陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2025

「本当に駒澤に入ってよかった」並木大介、主務として選手を全力でサポートした4年間

三冠達成直前、ゴールへと向かう2年時の並木。「一生忘れない瞬間」と振り返る(撮影・藤井みさ)

この春に卒業を迎える4年生特集「駆け抜けた4years.」、今回は駒澤大学の主務を2年半務めた並木大介(4年、大多喜)です。マネージャーとして入部し、選手を支え続けた4年間を振り返ってもらいました。主務だけが見られる「特別な景色」のことも語ってくれました。

「箱根駅伝に関わりたい」マネージャーとして駒澤入学

千葉県出身の並木は、父や姉が近所の陸上のクラブチームに通っていたこともあり、幼少の頃から一緒に走っていた。走るのが好きな家族は、駅伝も好き。「6区がスタートするぐらいの時には家を出て、大手町に向かうんです。毎年最前列で見ていた記憶です」と並木が振り返る通り、並木家のお正月は箱根駅伝観戦が定番になっていた。「自分もどんな形でもいいから、箱根駅伝に関わりたいとはいつの間にか思っていましたね」

小学校高学年ぐらいから長距離をメインに取り組み、大多喜高校に進んでも陸上を続けていた。5000mのタイムは16分台で、県大会にいけるか、いけないかぐらいのレベル感だった。しかし、そんな並木のところにもクラブチームの恩師を通してスカウトが来た。

「箱根駅伝の予選会に出るために今から強化していこう、という大学からのお誘いでした。それとは別に、駒澤でマネージャーであれば採用するという話もあり、どちらかかな……と考えました。自分の実力もわかっていたので、選手としてはある程度かなわない部分もあるなと……。『箱根駅伝に関わる』という意味では強いチームに行ったほうがいいなと考えて、駒澤を選ぶことにしました」

1年時の並木と3学年上の町田マネージャー。並木と学部・学科が同じで、師匠的な存在だった(撮影・高野みや)

指定校推薦で駒澤大学に入学し、マネージャーとして入った同期は5人。その中で並木が一番実家が遠いという事情もあり、最初から寮に入った。主力選手もいる第一寮で、はじめから「強い駒澤」の雰囲気に24時間触れられたのは、並木にとって財産になった。

選手から支える立場になり、はじめは戸惑うこともあった。「覚悟を持って入ったつもりだったんですが、高校生まではマネージャーというと、基本は練習でのタイム取りがメインでした。大学に入ると今まで高校の先生がやっていたような遠征の手配なども仕事に入ってくるので、覚えることが多かったです。先輩に教えてもらいながら、徐々に慣れていきました」

「明日から主務を」2年夏の転機

並木に大きな転機が訪れたのは、2年の夏だ。7月の野尻湖での選抜合宿中、7月31日に大八木弘明監督(現・総監督)から電話がかかってきた。いつも通り練習についての確認だと思って電話に出たら、「明日からお前が主務をやってほしい」と言われた。

「予想と違う内容過ぎて、頭がついていかなくて。『あ、はい』みたいに言って電話を切ったと思います。そのあと我に返って、『自分がやるんだな…?』とじわじわと実感が湧いてきました」

マネージャーとして入学したときから、「マネージャーをやるなら、主務までなってやろう」という気持ちはあった。しかし2年生の途中から主務になるとは全く予想外だった、と思い返す。

左から田澤、山野、円。この3人の存在があったから「みんながついていこう」と思えた(撮影・藤井みさ)

8月の全体合宿の前にコロナにかかってしまった並木は、同じくコロナで療養していた主将の山野力(現・九電工)とともに、車で志賀高原の全体2次合宿に遅れて合流した。1次合宿はけが人が出たり、調子が上がらなかったりでAチームで練習できる選手の人数がきわめて少なかった。

そんな中で奮闘していたのが副将の円健介だ。山野がいない中だからこそチームをまとめ、時には強い言葉で叱咤激励しながら選手たちを引っ張っていった。大エース・田澤廉(現・トヨタ自動車)の存在も大きかった。夏合宿こそオレゴン世界陸上出場の影響ではじめは別メニューだったものの、チームを引っ張っていこうという姿勢が常に見られた。本人は対外的には「走りで見せる」「背中で見せる」と言うことが多かったが、中から見ている並木からすると、かなり選手たちに言葉をかけることも多かったという。

「山野さん、円さん、田澤さんが中心的な存在となって、本当に『ついていこう』と思える4年生たちでした。誰かがいなかったら、他の人がやる、というのが徹底していました」

気遣いはしっかりと、線引きはしない

当時大八木監督は64歳。かねてより監督は65歳ぐらいまでだから、という話をしていた。シーズンが始まった当初に4年生たちが主体となって立てた目標は「学生駅伝三冠」。4年生の山野・円・田澤たち、その下には鈴木芽吹(現・トヨタ自動車)をはじめとした強力な代が控え、戦力的には現実的に三冠を狙える状態にあった。

「監督も本気で三冠を狙いに行くために、総合的に変えたいのかなと思いました。そのために自分が指名されたのかなと。『やらなきゃだめだな』と、自分に鞭(むち)打つような気持ちも持ちながら、主務としての役割が始まりました」

主務となって一番変わったのは、監督との距離だ。小さなことでも監督とやりとりする機会が増え、監督の思いをより身近に感じられるようになった。仕事面では取材対応などの外部とのやり取り、部内でのやり取りなど連絡することが格段に増えた。また、今までは来た仕事をこなす立場だったが、人に仕事を振る立場へと変わった。

主務になってより心がけるようになったことは、「変に気を使わないこと」。どうしても競技をしていると「走る人が上」のような感覚が出てきてしまいがちだが、お互い学生でもあるし、意識しすぎないようにしていた。「意識したのは優しさ、思いやり、気づきです。その上で、『この人はキャプテンだから』とか『主力だから』という線引きはしないように心がけていました」

2022年、9年ぶりに出雲駅伝で優勝した直後の並木。いつでも選手の一番近くでサポート(撮影・高野みや)

とはいえ2年生で主務の立場になることは、難しさもあったのではないだろうか。「正直、難しいところはあったのかなとは思います」と並木。でもその中で4年生のマネージャーを頼り、いろんな人とつないでもらった。なにより、元から仲が良かった副将の円が並木のことを気にかけてくれ、「すごくお世話になりました」という。

大手町のゴールを歩き「一生ないであろう体験」

並木が4年間で一番印象に残っている大会は、初めて主務として運営管理車に乗った箱根駅伝だ。車内では前後の学校とのタイム差の確認、順位の整理、待機している選手や付き添いとの連絡などたくさんの作業があり、常にあわただしかった。しかし2区、エースの田澤への大八木監督からの最後の声がけの時だけは、作業を止めて見入ってしまった。

「監督が『信じてるぞ!』と田澤さんに声をかけたとき、時が止まったような感じがありました。周りが暗くなって、2人だけにスポットライトが当たっているような空間だったというか……。観戦していた人にとっては一瞬かもしれませんが、自分は一緒に走ってきてその場面を特等席で見られて、この仕事をやる上でのご褒美、この仕事をやる人しか感じられないものを味わっているんだ、と思えました。あの場面を見せてもらったからこそ、より一層仕事を頑張れた感じはありますね」

田澤と運営管理車の大八木監督の「2人だけの空間」を特等席で見られた(撮影・藤井みさ)

その後も運営管理車で仕事を続けながら、走っている10人の雄姿をしっかり目に焼きつけるつもりで見ていた。そして三冠達成のゴールの直前、大八木監督と並木は大観衆の中を通って、仲間の待つゴールの奥へと向かった。

「最高の瞬間でした。たくさんの人が見ている中を選手より先に通って、空気を肌で感じられて……今思い返しても、今後一生ないであろう体験だったと思います。主務になった年に三冠できて、運が良かったとしか言いようがないなと思います」

最終学年「見返してやる!」と全力でチームをサポート

翌年は「2年連続三冠」を目指し出雲、全日本で二冠。「今だから言いますが、2年目、3年目の出雲・全日本は、エントリーが出た時に『これだったら正直、駒澤に分があるな』と感じていて、その通り勝つことができました。それだけ監督の練習を信じてみんながやってきたので、チームとしては自信がありました。個人的にも、選手たちを間近で見ているからこそ、これはいけるなと思っていました」

3年時の全日本大学駅伝。「正直、負ける気はしなかった」それだけ練習を積めていた(撮影・藤井みさ)

箱根駅伝でもトップを走っていたものの、3区で佐藤圭汰(3年、洛南)が青山学院大学の太田蒼生(4年、大牟田)に抜かれ、その後逆転することができなかった。「チーム的には驚きがあったと思います。でも、全員が最後まで諦めずに走ったからこその2位でした」

1年の時から活躍していた鈴木芽吹をはじめとした強力な選手たちが卒業し、「戦力が落ちる」と評価されていた今年度の駒澤大。学年ミーティングで、並木は選手たちにこう話した。

「学年として力がないから、みんなが一人ひとりしっかりやらないといけない、と。終わり方を見た時に、『俺たちの力がこれぐらいだからしょうがないか』じゃないくて、負けたとしてもやり切ったと思える形で終わろうよ、と声かけをしました」

迎えた最後のシーズン、関東インカレは10000mとハーフマラソンで入賞者なし、5000mでルーキーの桑田駿介(1年、倉敷)が5位入賞、1500mで工藤信太朗(2年、一関学院)が8位入賞のみと、例年に比べて劣る結果となった。「でも、箱根になったら絶対に(状態が)上がってくると思ってました。『今年の駒澤はダメだ』と書いたり言ったりしている人たちを全員見返してやる!と思って全力でサポートしていました」

キャプテン・篠原倖太朗(4年、富里)の存在も大きかった。並木は篠原のことを「すごい頑張り屋さん」と評する。「自分が出るレースに関しては、『俺が駒澤をなんとかする』という気持ちが本当に強いんです。自分の出ないレースも、休んだりする時間を犠牲にしながらも応援しにきていました。チームのためにという志が、まさにキャプテンだなと感じました」

やりきった4年間、人間力を磨き次のステージへ

とはいえ、過去2年のように出雲、全日本で絶対的な自信を感じられていたわけではない。しかし2つの駅伝で2位になり、レースを重ねるごとに選手たちが成長していくのを目の当たりにした。特に2年生の伸びがすさまじく、「これは箱根でギャフンと言わせられるぞ」と期待感が高まった。

4年時、八王子ロングディスタンスでの並木と大八木総監督(撮影・高野みや)

最後の箱根駅伝で、3回目の運営管理車に乗った並木。正直なところ意識していたチームはあったが、どうなるかわからないな、とフラットな気持ちで見ていた。「三冠した時は5区、6区の山で決着をつけてくれましたが、今回は青学さんが強かったです。ベストメンバーでこの結果なら仕方ない、と割り切れた感じがあります」。それでも意地の復路優勝。2区を走った篠原以外、9人が次のシーズンも残る。「収穫のある1年だったと思います」

改めて並木にとっての4years.を聞いてみた。

「陸上の世界という限定条件つきではありますが、本当にいろんな経験をさせてもらいました。その経験の中では総監督と藤田敦史監督、携わったスタッフたちに『人間力』を学ばせてもらって、社会に出ても恥ずかしくない人間に育ててもらったなと思っています。本当に駒澤に入ってよかったし、いい選択をしたなと思っています。卒業してからも頑張って、見てくれている人たちにいい報告ができるようにしていきたいなと思います」

大学最後に駒澤大学のTシャツを身に着け東京マラソンに出場した並木。ここからまた新しいステージへ(撮影・高野みや)

もう運営管理車に乗れないのかと思うとさみしい、と並木。しかし3回も乗った主務はそういない。「ぜいたくな気持ちかもしれないですね」と笑う。多くの出会いと経験のあった4years.を糧に、卒業後は実業団の強豪チーム・富士通へ。次なるチャンピオンチームのサポートへ、新しい一歩を踏み出す。

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