岡山理科大学の三宅咲綺、やっと見つけた自分らしいスケート 全日本で納得いく演技を
フィギュアスケート女子で岡山理科大学4年の三宅咲綺(岡山理科大学附属)は、岡山県から兵庫県に拠点を移して3年目。今シーズンは中四国九州選手権で4連覇、西日本選手権で初優勝を飾り、4年連続で全日本選手権出場を決めた。同じリンクで練習する、世界選手権3連覇中の坂本花織(シスメックス)や2022年グランプリファイナル優勝の三原舞依(同)らに刺激を受けながら成長を続けている。
スケートを始めた直後の試合で好成績
三宅は岡山県倉敷市生まれ。両親は共働きで、小さい頃は祖父母と過ごすことが多かった。小学1年生の冬、小さい頃から「バレエをやりたい」と両親にお願いしていたことを知っていた祖父が「氷の上のバレエをしてみないか?」と、市内のスケート場に連れて行ってくれたことがフィギュアスケートと出会ったきっかけだ。
最初はスケート教室に通っていたが、祖父がとんとん拍子で話を進め、2カ月後に行われる試合にいきなり出場することが決まった。かなり無謀な挑戦に見えたが、演技に必要なジャンプ、スピンも習得し、短期間で振り付けも覚え、練習に励んだ。本番では堂々とした演技を披露し、そのクラスに出場していた同じクラブ生の中で1番いい成績を残すことができた。そこからフィギュアスケートの虜(とりこ)になり、毎日リンクに通うようになった。
利用していたリンクは冬季のみ営業しているシーズンリンクだったため、オフシーズンは全く氷に乗らず、時々クラブで行う陸上トレーニングに参加するのみだった。
しかし、スケートの感覚を忘れることはなく、秋になって再び氷に乗った際には、ずっと練習していたかのようにジャンプやスピンなどもスムーズに行うことができた。
シーズンイン直後に行われた地方大会で2位に入ると、その後も輝かしい成績を残していった。当時、リンクにはプロのコーチが在籍しておらず、より技術を磨くためにプロのコーチがいる香川県のリンクに通うようになった。そのリンクが休館するオフシーズンは岡山市のリンクでレッスンを受けた。技術は伸びていたが、1年を通して同じリンクに通う方が移動に伴う家族の負担などが減るため、ノービスに上がる頃から岡山市のリンクに拠点を絞った。
父から「やめてもいいんだよ」と何度も言われたが……
コーチの指導により技術は確実に向上していったが、いつしか試合が怖いと思うようになり、練習でミスのない演技ができていても本番では普段しないような失敗をして結果がついてこなくなっていた。その様子を見ていた父は何度も「スケートをやめてもいいんだよ」と伝えていたが、三宅は決して首を縦に振ることはなく、結果が出ない状態でも「いつか試合でもミスのない演技ができるはずだ」と信じ、日々の練習を取り組んでいた。
中学1年生の時に秦安曇(あずみ)コーチのもとで練習するようになった。出場した全国中学校大会では実力を発揮できず、不甲斐(ふがい)ない結果でかなり落ち込んだ。父からは「もうスケートをやめよう」と諭されたが、その様子を見ていた秦コーチが父に「何も言わずに3年、私に任せてください」と伝えた。三宅もその言葉を信じてついていくことを決めた。
当時のチームには中塩美悠さんを含め、トップレベルの女子選手が多く練習しており、「いつか追いつきたい」と練習に精が出るようになった。次第に試合でのミスは少なくなり、中学3年生の時に初めて全日本ジュニア選手権に出場した。
この時初めて自分の演技に観客が自然と手拍子をしてくれる経験を味わい、「これからもそんな試合に出続けたい」と思った。
連続3回転ジャンプを習得、高校1年生で全日本初出場
高校は、岡山県のスケーターが数多く在籍していた岡山理科大学附属へ進学した。部活の時間として練習時間を確保でき、三宅星南(関空スケート)や門脇慧丞(法政大学)らと一緒に練習し、充実した生活が送れていた。
その頃、今や三宅の代名詞となったダイナミックな3回転トーループ-3回転トーループの連続ジャンプを習得した。これまでスケーティング技術には定評があり、このジャンプを習得したことで、「シニアで戦えるのでは」とコーチから助言をもらい、高校1年生の時にシニアに移行することに決めた。
そのシーズンに、ハイレベルな西日本を勝ち抜き、全日本選手権への切符を手にした。初めての全日本の会場は、ジュニアの会場とは雰囲気が全く異なっていた。広い会場で雰囲気にのまれてしまい、本来の力を発揮できなかった。だが、以前のように落ち込むことはなく、もっとメンタル面を強化し、この舞台に帰ってくることを誓った。
そして翌年の全日本では見事に自分の気持ちに打ち勝って12位となり、翌シーズンの強化選手に選ばれた。いつか国際大会に出場してみたいと思っていただけに、そのチャンスがあるかもしれないと思っていたが、新型コロナウイルスの感染拡大で海外への派遣はなかった。また腰椎(ようつい)の分離症を発症し、思うような練習ができず、高校最後のシーズンは全日本出場を逃した。
坂本花織、三原舞依らがいる神戸クラブに移籍
大学は岡山理科大学に進学。スケート部はあったものの、活動は盛んには行われておらず、三宅自身が部の活動を切り盛りしていく必要があった。リンクの貸し切りの手配や連盟への登録作業など、練習以外にもやらなければならない裏方の作業もあり、今までたくさんの人に支えられて練習ができていたのだと実感した。「昨年のリベンジ」と闘志を燃やし、無事に全日本へ出場。しかし今までミスがなかった3回転の連続ジャンプで失敗し、自身初めてフリー進出を逃した。
これまで順調に来ていたと思っていたが、ここぞという場面で弱い気持ちが出てしまうことに悩んでいた。年始に行われたインカレで坂本花織と話す機会があり、「どうすれば試合でミスをしないか」など色々なことを話した。返ってくるものは全てポジティブな考えで、三宅に今必要なものだと感じた。試合後に母と相談し、シーズン終了後に、坂本を指導している中野園子コーチのチームへ移ることに決めた。
練習拠点が神戸市に変わるため、兵庫県内で家を借りた方が良いと思っていたが、大学にも通うことを考えた母が「私が送り迎えする」と言ってくれた。片道3時間ほどの道のりを毎日車で往復してくれた。時に深夜に出発し、早朝練習に間に合うように移動する生活が数カ月続いた。
その後、兵庫県に家を借り、通学時のみ岡山県に帰る生活をしているが、当時のことを考えると、「母には頭が上がらない」と感謝の気持ちでいっぱいだ。母の思いに応えるように練習に励み、「失敗しない練習」を積んだ。
移籍後に初めて臨んだ全日本では、中野コーチから「今まで失敗しない練習を積んできたから大丈夫」と背中を押してもらった。それが自信につながり、SP(ショートプログラム)をミスなく滑り切り、5位と好発進した。
夢だった全日本のフリー最終グループだったが、周りのメンバーを見ると、「自分がここにいるのはふさわしくない」と思い込んでしまい、小さなミスを繰り返し最終順位は15位。自身の弱い部分が出てしまった大会だった。
翌年の全日本もリベンジしようと挑んだが結果は振るわず16位。ここぞという場面で持っている力を発揮できず、とても悔いが残る大会となった。シーズン最後の試合となる国民スポーツ大会では、締めくくりとして良い成績で終えたいと思っていた。自分自身の気持ちを奮い立たせ、久しぶりにSPとフリーをミスのない演技で終えることができた。自己ベストも大幅に更新し、「きちんとやれば点数はここまで伸びる」と手応えを感じた。
「滑走屋」を通じて自分の練習不足を痛感
国民スポーツ大会が終わってすぐ、髙橋大輔さんがプロデュースするアイスショー「滑走屋」に出演した。振り入れから公演まで10日間というハードなスケジュールであったが、何より初めてアイスショーに出演することにとても高揚していた。みんなで一つの作品を作り上げる楽しさを知ると同時に、スケートの楽しさを思い出した瞬間でもあった。
この作品のために三宅も長い時間リンクに乗ってきたが、高橋さんや村元哉中(かな)さんなど、プロスケーターたちの練習を見て、自分の練習がいかに足りていないのかを痛感した。
「ここまで練習をしないと人前で披露できるものにならないのか」と身をもって知り、意識が変わっていった。
公演が終わってからは人が変わったように練習に励んだ。今までより密度を濃くし、納得がいくまで氷に乗り続けた。身体の疲労度は以前よりも増したが、ケアにも気を配り、身体の調子が悪い日もある程度コントロールできるようになってきた。
卒業後も競技続行「まだまだ進化していきたい」
今シーズンは好調を維持している。10月の中四国九州選手権で4連覇を達成。全日本の最終予選である西日本選手権では、ミスのない演技をする選手が続き、会場の雰囲気にのまれかけたが、「自分のできることをちゃんとやる」と鼓舞し、フリーでほぼミスのない演技を披露して初優勝。「自分に対して信頼ができた」大会となった。
この結果により、2025年1月の冬季ワールドユニバーシティゲームズの補欠選手に選ばれた。正選手になれず残念という気持ちがないわけではないが、今まで現実味がなかった国際大会派遣に一歩前進したと感じている。
12月20日に大阪府で開幕する全日本では、西日本で得た自信を糧に、「SPとフリーともにノーミスの演技で終え、強化選手に選んでもらいたい」と意気込む。来春に大学を卒業予定だが、「まだまだ進化していきたい」と、卒業後も競技を続ける予定だ。
今シーズンのSPは鈴木明子さん振り付けの「Think of Me」で、優しい曲を表現するが、三宅のダイナミックなジャンプや曲の盛り上がりでのステップにも見せ場がある。フリーは宮本賢二さん振り付けの「カプリース」。「滑走屋」を通じて曲を表現する楽しさを知り、また村元さんの演技に感動し、演じてみたいと思って選んだ。「カプリース」は「気まぐれ」という意味で、その名の通り曲調もコロコロと変わるが、その様子を身体全体で表現し、今までの三宅のイメージを一新させるようなプログラムにしたいと取り組んでいる。
中野コーチのもとには、坂本や三原舞依、籠谷歩未(神戸クラブ)など、年上の女子選手が日々練習に取り組み、励みになっている。身近に全日本に出場する選手の存在があることも大きい。
スケートを始めて紆余曲折(うよきょくせつ)はあったものの、ようやく自分らしいスケートを見つけ、試合に出るのが楽しいと思い始めている。大一番である全日本の舞台で、納得のいく演技をし、三宅の弾けるような笑顔が見られることを楽しみにしたい。