立命館大DL島岡信介 ユニクロのバイトやめて2年から入部、小さくてもやれると証明を
アメリカンフットボールの全日本大学選手権は12月15日、阪神甲子園球場で決勝の甲子園ボウルがある。関西学生リーグ1部1位の立命館大学パンサーズと、関東大学リーグ1部TOP8を制した法政大学オレンジの顔合わせ。9年ぶりに甲子園まで勝ち上がってきた立命館には身長169cm、体重77kgと小さなDLが昨年から常時出場してきた。島岡信介(4年、立命館宇治)は「小さくても武器があれば、それを磨けば勝負ができる。それは僕が証明してきました。甲子園ではスピードラッシュからQBサックを決めたい」と話している。
立命館宇治中3年以来となる甲子園の舞台
奈良市内で生まれ育った島岡は、小学校の6年間は野球に打ち込んだ。阪神ファンだったから、当時は金本知憲選手のユニホームを着て、甲子園球場に何度も応援に行った。12日の甲子園練習の日、島岡は「金本とか赤星、下柳と同じグラウンドに立てるのは光栄ですし、うれしいですね」。思わず子どものころと同じ呼び捨てで3選手の名を挙げ、笑顔で言った。アメフトを始めた立命館宇治中(京都)で3年のとき、甲子園ボウル招待試合で啓明学院中(兵庫)と対戦。「芝生に露がついてて滑りやすかったのを覚えてます」。その甲子園で大学ラストイヤーに日本一をかけて戦える。
立命は4人のDLで戦う。中央の2人がDT(ディフェンスタックル)、外側の2人がDE(ディフェンスエンド)だ。DEのうち1人は「エース」と呼ばれ、パスカバーもするし、第2列に下がってLB(ラインバッカー)と同じ役割をすることもある。学生トップレベルのDLは身長180cm超、体重100kg超が当たり前だが、169cmの島岡が持ち前の速さを武器に生き残ってこられたのは、立命がこのシステムを採ってきたのが大きい。島岡自身が「システムに救われました」と話している。準決勝の早稲田大学戦でも最前列からラッシュをかけたかと思えば、第2列からのブリッツもあった。
一時はアメフトに一区切りをつけると決めた
中学受験で立命館宇治を志望校にしたあと、立宇治の高校の野球部は超強豪で、立宇治の中学の野球部から上がって試合に出られる人はまずいないと聞いた。一方で、立宇治の中学でアメフトを始めれば高校で日本一を狙えるとも聞いた。島岡の心は決まった。アメフトを始めてすぐレシーバーの練習をしていたら、1回落としたのを顧問の先生に見られ、「お前はDL行け」と言われた。中学はタッチフットだからタックルはできないが、ライン同士のぶつかり合いはある。「そのころはみんな小さかったし、ぶつかるのが楽しかったです。ぶつかって相手を抜いてボールキャリアーを止めるってのが、とくに楽しかった」
高校になるとラインの選手のサイズも一気に大きくなるが、島岡はDEが自分に一番合っていると考えて、ポジションを変えようとはしなかった。高1のときは日本一を決めるクリスマスボウルに出て佼成学園(東京)に逆転負け。2年からスターターとなったが、先輩の卒業で空いた枠に入っただけで、コーチからは「実力でとったんちゃうねんから、めっちゃ練習しろ」と言われた。必死で当たるが、強い高校のオフェンスライン(OL)とはサイズの差があってどうしても負ける。ランに対する守り方が課題だった。
そこで島岡は頭を使うことにした。「相手の隊形でプレーを予想して、先回りするようにしました。過去の試合の映像を何回も見て、相手のOLの癖も見つけて。高校でそこまでやってた人はあんまりいなかったです」。予想通りになってナイスタックルができたときは、何よりうれしかった。その年もクリスマスボウルに出場すると、佼成学園に前年の借りを返して初の日本一に輝いた。
高3の秋は全国大会の関西地区準決勝で大産大附に負けて終わった。いま立命で同期の山嵜大央(だいち)が相手のエースRBだった。島岡が相手OLを処理して山嵜へタックルに向かうと、上からヘルメットを押しつけられ、強引に外された。「あのころからダイチはフィジカルがすごくて、上には上がいるんだなと思いました」。それでもアメフトはやりきったという思いがあり、大学ではやらないと決めた。だから内部進学で進む学部は、アメフト部の拠点がある滋賀県草津市のびわこ・くさつキャンパスから遠い、京都市北部の衣笠キャンパスにある法学部を選んだ。
1対1の練習では最初に出て一番強い相手と戦う
2021年春に新しい生活が始まってすぐ、島岡はユニクロでバイトを始めた。ただ、まだコロナ禍にあり、時間をもてあますようになった。しかも高校の同級生でアメフトを続けた仲間たちの活躍が耳に入ってくる。「俺は何をしてるんやろ」と思うようになった。大学のパンサーズの一員として戦い始めた仲間が輝いて見えて仕方なかった。「やっぱりアメフト続けようかな」。迷っているうちにどんどん入りづらくなり、時は過ぎていった。
ようやく21年の秋シーズンが終わったあと、高校の1学年先輩の松本康佑さんに連絡して、コーチや主務に話を通してもらった。高校の監督である木下裕介先生も大学側に話をしてくれた。こうして2月のトレーニング期間からチームに加わった。スポーツ推薦組の新入生と同時に入ったため、新入生たちにはしばらく同期と間違われていた。
今回ばかりはLB転向も考えたが、大学のコーチが「DLでもいけると思うで」と背中を押してくれた。とはいえ高校よりさらにOLのサイズが大きくなるため、島岡はDLとしては1試合も出られず4年生のシーズンが終わることも覚悟していた。もしそうなっても、スピードを生かしてキッキングゲームで頑張り、チームのためになろうと考えていた。
それが、である。春になって防具を着けた練習が始まると、コテンパンにやられると思っていた立命のOLに対しても、そこそこの勝負ができた。東京遠征のメンバーに入って、早稲田戦の最終クオーターにDLとして大学での初出場を果たした。本番の秋シーズンはDLとしての出番はなかったが、当初の覚悟通り、キッキングゲームで走り回り、体を張った。
3年春の長浜ひょうたんボウル(対早稲田)では、DLの勲章であるQBサックを3回も決め、優秀ラインマン賞を受けた。このとき私は島岡のプレーを初めて見た。スピードがあるといっても、とんでもなく速い訳ではない。速さよりも、どれだけやられても次のプレーで向かって行く芯の強さや、最後までパシュートし続ける姿勢に感心した。3年になってからの1対1のパスプロ・パスラッシュの練習では、必ず最初に出ていって、一番強い相手と戦うようにしたのだという。なかなかできることじゃない。いい根性をしている。
秋はファーストチームに定着し、リーグ戦で二つのQBサックを記録。ただ10-31と完敗した関西学院大学戦では屈辱を味わった。「まず相手のOLのレベルが高くて自由に動けなかったし、初見のプレーに慌ててしまって僕のミスが原因で失点したのが2回あって。とくに先制点を取られたプレーはアンバランスで僕の目の前のOLがTE(タイトエンド)の選手になってたんですけど、みんなにそれを伝えきれずにプレーが始まって、そのTEにタッチダウンパスを通されました」。関学、関西大学と6勝1敗で並んで3校同率優勝となったが、キャプテンによる抽選で「1位相当」を引いた関学だけが選手権へ進んだ。
スピードラッシュ以外も磨いた最終シーズン
ラストイヤーを迎えた今年1月にOBの高橋健太郎さんが新監督に就任。島岡は3月にけがを負った。リハビリと後輩への指導と就職活動の日々を経て、6月9日の関学戦で戦列に復帰。3年の秋と比べるとしっかり当たれて、自分自身これで関学とも戦えると感じた。負け続けてきた関学に24-24と引き分け、高橋監督への信頼が深まったという。「あの試合の前に選手からスタッフへのコンバートがあって部を離れたヤツもいました。健太郎さんに不信感を持ってる人もいたと思います。僕自身も高校から仲の良かったヤツがやめたんで思うところがあったんですけど、関学と引き分けて健太郎さんへの気持ちが変わっていきましたし、やめたヤツらのためにも、今年は日本一という結果を残すのが大事と考えるようになりました」
最後のシーズンに向け、島岡はスピードラッシュ以外の勝負手を磨いた。「僕がスピードで回りきろうとするのがバレてるので、OLは先に下がって流しにくる。だから真っすぐ当たりにいって、相手が出してきた手に対して仕掛けたり、そのままブチ当たったり。いろいろやっていく中でスピードラッシュを決めたいんです」。関大に負け、関学に勝ち、関大に勝った早稲田に勝った。まだラストシーズンの島岡にQBサックはない。関学に勝った法政との頂上決戦で、169cmのDLは最後まで狙いにいく。「法政のOLは強いですけど、どうやって突破するのかは考えてあります。ウチのOLと当たってきてるんで、試合のときは楽なんです。圧が全然違う。僕がここまで試合に出られたのは、立命のOLのおかげでもあります」。恩返しのQBサックはなるのか。
もし1年生のとき、迷ったあげく入部を諦めていたら。「考えるだけでおそろしいです。バイトして就活してたんですかねえ」。島岡は苦笑いで話す。個性派ぞろいのチームにあって、DLの4年生はとくに変わり者だらけという。「水谷は長渕剛が好きで、ウェイトルームで大音量で曲を流したり、試合前のロッカーで唄ってます。野村も塚本も山本も変なヤツで、僕も変なヤツです(笑)。楽しかったし、一生の仲間ができてよかったです」
体が小さいからと、やりたいポジションを諦めることはない。一つ武器があれば、頭を使って勝負できるところまで持っていける。パンサーズの40番が、甲子園ボウルで身をもって示してくれるはずだ。