中大・今村拓哉「やってきたことは無駄にならない」4年越しにつかんだ神宮での勝ち星
高校時代に神宮球場のマウンドで2度の完封勝利を収めた中央大学の今村拓哉(4年、関東第一)。あれから4年、今年の9月26日に再び神宮で勝利を手にした。それまでの苦難の道を追った。
高校2年の夏前に左肩を疲労骨折
競歩のオリンピック日本代表を父を持つ今村は、兄が野球をやっていた影響で幼稚園の年中から野球を始めた。食べるのが好きで、わんぱくだったという幼少期。そろばんや水泳、英会話などの習い事をしながら、千葉市の少年野球チーム「花園ライオンズ」で野球に熱中した。小学6年時には千葉ロッテマリーンズジュニアに入り、中学時代は千葉西シニアで硬式球に触れた。
高校では、より高いレベルを目指して東京の強豪校、関東第一高校に進学。1年秋からベンチ入りを果たし、活躍を期待されていたが、2年の夏前に左肩の疲労骨折が判明してベンチから外れた。その年、関東一高は夏の甲子園でベスト8。自分の代わりに入った後輩が聖地で輝いている姿を見て、「自分がけがをしていなければ、あのマウンドにいたのに」という悔しさを味わった。次こそはと迎えたラストシーズン、コロナ禍で甲子園が中止になり、全国のマウンドを踏めずに引退を迎えた。「なんで今までやってきたのだろう」と失意に陥った。
それでも再び前を向けたのは、同世代のライバルがプロから指名を受けたから。今村も自身の将来を意識し、大学からのプロ入りを目標に据えた。当時は大学野球にあまり詳しくなかったが、中大の練習会に参加した時に牧秀悟(現・横浜DeNAベイスターズ)や五十幡亮汰(現・北海道日本ハムファイターズ)といった有名選手がたくさんいて、自分もここでやってみたいと思い、進学を決意。入学後は1学年上の西舘勇陽(現・読売ジャイアンツ)や石田裕太郎(現・DeNA)ら、後にプロに進むような選手たちを目の当たりにして、高校とのレベルの違いを痛感したという。1年時はリーグ戦で登板することはできなかったものの、オープン戦では結果を残し、めきめきと成長。しかしこの時、再び試練が訪れた。
足の曲げ伸ばしから始まったリハビリ
大学1年の3月、オープン戦で投げている際、左ひじに違和感を覚えた。診断結果は「内側側副靱帯(じんたい)損傷」。医師から告げられた時は、正直「またか」と思った。手術するかしないかの選択を迫られた当時の悩みを、次のように打ち明ける。「手術したら、大きなハンディになってしまう。手術をしても治る確率は100%ではないし、もしこれで投げられなくなったら……ということも考えて。今後の野球への影響を考えた時、判断できなかった」。両親や手術を経験した先輩などに何度も相談を重ね、3カ月間は手術しない方法を模索したが、なかなか見つからず、6月にトミー・ジョン手術を受ける決断を下した。
手術後、最初はグーパーもできず「本当に投げられるようになるのかな」という不安が頭をよぎった。ひざの腱(けん)を左ひじに移植したため、リハビリは足の曲げ伸ばしなど、初歩的な動きからスタート。自分が投げられない間に後輩たちがどんどんリーグ戦で登板するようになり、仲間がプレーしている姿を見ることが耐えられず、リーグ戦から距離を置いた時期もあった。
アスリートであった父からは「やれるところからやれ」とアドバイスをもらった。今村は体幹トレーニングなど、自分にできることを見つけて、再び投げられるように取り組んだ。3カ月のノースロー期間が終わり、ようやくちょっとだけ投げられた時は、喜びが押し寄せてくると同時に、「これしかできないんだ」と落胆もした。ただ、野球をやめたいという気持ちはなかった。「十何年も野球をやってきて、野球はあって当たり前のもの。選手をやめるとしても、何かしら携わっていくのではないかな」
「チーム全員が贈ってくれたプレゼント」
リハビリ期間は1年弱に及んだ。父は体について「ここは大丈夫か」「こういうストレッチをしてもらいな」などの言葉をかけ続けてくれた。父が所属している実業団のトレーナーに声をかけてくれて、リハビリしやすい環境も作ってくれた。母は特に何もない時でも「大丈夫」と言葉をかけてくれ、メンタル面で支えてくれた。両親の偉大さを感じながら、実戦復帰に向けてできることを見つけ、仲間に追いつくために練習を重ねた。
自分に携わってくれた全ての人への「感謝」を胸に迎えたラストイヤー。今村は春の駒澤大学2回戦で先発し、高校以来となる神宮のマウンドに上がった。緊張で楽しむ余裕はなかったが、報われた気がした。慣れ親しんだ地へ戻って来られたことに懐かしさも感じ、様々な思いが込み上げた。リーグ戦後半は調子を上げ、日本大学との3回戦では5回を2安打無失点。亜細亜大学との3回戦では4回を3安打無失点に抑えた。「思ったよりも結構通用したっていうか。納得のいくシーズンだったなと思う」と充実した表情を浮かべた。
ある程度実績を残せた春だったが、勝利投手になることはできなかった。「体のバランス」を春の課題に挙げ、夏は瞬発系のウェートトレーニングに取り組み、満を持してラストシーズンとなる秋季リーグ戦を迎えた。東京農業大学との2回戦、今村は1点を追う四回からマウンドに上がった。春季リーグ戦中に習得したシンカーが低めに集まり、4回を3安打1失点にまとめた。テンポの良い投球が流れを呼び込み、味方の大量得点で大学初勝利を挙げた。
「チーム全員が贈ってくれたプレゼント。初勝利は春も目標にしていたことでしたし、うれしかった。自分は手術をして、努力して結果的に1年間活躍できた。そういった経験は必ず形として残るとは限らないですけど、その中でやってきたことは絶対に無駄にはならないというのが、手術した自分が言えること。それは後輩にも伝えていきたいですね」
グラブには座右の銘「不撓不屈」の文字
集大成の1年は計15試合に登板し、チームの柱となった。苦難を乗り越えてきた左腕は復活するだけではなく、一回りも二回りも大きくなって神宮に返り咲いた。「仕事の休みを取って極力足を運んでくれた両親に、最後までマウンドに立つ姿を見せられたので、そういう意味では一つ恩返しになったのかなと。でも最終的には『プロになる』っていうのが最大の恩返しかなと思っているので、達成できるまでは頑張りたい」と今後の活躍を誓った。
今村のグラブには、座右の銘「不撓(ふとう)不屈」の文字が刺繡(ししゅう)されている。「中学も高校もけがとか色々あって。どんなことがあってもそれを乗り越える、負けないっていう意味で自分にぴったり」と今村。彼に乗り越えられない壁はない。今までの経験を糧に、社会人野球の道に進んで2年後にプロの世界へ。新たな地で、新たな仲間とリスタートする。