中央大学・東恩納蒼 慶應の迫力ある大応援も「楽しめた」、自分を後押していると考え
中央大学の東恩納蒼(1年、沖縄尚学)は最速147キロの力強い速球とスライダーを武器に、高校3年時は春夏連続で甲子園に出場した。計6試合に登板し、4勝。夏は沖縄大会から47回3分の1を連続無失点に抑えた。優勝した慶應(神奈川)に準々決勝で敗れベスト8に終わったが、間違いなく昨夏の主役の一人と言ってよいだろう。
高1夏はスタンドから応援し「きれいな球場だな」
高校1年の夏、東恩納はスタンドから甲子園で戦う先輩たちに声援を送っていた。球場に足を踏み入れたのは、これが初めてだった。「子どもの頃、テレビで見ていた甲子園とは違って(コロナ禍で)無観客だったので雰囲気は味わえなかったんですけど、きれいな球場だな、大きいなと思いました。自分もこの舞台に立ってやってみたいという気持ちになりました」
2年秋から、背番号1を背負った。チームは沖縄大会と九州大会を制し、翌春の第95回選抜高校野球大会に出場。甲子園にも観客の姿が戻り、この大会からは声を出しての応援もできるようになった。
「3年間目指してきた場所だったので、やっとその舞台で力を発揮できるという気持ちでした。観客がいた方がやっぱり盛り上がりますし。自分たちの代で観客がいたというのは、うれしかったです」
1回戦の大垣日大(岐阜)戦を4-3、2回戦のクラーク国際(北海道)戦を3-1と、いずれも接戦を制して3回戦に勝ち進んだ。準々決勝進出をかけた東海大菅生(東京)戦は0-1で敗れたが、東恩納は3試合で22回を投げて防御率0.82。甲子園に強いインパクトを残した。
沖縄大会から数え、47回3分の1を連続無失点
夏の沖縄大会でも、東恩納は5試合で31回3分の1を投げて無失点。春夏連続の甲子園出場に大きく貢献した。決勝のウェルネス沖縄戦では三塁を踏ませず、6安打完封という見事なピッチングを見せた。
甲子園でも、初戦となった2回戦でいなべ総合(三重)を相手に完封勝利。創成館との3回戦、八回にこの夏初めて失点し、沖縄大会から続けてきた無失点は途切れたが、1人で2試合を投げきった。
準々決勝の相手は慶應。四回、仲田侑仁(現・広島東洋カープ)の2ランで先制し、東恩納も五回までは慶應打線を3安打無失点に抑えていた。しかし、グラウンド整備後の六回表、相手打線に火がついた。
相手の先頭打者は代打で出た清原勝児(現3年)。名前がアナウンスされると甲子園はどよめき、大きな拍手が湧き起こった。応援団のボルテージも一気に上がった。東恩納は清原をピッチャーゴロに打ち取ったが、丸田湊斗(現・慶應義塾大1年)に右翼線二塁打、八木陽(同1年)に左前打と連打を浴び、渡邉千之亮(同1年)に四球を与えて1死満塁のピンチを招いた。打席には4番の加藤右悟(現3年)。
初球、真ん中高めに入った142キロをとらえられた。左中間を深々と破る走者一掃の3点二塁打に。「振り返ってみれば、なんであそこにあの球を選択したのかと。そのときは全然考えられなくて。改善できた一球だったのかなと思います」
悔しそうな表情で東恩納は振り返る。自信のあるスライダーで勝負していれば、違った結果になっていたかもしれない。冷静な判断ができなかった。
慶應の応援歌「若き血」が球場中に響き渡る。流れを完全に持っていかれた。さらに2本の安打を浴び、味方のエラーもあって、東恩納は六回途中6失点でマウンドを降りた。沖縄尚学は七回にも1点を失い、2-7で敗れた。
「悔しいという気持ちはありました。でも、最後、やり切れたという思いもあります。相手が上だった。慶應の打線は間違いなく今大会、一番の強力打線でした」
球場を揺るがすような慶應の大応援も、自分を応援しているように考え「楽しめました」と言う。「応援の迫力が他の学校と比べて全然違いました。あの慶應の大応援の中、緊迫した場面で投げるというのはなかなか経験できないこと。その経験を財産にして、これからも忘れることなくやっていきたい」
「戦国東都」で腕を磨き、3年後の1位指名を
大会後、東恩納は高校日本代表に選ばれ、台湾で行われたU-18ワールドカップに出場。決勝ラウンドのプエルトリコ戦では5回参考ながら完全試合を達成するなど、初の世界一に貢献した。
もともと大学に進学する方向で考えていたが、U-18ワールドカップを経験して刺激を受けたことなどから、プロへ挑戦したい気持ちが強くなり、プロ志望届を提出。ドラフト会議での指名を待った。しかし、名前を呼ばれることはなかった。「4年後、必ずドラフト1位でプロへ行く」という強い決意を胸に、東都リーグの強豪・中央大学へ進学。今春、早くもリーグ戦デビューを果たし、5試合で2勝を挙げた。
「大学に入っての最初の目標が春のリーグ戦で投げることでしたから、5試合投げられたことは自信になりました。でも終盤戦は自分のコンディションを整えることができなかった。反省を生かして次のリーグ戦から考えてやっていきたいです」
「戦国東都」と呼ばれる厳しいリーグで腕を磨き、3年後の1位指名を目指す。