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特集:駆け抜けた4years.2025

近畿大学・北村宏樹 センターコートで躍動した”170cmのアウトサイドヒッター”

身長170cmながらアウトサイドヒッターを担った近畿大の北村宏樹(撮影・井上翔太)

試合前日に寝られないなんて、久しぶりだ。

昨年12月の全日本インカレ準決勝前夜、夢のセンターコートを前に、近畿大学の北村宏樹(4年、佐渡)は朝が来るのが待ち遠しかった。

「布団に入った時間は早かったんです。でも、明日からはセンターコートだ。甲斐(優斗、専修大学3年、日南振徳)と対戦できる、と思ったらワクワクしちゃって。寝ては起きて、寝ては起きてを繰り返して『まだこの時間か。早く朝になってほしい』と思っていました」

一生忘れることがないであろう1本

そして、迎えた準決勝。専大は試合を重ねるごとに調子を上げる甲斐にボールを集め、1セット目の序盤からリードした。近大は劣勢が続く中、19-24と5点を追う終盤、おそらく北村にとって一生忘れることがないであろう1本が飛び出した。

甲斐をブロックした。

身長2mの甲斐と、170cmの北村。同じアウトサイドヒッターだが、身長差は実に30cm。懸命に伸ばした手に当たったボールがそのまま相手コートに落ちると、両手でほおを押さえた北村は、信じられない、とばかりにぴょんぴょんと何度も跳び上がりながら喜びを爆発させた。

「止めようと思っていましたけど、はるか上ですから(笑)。でも、いつもやってきたように、腕を前に出すことを意識して跳んだら止まった。まさかブロックできるとは思っていなかったので、止めることが自分の仕事ではないとはいえ、素直にうれしかったです」

30cm差がある甲斐をブロックしたときは「素直にうれしかった」と振り返る(撮影・井上翔太)

だが、その後も甲斐を中心に高い攻撃力を見せた専大がセットカウント3-1で勝利。日本一という大きな夢は絶たれたが、北村は笑顔だった。

「世界と戦っている選手と戦えた。それだけでも今までの自分のバレー人生ではなかったことだし、世界の高さも経験できた。勝ちたかったですけど、でも本当に貴重な経験で、対戦していてずっと、本当に楽しかったです」

近大バレー部としては全日本インカレで25年ぶりのベスト4。一つひとつを振り返ると、北海道大学との初戦はストレート勝ちを収めたが、2回戦の亜細亜大学、3回戦の福岡大学にはフルセットの末に勝利。どちらも先に2セット目を奪われ、崖っぷちに追い込まれてからの逆転勝ちだった。ただ、今季のチーム発足時から見ると、ここまで来ることなど想像もできない期間のほうが長かった、と北村は明かす。

「4年生はリーダーシップがないし、当たり前ですけど下級生もついてこない。(監督の)光山(秀行)さんからは『史上最悪最低のチームだ』と言われてきました」

大学ではリベロにコンバートされる予定だった

新潟県佐渡市出身の北村が、初めて全国にその名をとどろかせたのは高校2年時の春高だ。身長169cmと大会に出場するチームのエースと呼ばれる選手の中ではひときわ小さかったが、抜群の跳躍力を武器に攻撃の大半を担った。惜しくも初戦敗退を喫し、その悔しさを晴らすため、再び全国と日本一を目指す場所として選んだのが近大だった。しかし、3年時まではレギュラーとして試合に出場することもできなかった。

そもそも入学当初は、現在のアウトサイドヒッターではなく、リベロにコンバートされる予定だった。

高校を卒業してすぐ、福岡大で行われていた近大の合宿に合流した。その場で光山監督は、北村がブロックの練習に参加しているのを見て驚いた。

「(当時の)高橋(幸造)コーチに『リベロやろ。何でブロック跳んでんねん』と聞いたら『やりたいと言うので』って(笑)。いやいや、やりたいからって試合でブロックできひんのに、練習いるか、とその時は思っていました」

北村の武器は抜群の跳躍力だ(撮影・松崎敏朗)

北村自身も、大学ではリベロに専念するものだと思っていた。だが、アウトサイドヒッターへの道をつないだのは、この時、ブロック練習に入るのを許可した高橋コーチだった、と光山監督が明かす。

「練習試合をする中で、高橋コーチが『北村を一度入れませんか?』と。1セットぐらいリベロで代えてもええよ、と言ったら『いや、あの子はサイドで行けます』って言うんです。ほんまか、と思いましたけど、そこからですよ。近大は大きい子を育てる。小さい子にとっては厳しいですよ。でも、そこで北村はつかみ取った。それだけのことをやった、ということです」

「全部フェイントだけ」の練習試合も

試合に出られなくとも、いつか来るチャンスのためにレシーブだけは徹底して磨いてきた。その結果、4年になると主将でリベロの荒木琢真(4年、東山)とともに守備の柱となった。一方、攻撃力では高さに劣る。高校時代と同様、ブロックが完成する前に空いたコースを狙って、きれいに決めようとするたび、光山監督から叱責(しっせき)された。

「『お前は石川祐希じゃないやろ』と。それこそ何回も言われました。それでも、自分のやってきたバレーボールがあって、何とか打って決めたい。だけど『決めなくていいから、相手の嫌がることをしろ。引き出しを増やせ』と。自分にとっては全部が新しい挑戦でした」

レシーブを徹底し、4年目には守備の柱に成長した(撮影・井上翔太)

強打ばかりではなく、相手コートをよく見て、相手が嫌な場所を狙う。頭ではわかっていてもなかなかうまくいかず、試合では「スパイクが1本も決まらない」と悩んだ時期もあった。せっかくレギュラーをつかんだ最後の1年も、秋季リーグの前まではスタメンを外れた時期もあった。

小さいとダメなのか……。落ち込む北村の背を押したのは、誰よりも厳しく接してきた光山監督だったと明かす。

「練習試合の時に自分は強打を1本も打たず、『全部フェイントだけ』と決めて出たこともあったんです。打てる状況でもずーっと、フェイントだけ。ストレスもたまりますよ。でも、やっていくうちに少しずつ、『この状況でここに落とすと相手が嫌がる』というのが見えるようになってくるし、こっちを警戒してきたらブロックアウトを取ろうとか、惑わすこともできる。うまくいかなくて、映像を見ていた時に『この経験を次に生かせよ』と光山さんが言ってくれたおかげで、腐らずにいられたし、厳しい言葉の中にもいつも愛がある。だから、乗り越えられたんだと思います」

センターコートでの一戦を終え、エースのもとへ駆け寄った

長年の壁を越えるべく、全日本インカレを前に掲げたチームの目標は「センターコート」。どれほど力のある代でも、かなえられない姿を見てきたからこそ、生半可な覚悟では越えられないことも理解していた。

だから、というわけではないが、全日本インカレへ向かう直前、4年生たちが決意の証しを意外な形で示した。関東に向かう前、愛知学院大学での合宿最終日、光山監督とのミーティングを終えた主将の荒木が宿舎の部屋に戻ると、北村と藤川佳大(4年、天理)を含む数人が集まっていた。中央には、バリカンが置かれていた。

「どうする?」

互いの顔を見渡す。荒木が「俺は(頭を)丸めてもいいよ」と切り出し、丸刈りにすることが決まったが、「最初は嫌だった」と北村は笑う。

「全カレが終わればいろいろなところへ遊びに行きたいし、おしゃれな七三分けにしていたんです(笑)。でも、みんなを見ていたら、この仲間とチームを勝たせたい、たとえ坊主になって、体がボロボロになるまで試合をしたとしても、このチームで勝ちたい、と思わせてくれたメンバーに出会えたので。最後は迷わず(髪を)刈りました」

「体がボロボロになるまで試合をしても、このチームで勝ちたい」(撮影・井上翔太)

大会最終日、早稲田大学との3位決定戦。メダルをかけた学生最後の試合は、これまで先輩たちが何度もセンターコート進出を阻まれた相手だ。勝っても負けても、これが最後。連戦の疲れも忘れ、すべてを出し尽くした。最後はエースの藤川が早稲田のブロックに阻まれ、セットカウント1-3で敗れた。

試合を終えると、北村は真っ先に藤川のもとへ駆け寄った。

「藤川はチームのエース。僕も4年生のみんなも『藤川で負けたら後悔はない』と思っていたので、最後、止められてしまいましたけど、今までずっとチームの思いを背負って打ち続けてきてくれてありがとう、って。その思いを伝えたくて駆け寄りました」

「チームの指揮者になれ」の真意

最低最悪から始まり、夢のセンターコートへ。そしてともに戦った仲間と涙を流してねぎらう。その姿を光山監督が「記憶にも記録にも残る4年生になった」とたたえていたと伝えると、北村は笑みを浮かべた。

「光山さんから『チームの指揮者になれ』と言われて、最初は意味がわからなかったんです。でも指揮者はチームの核で、乱れたらチーム全体が乱れてしまう。自分では意識してきたつもりでしたけど、まだまだ、やれることもあったなぁ、と思うし、満足したら終わり。大学4年間、本当にたくさんの人に支えられてここまで来られたので、いろんな人たちにありがとうと伝えたいし、これからも歩みを止めずに。今後のバレー人生に生かしていきたいです」

記憶にも記録にも残ったチームで努力を重ね、自らのポジションをつかみとった〝小さな巨人〟。その雄姿は多くの人たちの心に、鮮やかに、色濃く残り続けるはずだ。

「チームの指揮者になれ」という光山監督の言葉を常に意識してきた(撮影・井上翔太)

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