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特集:駆け抜けた4years.2025

明治大・飯森太慈 エリート軍団の中をはい上がった快足、リーグ3連覇と日本一に貢献

4年秋の天王山、早大2回戦では、4安打の活躍を見せた(撮影・明大スポーツ新聞部)

明治大学不動の2番打者として、85年ぶりの東京六大学リーグ3連覇や2022年の明治神宮大会制覇など、黄金期を支えた飯森太慈(4年、佼成学園)。身長163cmと小柄ながらも、50m5秒9の俊足を武器に、リーグ通算31盗塁を積み上げ、首位打者や2度のベストナインにも輝いた。

大学最後の1戦の翌日「4年間、本当に幸せだった」

昨年11月12日、76年ぶりとなった早稲田大学との優勝決定戦。リーグ戦から苦手意識のあった早大エース伊藤樹(3年、仙台育英)を攻略できず、0-4で完封負けを喫した。九回表2死で迎えた飯森の最終打席。ここまで2三振と苦しむ中、追い込まれてからの釣り球にバットが反応してしまった。早大ナインが歓喜の輪をつくる中、バッターボックスで飯森は小さく肩を落とした。

「正直何もできなかったです。自分としては本当に悔しさが大きい。でも早稲田は強かったので、チームとしてはしょうがないのかなと」

敗戦の翌日、新人戦が行われた神宮球場のスタンドで静かに世紀の一戦を振り返った。表情はすがすがしかった。「大学4年間は自分にとってすごく転機だったなと思います。本当に幸せだった」。最後は誇らしげに語ってくれた。

4年秋の優勝決定戦では3三振と苦しみ、最後の打者に(撮影・明大スポーツ新聞部)

千載一遇のチャンスに3安打「一気に来ました」

飯森は指定校推薦で明大に入学した。同期は宗山塁(4年、広陵)など高校野球で名をはせたエリートばかり。実力の差は歴然だった。

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さらに、「入寮するのが遅かったのと、コロナで練習ができなかった。1年生の10月まで練習ですら打席に入ったことがなかったんです。もう少し練習させてもらえるかなと思ったんですけど、全然できなくて、このままだとやばいなって」。明大は部員が100人を超える大所帯。練習ですら十分な機会を与えられず、アピールの場は限られた。

そんな状況下で、ある一つの試合が運命を変えた。「オータムフレッシュリーグ(下級生年代の育成も目的とした大会)のメンバーに、1年生のスポーツ推薦じゃない選手を選ぶっていう話があったんです。その時に、高校の先輩だった学生コーチが自分を選んでくれた」

その試合で飯森は3安打の活躍を見せた。千載一遇のチャンスをモノにすると、周囲の評価は一変した。

「それまでは選手として見られている感じは本当になかったんです。でもその試合を機に、コーチに自分の走力を見てもらえるようになって、一気に来ましたね」

数少ないチャンスをものにして、レギュラーまで駆け上がった(撮影・井上翔太)

監督から「飛脚」、2年秋にはスタメンで日本一

リーグ戦初出場の時は、意外にも早くやってきた。2年春の東京大学1回戦、代走からだった。初球から臆することなくスタートを切り盗塁に成功。相手捕手の送球エラーも誘い三塁まで進塁した。

法政大学2回戦では同点のホームを踏んだ。九回表、上田希由翔(現・千葉ロッテマリーンズ)の適時二塁打で1点差に迫ると、田中武宏監督はすぐさま飯森を代走に起用。続く打者の三遊間を抜く当たりで一気に生還した。その異次元のスピードに、相手のレフトは前進守備だったにもかかわらず、クロスプレーにすら持ち込めなかった。

「希由翔さんがツーベースを打った後、塁上で僕のことを指さして(監督に)『代えろ』って伝えたんです。それで代走に起用されてホームまで返って来られたんですが、希由翔さんに指をさされたのが本当にうれしかった。認めてくれているんだなって思えました」

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その後の全日本大学野球選手権でも飯森は代走の切り札として出場。田中監督も「飛脚」というあだ名をつけるほど全幅の信頼を置いていた。

初出場は代走。チーム1の俊足で日本一に貢献した(撮影・明大スポーツ新聞部)

2年秋にはスタメンに定着。全試合に出場し9盗塁と走りまくった。また2番打者として、1番の村松開人(現・中日ドラゴンズ)と3、4番に座る宗山、上田のつなぎ役を担い、6年ぶりの日本一の輪にも加わった。

「正直、大学で野球は辞めると思っていました。『何とかベンチに入って神宮でプレーしてみたいな』ぐらいの目標でここに来たので。死に物狂いで練習はしたつもりなんですけど、まさかこうなっているとは想像してなかったです」

圧倒的な走力という強みが、想像を超えるキャリアを切り開いた。

首位打者とスランプ 歓喜と苦悩の1年間

3年春には打撃が開花した。開幕戦から7試合連続で安打を記録し、最終2カードでも16打数10安打と打ちまくった。首位打者(4割2分6厘)とベストナインを獲得し、リーグ戦3連覇に貢献。「最高のシーズンでした。自分がベンチ入りしてから全部優勝しているので持ってるなと思います」と充実感を口にした。

しかし、秋になると歯車が急に狂い始めた。出だしこそ良かったが、開幕5試合目から完全に当たりが止まった。23打席ヒットが出ず、打率も2割2分4厘と自身ワーストの数字。チームも4季ぶりに優勝を逃す苦しい秋だった。シーズン終了後、不調の要因をこう分析した。

「(首位打者に関しては)もちろん名誉なことだし、ファンの方から声をかけてくれることも増えて野球人生はすごく変わりました。なので絶対に取った方がいいんですけど、自分の成長っていう部分ではどうだったのかなと。自分の実力はそんなにないのに、神宮でそれ以上が出てしまった。そうすると、自分に満足できなくなって、どんどん自分に『何で?』ってなってしまって。段階を踏むべきところを、結果だけが先に出てしまったことは良くなかったかもしれません」

自身の実力と数字のギャップが、意図しない焦りにつながった。酸いも甘いも味わった1年だった。

3年春は首位打者を獲得。瞬く間に六大学の顔となった(撮影・明大スポーツ新聞部)

副将としての覚悟 天王山で4安打

最終学年では、主将の宗山から指名を受けて副将に就任した。「自分の成績が良くないと、チームのことを見る余裕は生まれない。肩書だけの副将にはなりたくないです」。幹部発表があったその日、こう決意をあらわにした。

4年春はまさに有言実行の活躍だった。本来の打撃を取り戻し、打率3割4分9厘と好成績をマーク。自身2度目のベストナインに選出された。それでも優勝を逃したことで納得はできなかった。「打率が高かっただけなので。チームへの貢献度に対しては満足していない」

集大成となる最後の秋は、調子が上がらなかった。3カードを終え打率は2割台前半に。出場も危ぶまれる状況だった。

それでも、早大との天王山では意地を見せた。1回戦を落として迎えた2回戦。七回裏、2点ビハインドの2死一、二塁で打席が回ってきた。詰まった飛球は、ぎりぎりのところでフェアゾーンに落ちた。飯森は一塁上でベンチに向かってガッツポーズを見せた後、一塁側の明大スタンドをあおるように鼓舞。試合は引き分けに終わるも、飯森はこの日4安打。土壇場に追い込まれたチームを自身の一打で救った。

飯森はフェアゾーンに飛ばせば、快速が何よりの武器になる(撮影・井上翔太)

「自分の成績にこだわれ」後輩へのエール

その後明大は、優勝決定戦で敗れ、賜杯(しはい)奪還はかなわなかった。取材の最後に、後輩に伝えたいことを尋ねてみた。飯森は下級生が出場する新人戦を見守りながら、こう話した。

「大学野球って自分の取り組み方次第で本当に変わる。神宮で試合が終わった後に『もっとこうすればよかった』って後悔することがないように練習してほしい」。そして、こう続けた。「4年春にベストナインを取って、自分の成績はもういいかなって思ったんです。チームが勝てばいい、それぐらいの方がいいのかなって思ったんですけど、実際そんなことはなくて。自分の成績はいいからチームが勝てばいいと思っているようなやつは神宮で打てない。結局自分の成績にこだわってるやつが打つので、その考え方がそもそも違ったなと今は思います」

自身は社会人野球・東京ガスで野球を続ける。

「野球への思いが燃え続ける限りはやっていたいです。これからは結果が出なければクビになる世界なので、なんとか頑張ります」

誰からも注目されなかったところから、六大学を代表する選手にまで上り詰めた4年間。新天地でも、粘り強くはい上がる。

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