慶應義塾大・激動の4年間(上) チームを率いて昇格果たした正反対の主将と副将

この春に卒業する慶應義塾大学ソッカー部の4年生は、ジェットコースターのような激動の4年間を刻んだ。入学した2021年度は関東大学サッカーリーグの1部に所属し、早慶戦でも10年ぶりに勝利をあげる華やかな幕開けから始まった。ところが、リーグでは2年連続で降格を味わい3部へ。3年時に2部へ復帰し、最終学年では2部で優勝を勝ち取り、1部昇格を果たした。その4年生たちの群像を3回に渡って取り上げる。「上」は、チームを率いた主将と副将のストーリー。
挫折と成長が詰まった歩み
関東2部、3部への降格という苦難を経験しながらも、再び1部の舞台へ返り咲いたその歩みには、挫折と成長、そして希望が詰まっている。チームを牽引(けんいん)してきたのが、主将・山口紘生(4年、國學院久我山)と副将・茅野優希(4年、慶應)だ。彼らはそれぞれ異なる個性を持ちながらも共通の目標を掲げ、チームをまとめ上げてきた。1部に昇格するまでの過程で2人が見いだしたもの、戦い抜いた日々の中で抱いた思いをひもとく。
2年連続の降格に山口が感じた責任
慶應ソッカー部で過ごした4年間は、決して平坦(へいたん)ではなかった。山口が入学した当初、チームは関東リーグ1部。がむしゃらに先輩たちについていく中で、リーグ戦出場のチャンスをつかみ、チームのために戦い続けた。早慶戦でも「10年ぶりの歴史的勝利」をピッチで経験。しかし、状況は一変した。2年連続で降格し、2023年度は新設された関東リーグ3部の舞台で戦うことに。山口は「出場していた選手として、一番責任を感じていた」と当時を振り返る。降格はチームに大きな打撃を与えたが、山口の覚悟は強まった。「絶対に自分が力を発揮して、チームを2部、1部に戻さなきゃいけない」。最高学年でなくともチームの中核として「強い慶應を取り戻す」という思いが、彼の心に強く刻まれた。

挫折して気づいた仲間のために「背負って戦う」こと
1、2年生の頃に経験した2度の降格について山口が責任と覚悟を語る一方で、茅野も苦しい時期があったと振り返る。2年生までは関東リーグで多くの出場機会を得ていた。しかし、亜細亜大学に負けて3部降格を喫した入れ替え戦ではメンバー外に。浦安の地で泣き崩れる選手たちを、ただ応援席から見届けることしかできなかった。
「3部初代王者」を掲げて始動した3年生としてのシーズン。「絶対俺がやってやろう」と、自分を奮い立たせた。しかし、当時の監督から伝えられたのは「戦力にならない」という言葉だった。ここから、自分が描いていた理想と現実のギャップに苦しんだ。この挫折は茅野の19年間のサッカー人生のターニングポイントになった。
2年時までの茅野の原動力は、「自分」。大切にしていたのも、自分の得点やアシストだった。だが、挫折をきっかけに、この価値観を変えようと、「仲間のために行動する」ことを誓ったという。仲間の思いに目を向け、変わろうと努力した茅野がサッカー人生で最も印象深い試合に挙げたのは、3年時に2部昇格を果たした入れ替え戦だ。青山学院大学との負けられない戦い。この試合で茅野は、シーズン公式戦で唯一のスタメン出場をかなえた。スタメンで出場することのありがたさと喜びをかみ締めると同時に、「背負って戦う」ことを感じられた試合だったという。試合に勝ち、仲間のために戦った結果としての「2部昇格」。茅野は思わずうれし涙を流した。原動力が「自分」から「仲間」に変わったこの1年間は、茅野にとっての大きな転機だった。

凸凹だからこそ多くの言葉を交わした2人
このようにして2人が積み重ねた覚悟と努力は、4年目には揺るぎないものとしてチームを導く基盤となった。大学サッカーのラストイヤーを迎え、仲間たちから「主将・副将」を任された2人。山口は、「自分が部の模範となり、自分の言動がスタンダードになるという意識を常に持っていた」と語った上で、主将としての立場を「1番自分にプレッシャーをかけられる位置」だと表した。山口の強い覚悟と呼応するかのように、茅野もまた「1番自分がこの部に価値を発揮できると思って立候補した」と語る。
「キャラクターが正反対で、凸凹の五角形を2人合わせたらきれいになるみたいなイメージです」。山口は茅野との関係性をこう口にした。正反対の2人だからこそ、意見が対立することも少なくなかった。茅野が「絶対にやるべきだ」と感情を高ぶらせたとき、山口が「それは違う」と冷静に反対する場面が何度もあったという。逆に山口が何かを強く主張したときには、茅野が異なる視点から意見を出すことも。そのたびに2人は立ち止まり、真剣に向き合ってきた。「しっかりと話し合って考えることで、一つの意見にまとまることができた」と山口は振り返る。「キャラクターや考えが元から合ってしまうと、(感情が高ぶったときに)考えずに行動に移してしまったり、正しいと認識したりしてしまいますが、しっかり2人で話し合う時間を作ることができました」。凸凹であるからこそ多くの言葉を交わすことで、全ての言動に責任を持ってチームに大きな影響を与えられるのだ。

互いに敬意を抱き認め合う
茅野は山口のことを「ずっと横にいたので、彼の思考力とか、 視座とか、振る舞いとか、かっこいい人だなと思います」と語る。また、夏の早慶戦前の取材で山口は「慶應のサッカーを体現するっていう意味では、茅野の責任感とか、技術面、体を張って走り続ける姿勢みたいなところは、他の下級生とかまだまだ持ってないところだと思います。そういう選手が活躍してこその慶應のサッカーです」と、茅野が「慶大サッカーの体現者」であることを強調していた。互いに敬意を抱き、認め合い、それぞれの役割を自覚して、自分にしかない色を放っている。そうすることで生まれた一体感が、4年間をともに駆け抜ける原動力となったのだろう。
チームで掲げた「慶應らしさ」と「個の追究」
慶大チームとして掲げた2024年度の目標は「慶應らしさ」と「個の追究」だった。主将の山口は「チームとして勝つために、サッカー以外のことにしっかりと時間を使って自分たちで勝ちにいこうとする」点が「慶應らしさ」であると示した。加えて、「サッカー選手としての自分、個人を追究しなくて良いという逃げ道をつくっていないかというのが、自分たちが4年生になった時に考えたことです。選手として可能性がなくなった時、能力が足りない時に自分がピッチ外でどう役割を持ってチームに貢献しているか。存在価値を高めることがなければ、体育会ソッカー部に入る意味はないと思うので、個の追究は大前提としてあるべきだ」と、組織の中で存在価値を高める必要性を「個の追究」として大きく掲げた。

大切にする価値観が実を結ぶ
茅野は、選手としての自分だけでなく、「誰かのために頑張る」ことをチームへの貢献の一つとして行動に移した。トップチームにいながら、最後の1年間は毎週火曜日にBチームが行う「6時半練習」にも出ていたのだ。茅野はこれについて「Bチームの選手たち全員がどういう顔をしてサッカーをしているのか、どういう風に練習に取り組んでいるのかを見ようと思っていました。それが結果的に全体を良くすることにつながると信じて行っていました」と語る。そして、こうした茅野の姿勢は確実にチームへ変化をもたらした。茅野の姿を見た3年生たちが、連動してBチームの6時半練習を見に来るようになった。元々ユースでプレーしていた大下崚太(3年、東京ヴェルディユース/慶應)や田中雄大(3年、三菱養和SCユース/成城学園)、角田惠風(3年、横浜F・マリノスユース/慶應)らが、自ら必要性を感じて足を運ぶようになったという。「彼らから出る言葉だったり姿勢だったり、本当に変わりました」。茅野は今後のチームを担う後輩たちが、チームのために自ら意識や行動を変えられたことに大いなる期待を込めた。主将・副将として大切にしていた「練習での取り組み姿勢や施設内での振る舞いが部の基準を押し上げることにつながる」という価値観が、まさに実を結んだ瞬間だ。
最後に「証明」した4年間のソッカー部人生
慶應ソッカー部の4年間を駆け抜けた山口紘生と茅野優希。彼らの4年間は、ただのサッカーの勝敗に留まらず、チームとしての成長、個人としての成長、人間としての変化を物語るものだった。山口は引退ブログで「全てをソッカー部に捧げた」と振り返り、茅野も「ソッカー部が自分の人生を変えてくれた場所」と語った。
そのような言葉を紡(つむ)ぐ彼らが、ソッカー部人生を最後に「証明」した試合が、関東リーグ2部・城西大学戦と日本体育大学戦だろう。城西大戦でついに「1部昇格」を果たし、日体大戦では「2部優勝」を成し遂げた。彼らが率いたチーム全員で、強い慶應を取り戻した。茅野は日体大戦後の心境を「目標を達成できた高揚感と安堵(あんど)、色々な感情が混ざって涙が出ました」と思い返す。ピッチ上からスタンドを見上げたときに見えた学生の顔、保護者やOBの顔。この4年間、ずっと見たかった景色だ。それは彼らだけでなく、チームを支え、ともに戦い続けたすべての人々と分かち合った喜びの瞬間でもあった。降格からはい上がり、仲間とともに一歩ずつ積み上げた努力の結晶であり、揺るぎない4年間の「証明」だった。
慶應ソッカー部は、再び1部の舞台に立つ。そしてそこには、これまでのチームが刻んできた覚悟と努力がたしかに息づいている。「1部優勝・全国制覇」、更なる高みを目指すソッカー部は、これからも新たな歴史を紡ぎ続けるだろう。
