慶大・藤岡凜大主将 140人の人生を背負い目指した日本一「140年分を生きた」

藤岡凜大――。大学ラクロス界で彼を知らない人はいないだろう。U21日本代表に選出された経歴を持ち、卓越した技術と得点力でチームを牽引(けんいん)する慶應義塾大学の絶対的エース。主将を務めた2024年は、チームを学生日本一に導いた。順風満帆なキャリアを歩んできたように見える藤岡だが、輝かしい肩書きの裏には"野球を続けなかった"コンプレックスと、数多の悔し涙があった。それでも、彼を鼓舞し続けた原動力とは。絶対的エース、主将として140人のチームを率いた藤岡の軌跡を辿(たど)る。
「新しい自分に日々出会える」 ラクロスに熱中
野球少年だった藤岡(4年、慶應)がラクロスを始めたのは、高校1年生の時。強豪校の野球部で埋もれてしまうよりも新しいスポーツに挑戦したい、留学に行く時間が欲しいという理由でラクロス部を選んだ。"野球を続けなかった"コンプレックスを抱えながらも、気づけば留学に行くのを忘れてラクロス漬けの日々を送っていた。
授業中は筆箱でスマートフォンを隠しながら動画を見直し、放課後は日が暮れるまで壁当てをする。新しい技術を吸収し、練習する度にうまくなる感覚。そこには、留学で感じたような「新たな自分に日々出会えるワクワク」があった。
そんな藤岡にラクロスの魅力を尋ねると、「他のスポーツで上を目指すことを諦めても、そこで終わらずに日本トップレベルを目指せるところ。ある程度、競技人口もいて盛り上がっているし、世界の中でも日本は割と良い位置にいる。社会的に良い位置にいるなと思う。競技の本質的なところで言うと、フィジカル的な側面とスキル的な側面のバランスが魅力的」だとだと語ってくれた。

悔しさをバネに、もがき続けた3年間
高校で主将を務めていた藤岡は、コロナ禍で目標を失い、不完全燃焼で高校ラクロスを終えた。
行き場を失ったラクロスへの情熱を胸に、同期とともに競技を続ける道を選んだ。厳しいトライアウトで同期の大半が脱落する中、藤岡は選考を通過。ATとして入学前から大学の練習に参加し、同期一番乗りでAチームに昇格した。しかし、当時の藤岡にとって慶應義塾大学のAチームは雲の上の存在。萎縮して思うようにプレーできず、周囲とうまくコミュニケーションも取れないまま、AチームとBチームの間をさまよっていた。
雨で水たまりができたグラウンドの整備に汗を流すベンチ外の藤岡と、後から来てウォーミングアップをするAチームの同期。高校時代は主将として活躍していた藤岡にとって、悔しくてたまらない経験だった。それでも秋にAチーム復帰を果たすと、全日本大学選手権大会初戦の名古屋大学戦でいきなり3得点の活躍。ほとんど話したこともなかった当時の主将・八星輝(2022年卒)に「(勝てたのは)お前のおかげだよ」と言ってもらえたことを、印象深く記憶している。
2年時には、U21日本代表として遠征に参加。目標の4強入りをかけた準々決勝で逆転負けするところを、藤岡はベンチで見守っていた。
悔しさを胸に臨んだ、5位決定戦。第4Qラスト5分から出場すると、サドンヴィクトリー方式の延長戦で見事な決勝ゴール。それは"野球を続けなかった"コンプレックスが拭えた瞬間だった。しかし当時の慶應義塾大学には、中名生幸四郎(2025年卒、現・STEALERS)、小川司(2023年卒、現・STEALERS)、齋藤侑輝(2023年卒)というAT3強がいたため、リーグ戦にはほとんど出場できず。出場時15秒でベンチに下げられた早稲田大学戦ではふて腐れ、一人ベンチの後ろに座っていた。
試合後、藤岡に「3番」を託した中名生三四郎コーチ(2022年卒)から「慶應の3番ってすごい期待されているし、お前がここでくじけているのを見てどれだけの人が悲しむと思ってるんだ」と叱られ、人目をはばからず号泣した。その後も、AT3強を超えられないままシーズンが終了。「(ATの)先輩たちを認めさせる、先輩たちを超えて自分が試合に出るんだ、というのが大きな原動力だったから、そのチャンスがもうないことが悔しくて。最後の試合が終わった時は、めちゃくちゃ泣いてた」と当時の心境を語ってくれた。

3年時には、立場が一変。OFで試合経験を持つ選手は藤岡を含む数人だけだった。先輩もいる中で幹部としてどう振る舞うべきか分からない上、前年までと同じように練習しても上達する気配がない。関東学生ラクロスリーグ開幕戦では、日本体育大学に60分間シャットされて試合終了。チームは、関東FINAL4で敗退した。
藤岡への注目度の高さゆえに、試合を見た他大の選手から「あいつはもうダメだな」と言われ悔しい思いもした。「特に開幕戦とFINAL4は、チームのリーダーとしても、選手としても、自分のやってきたことが全部否定された感覚みたいなのがあって、何にもうまくいかない1年だった」と振り返る。
主将の原動力は「ラクロスで良かったと思ってほしい」
「ラクロスを始めて良かった、ラクロスで良かったとみんなに思ってほしい」
それが、藤岡が主将になった理由であり、原動力だった。
「入部の段階でも、この組織に属してからもいろいろな理不尽があって、不完全さも体感してきた。それでも、人生をかける価値があって、OBになった時に戻って来たいと思えるチームに自分はいたいし、自分が憧れて入った慶應ラクロスはそうであってほしかった」
藤岡も他のスポーツを諦めてラクロスを始めたからこそ、"社会人を倒して日本一を目指せること"に4年間をかける価値を見いだした。しかし、部員の大半がAチーム未経験。そんな彼らが「日本一」を自分ごととして考えられるはずがなかった。藤岡は「主将って、Aチームのリーダーでも、4年生のリーダーでもなくて、140人全員のリーダーだから。Aチームがいかに勝つかだけじゃなくて全員に目を行き届かせて、チームの持続的な強さにコミットしなければいけない」と、オフ返上で他チームの練習にも参加。1年生チームのウィンターステージ準優勝にも貢献した。
さらに、慶應義塾大学ラクロス部と競技の持続的な発展を考え、日本代表経験を持つ佐野清(東北大学2021年卒、現・FALCONS)と関根幹祐(2009年卒、現・FALCONS)を有償でコーチに招へい。組織面でも強いチームを作るために、マーケティング部門の設立や創部初のクラウドファンディングも行ったほか、OBOGとの関係強化にも努めた。

学生日本一も、社会人にはあと一歩及ばず
シーズン初めは、コーチの参加で練習強度が上がったこともあり、けが人が続出。六大学対抗戦は結果が振るわなかったが、早慶ラクロス定期戦では早稲田大学に10-4で圧勝しリーグ戦へと弾みをつけた。関東学生ラクロスリーグでは、再び早稲田大学を下して自信をつけると5戦全勝。ブロック首位で迎えた関東FINAL4は、一橋大学とのロースコアゲームを3-1で制した。
終盤の大量失点で敗れた前季のトラウマ、アメリカ遠征での大敗、日米で異なるルールへの適応、時差ボケ。「完全にチームとしてのフォームを崩したまま試合に臨んだから、結構リスキーだったな(笑)。早慶戦と、リーグ戦の早稲田大学戦が自信をつけてチームが良くなったとすれば、FINAL4はヤバすぎて全員が危機感を持った瞬間だったかな。その結果、関東FINALでチームを立て直せたのが結構大きかった」と振り返る。
全日本大学選手権大会を順調に勝ち上がり、決勝ではDF陣とGが完璧な守りで明治学院大学OFを抑え込み、慶應義塾大学は学生日本一に輝いた。
「日本一」へ、チーム一丸となって迎えた全日本選手権大会。社会人クラブ日本一のGrizzlies相手に1-2で第4Qに突入するも、2-4で惜敗。あと一歩のところで、日本一には届かなかった。試合終了間際、藤岡は相手ゴール目前まで迫っていた。しかし、藤岡がシュートを放つよりもわずかに早く、無情な笛の音が鳴り響く。直後に放たれたボールは、ゴールの中に虚(むな)しく転がっていた。藤岡は悔し涙を流し、フィールドにひざをついたまま立ち上がることができなかった。
「今思えば、気付かぬうちに俺の目的が社会人を倒すことじゃなくて、社会人を倒せるチームになることに変わっていたのをすごい後悔してる。最後に勝ちきれなかったのは、そこに満足していたからだと思う」と悔しそうな表情をみせた。そして、「学生が強くなっている分、数年後の社会人はもっと強くなる。だからこそ、学生はそれ以上のスピードで強くなり続けるしかない。後輩たちがまたチャレンジしていつか勝ってくれたらいいな」と、日本一への思いを後輩たちに託した。

「ラクロス部」という選択を正解にするために
藤岡は、22年間の人生の中でラクロスを始めたことが1番のターニングポイントだったと語る。
「ラクロスを始めなければ、負けて自分の全部が否定されるような経験も、勝って自分のやってきたことを肯定される経験も、良くも悪くもこんなに心が揺さぶられることはなかったと思う。140人の人生に責任を背負うことも含めて、普通の人じゃできない経験をたくさんさせてもらった」と続けた。
特に主将としての1年間は「140人分の1年間、140年分を生きたような感覚。1年3カ月くらい主将をやっていたから、すごい疲れた(笑)」と、重責から解放された藤岡の表情は柔らかかった。
「ラクロス部」という選択を正解にするために、悔し涙と汗を流した4年間。慶應ラクロスの誇りを胸に挑戦を続け、新たな道を切り開いてきた藤岡は、間違いなく"日本一の主将"だった。
これからはラクロス選手としての可能性に挑みながら、新たなフィールドで自分の人生を切り開いていく。
