アメフト

「入学式事件」で始まった4years. 立命館大学・高橋健太郎監督(上)

就任後に5kg太ったという高橋監督の体が、後輩たちの手で宙に舞った(撮影・北川直樹)

アメリカンフットボールの大学日本一を決める全日本大学選手権決勝・第79回甲子園ボウルは12月15日に阪神甲子園球場であり、9年ぶりに出場した立命館大学パンサーズ(関西1位)が45-35で法政大学オレンジ(関東1位)を下し、9年ぶり9度目の優勝を飾った。パンサーズを率いたのがOBで2003年度のキャプテンだった高橋健太郎監督(43)だ。関西学院大学の一強を打ち破り、常勝軍団を復活させるためにチームへ戻ってきた陽性のリーダーは、就任1年目からパンサーズを日本一へと導いた。高橋監督が自身のフットボール人生を振り返るシリーズを2回に分けてお届けします。

2024年秋シーズンの歩み

関西学生リーグ1部
48-12大阪大
71-6桃山学院大
59-7近畿大
48-31神戸大
13-24関西大
28-7京都大
24-14関西学院大

全日本大学選手権
56-3東北大
52-27早稲田大
45-35法政大

4回生はいい伝統を残してくれた

甲子園ボウルで勝った瞬間に大量の水をかけられまして、それは非常にうれしかったんですけど、ちょっと体調を崩してしまいました(笑)。「こいつらようやったなあ」というのが正直な思いで、ほんとに自分の力は影響ないと思ってて、だから涙も出てこなかったです。関西電力を退職して2024年1月に監督に就任したんですけど、「(関電を)やめん方がよかったんちゃうか」っていうぐらいしんどい一年でした。でも彼らとこうして出会えましたし、4回生がチームを離れるのは寂しい気持ちもあるんですけど、ほんとに濃い一年間を過ごせたと思ってまして、チャレンジを後押ししてくださった同期や会社のみなさまに感謝したいです。

来年もほかのチームは強いし、頼りにしていた4回生は抜けていきます。もう一回春からしっかり積み上げていかないといけないです。ただ今年の4回生はスタンダードを高めてくれたり、勝ちにこだわる部分だとか、ほんとにいい伝統を残してくれたと思いますので、それを残されたメンバーが引き継いで、常勝軍団と呼ばれるような、「アニマルリッツ」と言われた時代を再建できるように頑張っていきたいと思います。それでは僭越(せんえつ)ながら私のフットボール人生を振り返らせていただきます。

リーグ戦で関大に敗れたところから立て直し、学生王者にたどり着いた(撮影・北川直樹)

「別のスポーツで一花咲かせたろう」と野球からアメフトへ

大阪府茨木市で生まれ育って、小学校のころはボーイズリーグで野球してたんですけど、大人のケンカに巻き込まれて続けられなくなりました。同級生のライバルにはプロ野球の西武に行ったピッチャーの岡本篤志がいました。高校でもう一回野球やろうと思って、下半身を鍛えるために中学校の陸上部に入りました。でもどんどんガリガリになっていってしまって……。中2のときにライバルやった子たちがボーイズリーグで試合やってるのを見に行ったんですよ。そしたら筋肉の付き方が全然違ったんで、頑張り方を間違えたなと(笑)。それで高校で野球やるのはやめました。

中3のときに勉強に切り替えて、受けたのが私立の関西大倉やったんです。中学の社会の先生に池田先生っていう人がいて、その先生の甥(おい)っ子が当時の関倉のアメフト部のキャプテンで向井さんっていう方で、「甥っ子が関倉のアメフトで全国準優勝してん。お前は運動神経いいからアメフトやってみたら?」って言われまして。別のスポーツで一花咲かせたろうと思ってアメフト部の門をたたきました。

野球をやめ、高校からアメフトを始めたことが大きな転機になった(撮影・北川直樹)

高3の春の大会で16人ぐらいしかいなかったです。試合が始まったらハーフタイムまで出っぱなし。オフェンスやってディフェンスやって、キッキングも全部やって。当時は関倉から推薦で5人ぐらい立命館に行ってたんですけど、枠が減るかもという話になって、森っていう超高校級のラインと飾磨、宮口っていう後にオールジャパン級になる3人が立命に決まってて、僕はどこからも声がかからなくて微妙なとこやったんですけど、最後の最後に古橋さんが来てくれて、「一緒にやらへんか」と声をかけてくれたのがきっかけで立命館に入りました。

ファーストシリーズにこだわる原体験

高校時代のオールスターチームのセレクションには根こそぎ落ちてまして。もう推薦は厳しいかなと思ってたんです。関倉の監督の岸本先生は僕が立命館に決まったとき、「お前は絶対レギュラーで出られへんから、途中でやめんなよ。マネージャーとかトレーナーとか、チームに貢献できる方法を考えて頑張れよ」と言われて。家に帰ったら両親ともめちゃくちゃ喜んでるんで、そんなこと言えないじゃないですか(笑)。だから1年、2年は体作りを中心にやろうと。通用しないにしても悪あがきしたろうと思って。1年目に4回生をつかまえて一緒に筋トレさせてもらいました。2回生の秋に先輩がけがをして、初戦にDB(ディフェンスバック)のスターターになったんです。そのゲームでインターセプトリターンタッチダウンを2回やったんです。それが僕のフットボール人生のターニングポイントになったかなと思います。

そのとき池上コーチに言われたのは「関学戦まで隠し玉でいくから」と。関学までは2本目、3本目でずっと出てて、関学戦でスターターになりました。高校の先輩でもある山中さんがキャプテンのときやったんで、山中さんと一緒に長くやりたいという思いがあったんですけど、分析をしすぎて「これや」と思ったプレーに食いついてしまって。自分の裏を取られてしまいました。ファーストシリーズのサードダウンショートやったんですけど、自陣40ydぐらいで。あれが勝負プレーやったと思うんですけど、僕の裏で通されて、そのシリーズでタッチダウン(TD)を取られました。あれを止めてたら、あの試合は勝つチャンスあったんちゃうんかなと思ってます。僕が監督としてファーストシリーズにこだわるのは、そこから来てるのかもしれないと思います。

大学時代はディフェンスバックで活躍した(撮影・朝日新聞社)

3回生のときは礒谷さんがキャプテンで、4回生はどちらかというとおとなしくて、僕らの代がやんちゃでという感じでした。2回生で負けたときにコーチ批判をしてる人が多かったんです。関学に負けたあと西宮スタジアムの更衣室で文句を言ってる人が多くて。僕は他責で終わんのは嫌やなと。明るく楽しんで、めちゃめちゃ苦しい練習をやりたいなと思って。その年が古橋さんの監督就任初年度やったんで、チームの変わり目に便乗しようと思って、ほんまに人格変わるぐらい変えて、ノッていきました。

誰よりも声を出して、先輩に対してもイジりながら練習してました。僕らは能力の高い選手が多かったんですけど、やんちゃというか一匹狼みたいなヤツがすごく多かったんです。それがこのあたりから「フットボール楽しいよね」というところを突き詰めていくスタイルへ舵(かじ)を切っていったのがすごくよかったのかなと思います。同期は冷水とか高田鉄男とか平井とか飾磨とか、後にオールジャパン級になるヤツらばっかりで、下には長谷川昌泳とか木下典明なんかもいた時代だったので、「フットボールおもろいよね」という空気になってきて。アスリートジムに集まるのが昔ゲームセンターに集まってたのと同じ感覚で、体を鍛えたりフットボールのIQを高めたりできたというのが、周りから常勝軍団と呼ばれるチームになれた要因じゃないかと思います。

関大戦で負けたあと、サイドラインでの立ち居振る舞いを「静」から「動」に切り替えた(撮影・北川直樹)

「フットボールを楽しもう」の真意

今年のリーグ戦で関大に負けたあとに「フットボールを楽しもう」と言い始めたのは、当時の取り組み方も影響してると思います。 僕は監督就任当初から「楽しもう」って言いたいと思ってたんですけど、僕らの時代と若干、いまの学生たちの気質が違うところがあるので、「楽しむ」っていう言葉を言った時に「fun」でとらえてチャラチャラ、ワーっていくのが嫌だったんです。だからあえて就任当初は言ってなかった。

どっちかというと「これだけの環境を与えてもらってるんだから、感謝して期待に応えるように頑張ろうよ」と。ずっとプレッシャーをかけ続けてしまってたと思うし、僕自身にもそのプレッシャーをかけ続けてきたと思うんですね。負けたあと大学の森島理事長としゃべったときに「もっと楽しんだらどうや」みたいなことを言われてハッとしました。それで「伝え方を間違ったらアカンよなあ」と思ってたときに、(関学前監督の)鳥内さんのユーチューブで「enrichment(充実)」という言葉を使われてて「あ、これやな」と。「楽しむ」って言ったあとには勘違いしてほしくないから「充実感」とか「達成感」といった言葉をいつも付け足すようにしてます。春にあれだけしんどい練習をやって、楽しむ土台を作ってきていたので、間違って伝わることはないかなという思いもありました。結果的に「楽しもう」と言い始めたことが好循環を生んだと思ってます。

痛恨の「入学式事件」でさまざまなことを学んだ(撮影・北川直樹)

当初キャプテンに立候補するつもりはなかった

僕の大学時代の話に戻ります。3回生で日本一になって、そのときから3回生以下がチームの中心やったんで、ラストイヤーも「優勝間違いない」って言われてました。だからすごいプレッシャーがありましたね。「勝つために」とか「日本一になるための所作とは」とか説き出すと、がんじがらめになって「もう嫌や~」ってなりそうなメンバーばっかりやったんで、「自分らしくフットボールをやろう」というところに目標を置いたことで、あのやんちゃ軍団が同じところを向いて最後まで走り抜けたんじゃないかと思います。

キャプテンに最初に立候補したのはラインバッカーだった八木で、彼で決まりそうだったんです。僕は当初は手を挙げてませんでした。というのも入学式で「事件」を起こしたことがありまして(笑)。高3の2月からスポーツ推薦組は練習にずっと行ってたんで、そこで仲よくなってまして。関倉4人と産大4人と(宝塚東の)冷水で計9人です。その 9人が入学式の朝、早く着きすぎて会場の最前列にいて、前日も追い込んでたんで足を広げて寝たり、好きにしゃべってたり。まあ怒られましたね。そのときは何も考えてなかったんですね。見られてるとも思ってなかったし。「最前列の体デカいヤツ誰や。アメフトかラグビーやろ、やめさせろ」って話になって、9人全員、その日の昼にいったん退部になったんです。「もう来るな」と。

徐々に許されて戻っていったんですけど、鉄男なんかは半年ぐらいかかって……。何が言いたいかというと、あの入学式でパンサーズっていう組織がどういうものか分かったんです。当たり前に恵まれた環境があるっていう感覚がすごくあったんですけど、これだけ支えてくれてる人たちがいるっていうのに改めて気づけたし、その人たちに感謝の気持ちを持ってやっていかなアカンっていうのは、あのときに気づけました。あの9人の間では、事あるごとにしゃべってるんです。「あれがターニングポイントになったよね」って。そんなこともあって、僕はキャプテンに立候補してませんでした。

でも、そのやんちゃ組が「健太郎の明るいキャラクターでチームを変えて、楽しんでやっていきたい」ってずっと言ってて、最後はなんかだんだんそういう声が大きくなっていったんです。そしたら「明日の朝の時点で立候補してるヤツで決めよう」ってなった日に、鉄男が僕の下宿に「いいちこ」の瓶を2本持ってきて「お前が立候補するって言うまで俺は帰らん」って。それでお互いベロベロになって「まあ、やろか」みたいな話になりました(笑)。ギリギリで立候補して、キャプテンに選ばれました。そういう意味では彼とは腐れ縁ですよね。人生を変えてもらったと思いますし、Xリーグのパナソニックのコーチも彼が声をかけてくれて入ったし。そこでも荒木さんとの出会いがあって、「こういうキャラクターがおったらええなあ。一緒にやろうぜ」って言ってもらえて。パナのOBでもないのに入れてもらいました。

同期のエースQBだった高田鉄男さん(左)が甲子園ボウル前の練習に顔を出した(撮影・廣田光昭)

監督業に生きている関西電力でのキャリア

キャプテンになった一方で、3回生の秋からたびたび脳振盪(のうしんとう)になってました。日本に脳振盪対策のレボリューションというヘルメットが入ってきたとき、たぶん最初に着けたのが僕なんです。CTとかMRIを撮っても脳が腫れてました。当時はあんまりプロトコルがしっかりしてなかったんですよね。振り返れば自業自得なんです。ショルダーの中のパッドを切りまくって軽くしてたし、ヘルメットもワンサイズ小さくして、内側をペコペコにしてたんです。ちょっとでも顔ちっちゃく見えてカッコいいかなと思って(笑)。それで脳振盪の癖がついちゃって、パンチドランカーみたいになってたんですよね。

3回生の京大戦のときに医者から3週間運動停止って言われたんですよ。4回生のときはもうあんまりヒットしないように試合も早め早めに代わるっていう感じで。甲子園ボウルも多分第1クオーターで下がってて。試合自体をフルでやったのはライスボウルだけやと思います。それぐらいケアしてたっていうのはあります。ずっとだましだまし、医者にも定期的に見てもらいながらやってたんですけど、やっぱり脳が腫れてたってこともあるので、社会人でやるなら「1年ぐらいはやらない期間を挟め」みたいなことは言われたんです。

ライスボウルで2年続けて勝たせてもらって卒業して、2004年に関西電力に入りました。営業所に3年いて、研修センターで教育計画とかを立てるような仕事を1年やりまして、そこから本社の人事で労務の仕事をやって。組合交渉とか労働時間削減とか、当時は働き方改革の走りでした。そこからダイバーシティ推進グループの立ち上げメンバーに入って、1年半立ち上げと軌道に乗るまで関わりました。そのあとは採用の部署に異動して3年。次にエル・スエヒロフードサービスっていう食堂運営会社に出向しまして。900人ぐらいの会社やったんですけど、ナンバー3ぐらいだったんです。社長、 専務がおって、経営統括部長っていう初めての役職やったんですけど、そこで3年半やって、赤字の会社だったんですけど黒字になって、売却するようなところまで話が決まって、関電に戻りました。そこから広報の仕事を4年ぐらいやって、社内広報の仕事をやったりとかCMを作ったりとか。提供番組の「住人十色」の出稿管理とか媒体管理をやって、退職するときはメディア広報課長でした。

春シーズン初戦の試合後、観戦に訪れた部員の保護者らを前に現状を語った(撮影・篠原大輔)

関電のキャリアは監督業にめちゃめちゃ生きてまして、学生たちの就職サポートはめっちゃ大事ですし、ダイバーシティでの経験とか労務では組合員の気持ちを考えてお金の提案をしていくという仕事だったので、相手の立場に立って考えるとかこう、性差の違いをどう捉えてやっていくかとか。違いを組み合わせて、新しいものを生み出していくとか。そういうのはパンサーズの組織経営をしていく中ですごく生きてるなと思っています。

入社4年目ぐらいまでは関倉でコーチをやってて、そこから「もうアメフトできるやろ」と思って吹田マーヴィーズとかブラックイーグルスで選手を3年やったんです。2012年から20年までパナでコーチをさせてもらいました。パンサーズの監督の話をいただいたのは、確か去年の秋のシーズンの前だったと思います。正直ビックリしましたね。藤田さんになってまだ2年目やったっていうのもありますし。僕がOB会なんかから言われたのは「ちょっと腰を据えてチーム改革をしていかなアカンのちゃうかなと思ってて、パワフルな人材で社会人でもフットボールの経験があって、というので考えていったときに、高橋がええんちゃうかという話になったからやってくれへんか」と。

1年あまりで作りあげた「パンサーズ憲章」

2015年を最後に甲子園ボウルに出られていなくて、すごく歯がゆい思いはありました。でも僕はコーチの批判とかまったくしてなくて。コーチも選手もめちゃくちゃ頑張っているので、それを何とかいい形につなげてあげられたらなという話はもともとしてました。監督の話をもらうずっと前に、僕は憲章みたいなものをきちっと作った方がいいんじゃないですか、という話をチーム側にしたんです。

それはなぜかというと、関電で金利問題とかあって、理念を作り直したことがあったんです。あのときに理念ってあんまり意識したことなかったなと思いまして。すべてのジャッジに関してよりどころを持ってたら、人材育成にも生きるし、チーム作りにも生きるんちゃうかなと。そういうの作ったらどうですか、って言ってたのが元々のきっかけで、「それやったら高橋やれや」って言われて、苦節1年ちょっとで「パンサーズ憲章」っていうのを作ったんですけど、それを作りながら藤田監督ともやりとりをしていました。

監督就任にあたって関電は退職しました。みんなに「なんで?」ってめっちゃ言われますし、会社にも「休職とかいろんな道があるんちゃうんか」って言ってもらったんですけど、学生たちは4年間という限られた時間の中でやるわけじゃないですか。自分は3年、4年ぐらい頑張って、とくに成果を残さなくても関電へ帰れるっていうのは、何かこう僕だけ逃げ道を作ってるみたいで。監督としての言葉も軽くなるだろうと思って、妻にもちゃんと話をして、退路を断ってチームに戻りました。

妻ももちろんパンサーズが勝ててないのは知ってたし、「もしかしたら(監督就任の話も)あるかもしれへんなあ」って思ってたところもあったそうです。だから相談したときもあんまり驚きもせず、「やりたいんやったら、やったら」と背中を押してくれました。

同じ目線で語れば、みんなの心のよりどころになれる 立命館大学・高橋健太郎監督(下)
監督就任1年目から最高の景色を見られた(撮影・北川直樹)

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