レスリング

特集:駆け抜けた4years.2025

中央大・石原三四郎 ”無名”だった高校時代から、”人生初”の全国優勝をつかむまで

大学最後の大会・天皇杯で力を出し切った石原三四郎(すべて撮影・中大スポーツ新聞部)

中央大学レスリング部の主将を1年間任され、チームの柱となった石原三四郎(4年、埼玉栄)は、高校時代まで無名だった。大学で誰よりもひたむきに努力を重ね、4年時に出場した文部科学大臣杯全日本大学レスリンググレコローマン選手権の72kg級で、人生初となる全国優勝を果たした。競技と向き合い続けた石原の12年間をたどる。

父親と散歩中にレスリングが目に飛び込み”即決”

レスリングとの出会いは突然訪れた。小学5年生の頃、父親と一緒に近所を散歩していると、武道館でレスリングが行われている様子が目に飛び込んできた。その日のうちに私服で体験し、即決。埼玉栄高校に入学し、高校3年時にはキャプテンも務めた。「高校のキャプテンをやっていた時が一番大変だったし、人生で一番長く感じた」。キャプテンとしての知識や経験不足に苦しみ、新型コロナウイルス感染拡大の影響も重なって、満足に練習できない日々を強いられた。

中大に進学すると、多くの出会いがあった。高校時代のライバルがチームメートになり、同じマットで苦楽を共にするように。石原は「自分に無いものをたくさん持っていて、刺激をもらった」と語る。さらに山本美仁監督の人脈で、韓国体育大学校の練習にもたびたび参加した。時には単身で韓国を訪れ、日本だけでは知り得なかった韓国人の強さの秘訣(ひけつ)やコミュニケーションの取り方を学んだ。これらの経験は石原の世界を広げ、高みにのぼる布石にもなった。

山本監督(左)の人脈も石原を成長させる要素の一つとなった

最終学年になると、高校時代と同じく主将を任された。チームには様々な高校から強い選手が集まり、それぞれに練習方法や考え方を持っている。チームをまとめるのは容易ではなかった。さらに法学部が多摩キャンパスから新設の茗荷谷キャンパスへ移ったことに伴い、全体練習の機会も減ってしまった。石原は山本監督と話し合い、一つの方針を導き出した。高校時代はチームをまとめることに気負いすぎて苦しんだからこそ、大学では自身の練習に集中して励むことで、自然とチームがまとまるような組織作りに尽力した。

埼玉栄の後輩と争った頂上決戦

2024年5月、石原は主将として初めて挑んだ明治杯全日本レスリング選手権大会で、男子グレコローマンスタイル72kg級に出場した。準決勝では「ずっとライバルだった」という日本体育大学の小野健作(4年、高松農業)と対戦。前半はリードしたものの、試合時間残り1分で同点に追いつかれた。このままでは相手のポイント勝ちになってしまう。残り30秒を切ったところで石原は攻撃の手を強め、スタンドからデンジャーポジションに追い込み、4点を獲得して逆転勝利を収めた。

「自分が追いかける展開になったとき、応援がすごく力になった。ああいう勝ち方って今まで自分にはなかったし、会場に来て応援してくれるって普通のことじゃなくてありがたいから、その恩を少しでも返せたかな」。声援に背中を押される中で実力を出しきり、接戦をものにした。決勝はあと一歩及ばなかったものの、各大会の上位者しか参加を許されないハイレベルな大会で準優勝という好成績を収め、力がついたことを実感した。

ローリングを仕掛けて相手を攻め込む石原

明治杯から約5カ月後には、文部科学大臣杯全日本大学レスリンググレコロ-マン選手権が行われた。72kg級の石原は、初戦では判定勝ち、その後の試合ではテクニカルスペリオリティー勝ちを続け、決勝を迎えた。相手は高校時代の後輩にあたる青山学院大学の菊田創(2年、埼玉栄)。「高校の時から切磋琢磨(せっさたくま)してきて、仲が良いながらもお互いに警戒していた」。そんな相手だからこそ「心が燃える」気持ちで臨んだ。

開始直後から石原が積極的に攻め、4分でテクニカルスペリオリティー勝ち。人生初の全国優勝を決めた。石原は渾身(こんしん)の雄たけびをあげ、マット中央に座り込んで顔を覆い、人さし指を天に向けた。このときは22歳の若さで亡くなった兄・陽太郎さんのことを思っていた。余韻に浸りながらマットを降りると、思わず涙があふれ、山本監督やそばで見守っていた平田宗(3年、高松北)と抱き合った。山本監督は「高校時代は無名で、とてもこんなところまで上がれる選手ではなかったけれど、4年間本当に頑張ってここまでのぼってきた」と石原をたたえた。

全日本大学レスリンググレコロ-マン選手権72kg級で優勝し、人さし指を天に向けた

中でも強く感謝の気持ちを述べた恩師

「会場に来てくれた人や今まで育ててくれた両親、一緒に頑張った同期、出会った人が自分の試合を見てくれていた。勝つ姿を見せる、そういう恩返しをしたいと常々思っている。その中でも家族のサポートは本当に一番大きかった」。応援に駆けつけた友人や家族に何度も感謝の気持ちを述べた石原が、特に強く言葉に出した人物がいた。レスリング選手として数々の功績を残し、現在は中央大学の職員として働いている天野雅之氏だ。

「仕事終わりに3日連続で練習をお願いすることもあって、絶対に迷惑だったと思うけど、『頑張って勝ってくれればいい』と言ってくれた」と石原。仕事の合間を縫って時間を作ってくれたことに感謝し、「天野さん無しではたどり着けなかった。レスラーとしても、1人の人としても一番尊敬している」と語った。

「レスラーとしても、1人の人としても一番尊敬している」と語る天野雅之氏(左)と

ずっといい結果を残してきたわけではない。しかし腐ることなく、自身のレスリングと向き合い続けてきた。打ち込んできた12年間は「努力は報われる」という格言を体現したものだった。

4月からは恩師の天野氏と同じく、中央大学の職員として働き始める。「レスリングをやって、技術面だけじゃなくて、礼儀や仲間、思いやりの大切さ。そういうものをすごく学ばせてもらったし、レスリングを通して出会えた人たちが自分の財産になっている」。競技人生にピリオドを打った石原は、今まで支えてくれた人たちやレスリングへの知恩報恩を掲げ、新たな道を歩んでいく。

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