中大・三橋朋徳 準硬式で投手・野手・監督の「三刀流」、これからも縁の大切さを胸に

投手、野手、そして監督もこなした中央大学準硬式野球部の「三刀流」三橋朋徳(4年、八千代松陰)。硬式野球部だった高校時代は、千葉独自大会で2度のサヨナラ勝ちを収めてベスト4に輝いた。大学では8年ぶりの日本一に貢献。卒業を控え、改めて生い立ちや大学4年間の挑戦を振り返ってもらった。
「ミラクル松陰」に沸いた高校最後の夏
三橋が野球を始めたのは小学1年生の頃。お寺の住職である父が野球経験者だったことや、千葉ロッテマリーンズの試合へ頻繁に通っていた影響で、兄とともに地元の少年野球チーム「大久保フロッグス」に入団した。中学も軟式野球部で、投手として習志野市選抜や千葉県選抜のメンバーに選ばれ、全国大会でも優勝を果たした。

高校は「文武両道を体現すること」を第一に、父の母校である八千代松陰高校へ進学した。2年からベンチ入りを果たし、投手に加えて、外野手としても活躍。3年目には副キャプテンを任された。しかし、最後の夏は新型コロナウイルス感染拡大の影響で、地方大会を含む全国高校野球選手権大会が中止になってしまった。
部員たちは兼屋辰吾監督と話し合いを重ね、8月の千葉独自大会では三橋を含む「3年生のみ」で出場することを決めた。この決断により、一時はチームが分裂してしまったが、当時のキャプテンの励ましもあり、再び前を向いて練習を続けた。
独自大会は8の地区大会で勝ち抜いた代表校によって決勝トーナメントが行われ、八千代松陰は第5地区から出場し、地区の決勝はサヨナラ勝ちを収めた。三橋は決勝トーナメントの準々決勝、千葉黎明戦で先発のマウンドへ。チームは粘り強く戦い、九回に逆転サヨナラ満塁ホームランが飛び出した。試合中に体調を崩して治療中だった三橋は、戻ってきた仲間たちと泣きながら喜び合った。準決勝で木更津総合に敗れたが、当時の快進撃は「ミラクル松陰」と評された。

苦心した大学1年目、再び二刀流の道へ
兼屋監督の高校時代のチームメート、小泉友哉氏がコーチを務めていることが縁で、三橋は中大の準硬式野球部を進路に提案された。体験練習ではレベルの高さに驚き、不安が募った。しかし、父から「受かったら何かの縁だ」と背中を押され、セレクションに挑戦すると、わずか8人の合格者に名を連ねた。
入学当初は投手だったが、制球が定まらず、新人戦のときには外野手へ転向した。「通用しないって分かったし、即戦力じゃないと厳しい」と三橋。1年時は出場機会も少なく、スタンドで応援する歯がゆい日々を送った。
転機となったのは2年になる頃だった。先輩たちから「ピッチャーに戻って来いよ」と勧められ、「諦めかけていた投手の道を再開したい」とコーチから就任した小泉監督に願い出た。
承諾されて少しずつ投球を再開すると、外野手として遠投を繰り返していたことが奏功し、「自分でもびっくりするくらい」球筋が良くなっていた。公式戦では、改善されたストレートと得意とする変化球を武器に、主に中継ぎとして登板。野手としても活躍を見せ、徐々に「二刀流」で出場する機会が増えていった。
自身の投球で最も印象に残っている試合には、昨年8月の全日本大学準硬式野球選手権大会を挙げる。準々決勝の同志社大学戦では上位打線が続くところで起用され、「4年生が投げられないと、誰も投げられない」と奮起して無失点。翌日の愛知大学戦では満塁のピンチで救援し、4球で切り抜けた。「青春って感じで本当に充実した5日間だった」。決勝も九州産業大学を相手にロースコアの展開を制して、8年ぶりの日本一をつかんだ。

新人戦やリーグ戦で采配を振るうように
三橋には、監督としての顔もある。ある日の練習試合でチームは諸事情により指導者を欠いたため、主務に就任していた三橋が監督代行を務めた。その後もたびたび代行を任され、次第に新人戦やリーグ戦でも采配を振るうように。指揮を執る上で気を付けているのは「出し惜しみしない」こと。「打倒中大」を掲げて挑んでくる相手に対し、受け身ではなく、初回から攻撃的にヒットエンドランやスクイズなどを仕掛けていった。継投では選手と密にコミュニケーションを取り、適切なタイミングで交代させるなど、その手腕を存分に発揮した。
「毎日練習に出ているから、監督よりも近い距離で選手の状態が分かるという点は、学生が監督をする際の利点」と語り、定石を覆す采配がチャンスや得点に結びついた時は「一番気持ちいい」と述べた。こうして「三刀流」が確立された。

父に感謝を伝えると、感謝の言葉が返ってきた
座右の銘は「我逢人」。出会いの尊さを表した禅宗の言葉で、両親の姿や競技を続けてきた中で改めて「縁」の大切さを感じたという。「高校選びや進路選択で準硬式野球へ進まなければここにいないし、仮に違う選択をしていてもいろんな人と関わっていたと思うから、こうして集まれたのはすごく運命だし、これからも大切にしていきたい」と語る。
また、父の存在は大きかった。三橋の幼少期から地元住民と盛んに交流する姿があり、大学に入ってからも選手たちの写真撮影や父母連絡会の会長を担うなど、人とのつながりを重視していた。大学最後の試合を終えた後に感謝を伝えると、「(入部してくれた)おかげでつながれた縁がある」と父からも感謝の言葉が返ってきた。「ちょっとずつでも(恩を)返していかないといけないな」としみじみ語る。
卒業後は、地元からほど近い柏市役所の軟式野球チームで競技を続ける。「野球を続けられるということに感謝して、人の縁を心の支えに頑張っていきたい」と三橋。彼の「三刀流」は自身のポテンシャルだけではなく、多くの人が関わって成し遂げられた。これから始まる社会人生活、新天地で三橋が紡いでいく縁も無限大だ。
