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特集:駆け抜けた4years.2025

中大・今村拓哉「やってきたことは無駄にならない」4年越しにつかんだ神宮での勝ち星

長いリハビリ期間を経て神宮のマウンドに戻ってきた中央大学の今村拓哉(撮影・井上翔太)

高校時代に神宮球場のマウンドで2度の完封勝利を収めた中央大学の今村拓哉(4年、関東第一)。あれから4年、今年の9月26日に再び神宮で勝利を手にした。それまでの苦難の道を追った。

高校2年の夏前に左肩を疲労骨折

競歩のオリンピック日本代表を父を持つ今村は、兄が野球をやっていた影響で幼稚園の年中から野球を始めた。食べるのが好きで、わんぱくだったという幼少期。そろばんや水泳、英会話などの習い事をしながら、千葉市の少年野球チーム「花園ライオンズ」で野球に熱中した。小学6年時には千葉ロッテマリーンズジュニアに入り、中学時代は千葉西シニアで硬式球に触れた。

兄がやっていた影響で野球を始めた(本人提供)

高校では、より高いレベルを目指して東京の強豪校、関東第一高校に進学。1年秋からベンチ入りを果たし、活躍を期待されていたが、2年の夏前に左肩の疲労骨折が判明してベンチから外れた。その年、関東一高は夏の甲子園でベスト8。自分の代わりに入った後輩が聖地で輝いている姿を見て、「自分がけがをしていなければ、あのマウンドにいたのに」という悔しさを味わった。次こそはと迎えたラストシーズン、コロナ禍で甲子園が中止になり、全国のマウンドを踏めずに引退を迎えた。「なんで今までやってきたのだろう」と失意に陥った。

それでも再び前を向けたのは、同世代のライバルがプロから指名を受けたから。今村も自身の将来を意識し、大学からのプロ入りを目標に据えた。当時は大学野球にあまり詳しくなかったが、中大の練習会に参加した時に牧秀悟(現・横浜DeNAベイスターズ)や五十幡亮汰(現・北海道日本ハムファイターズ)といった有名選手がたくさんいて、自分もここでやってみたいと思い、進学を決意。入学後は1学年上の西舘勇陽(現・読売ジャイアンツ)や石田裕太郎(現・DeNA)ら、後にプロに進むような選手たちを目の当たりにして、高校とのレベルの違いを痛感したという。1年時はリーグ戦で登板することはできなかったものの、オープン戦では結果を残し、めきめきと成長。しかしこの時、再び試練が訪れた。

足の曲げ伸ばしから始まったリハビリ

大学1年の3月、オープン戦で投げている際、左ひじに違和感を覚えた。診断結果は「内側側副靱帯(じんたい)損傷」。医師から告げられた時は、正直「またか」と思った。手術するかしないかの選択を迫られた当時の悩みを、次のように打ち明ける。「手術したら、大きなハンディになってしまう。手術をしても治る確率は100%ではないし、もしこれで投げられなくなったら……ということも考えて。今後の野球への影響を考えた時、判断できなかった」。両親や手術を経験した先輩などに何度も相談を重ね、3カ月間は手術しない方法を模索したが、なかなか見つからず、6月にトミー・ジョン手術を受ける決断を下した。

トミー・ジョン手術を受けた直後の様子(本人提供)

手術後、最初はグーパーもできず「本当に投げられるようになるのかな」という不安が頭をよぎった。ひざの腱(けん)を左ひじに移植したため、リハビリは足の曲げ伸ばしなど、初歩的な動きからスタート。自分が投げられない間に後輩たちがどんどんリーグ戦で登板するようになり、仲間がプレーしている姿を見ることが耐えられず、リーグ戦から距離を置いた時期もあった。

アスリートであった父からは「やれるところからやれ」とアドバイスをもらった。今村は体幹トレーニングなど、自分にできることを見つけて、再び投げられるように取り組んだ。3カ月のノースロー期間が終わり、ようやくちょっとだけ投げられた時は、喜びが押し寄せてくると同時に、「これしかできないんだ」と落胆もした。ただ、野球をやめたいという気持ちはなかった。「十何年も野球をやってきて、野球はあって当たり前のもの。選手をやめるとしても、何かしら携わっていくのではないかな」

「チーム全員が贈ってくれたプレゼント」

リハビリ期間は1年弱に及んだ。父は体について「ここは大丈夫か」「こういうストレッチをしてもらいな」などの言葉をかけ続けてくれた。父が所属している実業団のトレーナーに声をかけてくれて、リハビリしやすい環境も作ってくれた。母は特に何もない時でも「大丈夫」と言葉をかけてくれ、メンタル面で支えてくれた。両親の偉大さを感じながら、実戦復帰に向けてできることを見つけ、仲間に追いつくために練習を重ねた。

自分に携わってくれた全ての人への「感謝」を胸に迎えたラストイヤー。今村は春の駒澤大学2回戦で先発し、高校以来となる神宮のマウンドに上がった。緊張で楽しむ余裕はなかったが、報われた気がした。慣れ親しんだ地へ戻って来られたことに懐かしさも感じ、様々な思いが込み上げた。リーグ戦後半は調子を上げ、日本大学との3回戦では5回を2安打無失点。亜細亜大学との3回戦では4回を3安打無失点に抑えた。「思ったよりも結構通用したっていうか。納得のいくシーズンだったなと思う」と充実した表情を浮かべた。

東都1部リーグで力投する今村(撮影・小林陽登)

ある程度実績を残せた春だったが、勝利投手になることはできなかった。「体のバランス」を春の課題に挙げ、夏は瞬発系のウェートトレーニングに取り組み、満を持してラストシーズンとなる秋季リーグ戦を迎えた。東京農業大学との2回戦、今村は1点を追う四回からマウンドに上がった。春季リーグ戦中に習得したシンカーが低めに集まり、4回を3安打1失点にまとめた。テンポの良い投球が流れを呼び込み、味方の大量得点で大学初勝利を挙げた。

「チーム全員が贈ってくれたプレゼント。初勝利は春も目標にしていたことでしたし、うれしかった。自分は手術をして、努力して結果的に1年間活躍できた。そういった経験は必ず形として残るとは限らないですけど、その中でやってきたことは絶対に無駄にはならないというのが、手術した自分が言えること。それは後輩にも伝えていきたいですね」

グラブには座右の銘「不撓不屈」の文字

集大成の1年は計15試合に登板し、チームの柱となった。苦難を乗り越えてきた左腕は復活するだけではなく、一回りも二回りも大きくなって神宮に返り咲いた。「仕事の休みを取って極力足を運んでくれた両親に、最後までマウンドに立つ姿を見せられたので、そういう意味では一つ恩返しになったのかなと。でも最終的には『プロになる』っていうのが最大の恩返しかなと思っているので、達成できるまでは頑張りたい」と今後の活躍を誓った。

今村のグラブには、座右の銘「不撓(ふとう)不屈」の文字が刺繡(ししゅう)されている。「中学も高校もけがとか色々あって。どんなことがあってもそれを乗り越える、負けないっていう意味で自分にぴったり」と今村。彼に乗り越えられない壁はない。今までの経験を糧に、社会人野球の道に進んで2年後にプロの世界へ。新たな地で、新たな仲間とリスタートする。

「不撓不屈」を胸に次の舞台での活躍を誓う(撮影・齊藤さくら)

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