。そして気づく。セットの際に球種によって癖が出ていたのだ。

すぐさま監督とコーチに伝え、西舘の投球フォームが改善されていった。チームはその後、最終戦で西舘の好投が実って1部残留を決めた。「少しでもチームに貢献できたならうれしいです」と大塚は控えめだったが、入れ替え戦進出の危機にあった当時、チームメートに悟られないように2部のチームの研究も進めていた。

大塚には転機となる一球がある。今春、青山学院大学との優勝決定戦。基本的にリーグ戦中は、相手バッターのデータがキャッチャーへと伝えられ、配球が組み立てられる。優勝決定戦の前にも正捕手の野呂田漸(ぜん、3年、秋田中央)と話し合い、綿密な配球が組み立てられた。

1点リードの四回表、2死一、三塁。打席には青山学院大の主将・佐々木泰(4年、県岐阜商)を迎えた。1球目が高めに外れた後の2球目。野呂田は事前に大塚から伝えられていた佐々木が苦手とする球種とコースのサインを出した。しかしマウンド上の山口謙作(3年、上田西)は首を横に振り、自身の勝負球・スライダーを選択。佐々木にとらえられ、逆転の3ランを浴びた。このまま1-3で敗れ、青山学院大に目の前で優勝を決められた。

大塚は振り返る。「キャッチャーにしか自分の考えを伝えられてなかった。もし、ピッチャーとも同じ目線で一緒に研究できていたら、結果は変わっていたかもしれないなと感じました」。この一球から教訓を得た大塚は、今までキャッチャーとだけ行っていたデータとビデオ分析をピッチャーとも行い、秋季リーグ戦に臨んでいる。

チームを救ったことも、悔いを残したことも、今後の糧にする(本人提供)

教師になりたいという夢に向かって

2年前に監督から告げられた「選手として厳しい」という言葉。大塚は「今思うと、新しい道を示してくれた監督には本当に感謝しています」と笑う。

大塚には教師になりたいという夢がある。「大学を卒業してすぐに、というわけではないけど、高校野球の監督になりたいなと」。そのため、大学では教職員課程を受けながら、アナライザー業務を行っている。リーグ戦中は神宮球場で行われるすべての試合をバックネット裏から見て、パソコンにデータを打ち込み、試合後は寮に戻ってデータ分析を進める。「アナライザーの仕事を続けることが、将来の自分にとって有意義になると考えてやっています」

清水監督も大塚に感謝の言葉を贈る。「データ班は大塚たちが中心になって、一生懸命やってくれている。彼らがちゃんとやってくれているからゲームができている。試合に出るメンバーにも感謝しなさいよと伝えている」

選手たちの輝かしい活躍の裏には、大塚のたゆまぬ努力と探求心があり、勝利への道しるべとなっていた。グラウンドに立つ者だけが戦っているのではない。彼の姿がそう教えてくれる。

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