立教大学・山本羅生 仲間の雄姿に刺激を受け、箱根駅伝で「チームのために」5区快走

駅伝のフィニッシュシーンには、チームや出走者の手応えが表れる。1月2日の箱根駅伝往路、芦ノ湖で撮影しているとき、中でも印象に残った選手がいた。立教大学の山本羅生(らいき、4年、松浦)。今年度の駅伝シーズンでは10月の箱根予選会にも、11月の全日本大学駅伝にもエントリーされていなかった。最後の箱根路をどんな思いで駆け抜けたのか、本人に聞いた。
昨年9月に感じた体への"異変"
年始の第101回箱根駅伝は、2大会連続で山登りの5区を担った。山本は12位で襷(たすき)を受けて小田原中継所をスタート。前を行く順天堂大学や日本体育大学などをかわし、区間5位の好走を披露した。順位をシード圏内の8位に押し上げ、かけていたサングラスを外して充実の表情でフィニッシュ。笑顔で迎えた選手たちと抱き合った。
「昨年10月ぐらいの時点では、『箱根を走る』というよりも『もう1回レースに出られればいいかな』ぐらいの気持ちでした。でも箱根の舞台に戻ってこられたので、同期のためにシード権を取りたいという思いと、使ってくれた髙林(祐介)さんに恩返ししたいという思いがあって。自分の結果より、チームのために走っていました。自分でも正直びっくりでした」

山本に異変が起きたのは、夏合宿が終わる頃の9月だった。「体調が悪すぎて、朝も起きられないし、ご飯も食べられなかったです」。春先に仙骨を骨折するケガがあり、本来なら夏までにきっちり治した上で、夏合宿や全日本大学駅伝に向けて復帰する計画だった。しかし、それがうまくいかず「夏合宿では一番下のチームで、やっと練習をこなせるときもありました。かといって、練習量が人より多いかというと、そうでもなくて『全然ダメだ』となったときに体調不良になってしまいました」
箱根予選会のメンバーを決めるポイント練習では、3000mで9分10秒ぐらいかかってしまったと振り返る。その日の練習は10000mの変化走で、3000m、5000m、2000mの3段階で区切られていた。3000mの後、5000mを回避して最後の2000mに合流すると、最後の1周は2分以上かかった。「ずっと頭が痛くて、体に力が入らなかったです」。その後は陸上を見るのも嫌になり、練習では「寮にいてもみんなに迷惑をかけるだけ」と言って、練習開始時刻になると1人で4時間ほど歩きに出かけていた。

最後の箱根駅伝は、前年の経験が生きた
何がきっかけで、箱根本戦に戻ってこられたのだろうか。山本は「箱根予選会と全日本大学駅伝」だったと教えてくれた。箱根予選会は同行させてもらい、チームは見事にトップ通過を果たした。「みんなが走っている姿を見て、同期のたくましさを感じられましたし、下の学年の子たちも『強くなったな』と。本来は自分がいるべきなんだろうなと思いながら、『ちょっと頑張りたい』という気持ちが出てきました」
決定的になったのが、初出場でシード権を獲得した伊勢路だった。「特に個人的には7区の馬場賢人(3年、大牟田)とアンカーの安藤圭佑(4年、豊川)のところです。6区の山口史朗(4年、四日市工業)もですけど、彼らの姿を見て『もう1回本気で頑張りたい』と思いました。『これで戻れたら、本当に箱根でシードを取れるかもしれない』と自分に期待し始めて、残り2カ月『どうせ悔やむなら、やり切って後悔したい』と少しずつ走り始めました」

同期たちは、山本が練習から離れている間も「待ってるよ」「いないとシード取れないから頼むよ」といった温かい言葉をかけてくれていた。チームの〝団結〟を重んじる髙林監督からは常に心配されていた。「これだけ期待してくれている中で、自分だけ諦めるのは違う」。山本の心に火がついた。
とはいえ、すぐに箱根5区の出走が確約されるほど甘い世界ではない。復帰した時点で髙林監督には「今年は山しかない」と言われ、12月10日のチームエントリー発表の直前に行われるタイムトライアル(TT)に照準を合わせた。11月24日の小江戸川越ハーフマラソンと同月末の日体大記録会5000mでペース走や肺を追い込む感覚をつかみ、いざTTへ。他の山候補選手とのタイム差が1、2秒しかなく、髙林監督から「この復帰具合で、このタイムなら」と太鼓判を押され、5区起用が内定した。
前年に5区を経験していることも大きかった。実は今回の箱根路では、10km付近で時計の充電が切れてしまった。「1kmを何秒で走っているのか、分からないままでした。感覚で走るというのは、あまり良くないと思うんですけど、その時は3年目の箱根の感覚が残っていたのかなと思っています」

”起承転結”のような4年間
山本の大学生活を振り返ると、1年ごとに印象的な出来事や学びがあり、トータルで見ると〝起承転結〟のような4年間だった。「箱根駅伝にまだ出られていないけど、ここから歴史を作ることに価値がある」と飛び込んだ1年目。当時の上野裕一郎監督がスピードを重視したスタイルにも、山本はマッチした。多くの種目で自己ベストを更新し、1年目から箱根予選会に出走。翌年はチームとして55年ぶりとなる箱根本戦出場をつかんだ。「このチームに来て良かった」と思った瞬間だった。
3年目は大変な時期を過ごした。箱根予選会を前に上野監督がチームを去り、合宿に参加するメンバーや箱根に出走するメンバーを当時の4年生たちや他の同期、主力の後輩たちと一緒に決めなければならなかった。「僕としては『4年生に走ってほしい』と思っていたんですけど、情なしで決めなければいけなかったので、本当に苦しかったです」。この年は全日本大学駅伝の関東地区選考会で、ふがいない走りをしてしまったという自責の念もあった。そして大学ラストイヤーは前述の通り、紆余曲折(うよきょくせつ)の末に復帰を果たした。

最後の箱根で自身は好走したものの、チームは復路で苦しみ総合13位。箱根シード権の目標は後輩たちに受け継がれることとなった。「シードを取れなかったことは、唯一の心残りです。往路も8番でしたけど、一人ひとりがもうちょっとずつ速かったら変わったのかなとも思います。引退した後、同期で旅行に行ったときも、みんな『シード権を残せなかったのが悔しい』と言ってました。後輩たちには僕たちがした悔しい経験を全部ぶつけて欲しいです」
山本は大学限りで、競技者としては一区切りをつける。ただ「陸上を見ることも好き」と語る通り、卒業後も後輩たちが躍動する姿を近くで見届けていく。

