早大DB小野寺、真っ暗闇からの復活
アメフトの関東王者を決める一戦。トップを走ってきた早稲田に対し、逆転優勝の可能性を残した法政。早稲田が勝って全勝優勝か、法政は6点差以上で勝てばひっくり返せる。
復帰戦で2インターセプト
法政はベストアスリートのWR高津佐隼矢(4年、法政二)をあらゆる形で起用し、なりふり構わず勝ちに来た。早稲田ディフェンスは416ydも進まれたが、実に5度もボールを奪った。進まれても進まれても粘り、一瞬見えた法政の隙を突いた。オフェンスもその粘りに応え、早稲田が2年ぶり5度目の関東制覇。12月2日に甲子園ボウルの東日本代表決定戦で東北大(北日本代表)と対戦する。
帰ってきた副将が輝いた。早稲田のDB(ディフェンスバック)小野寺郁朗(4年、早大学院)。アメフト未経験ながら2年生からスターターを張ってきた男だが、今シーズンはこの試合が初の出番だ。
法政の最初のオフェンスシリーズで、早稲田はジリジリと進まれた。だが14プレー目、法政がタッチダウン(TD)を狙ったパスを、小野寺が相手のWRと競り合いながら奪い取った。最初のピンチを脱するビッグプレーに、感情を爆発させた。「法政のレシーバーは背が高いので、浮いたボールで勝負にくるのは分かってました。久々の試合でしたけど、練習通りにできて、勘みたいなものが戻ってきた気がしました」
24-20の第4クオーター終盤にも、最後の反撃に出た法政のパスを読みきって奪った。復帰戦で2インターセプトの活躍にも、小野寺は冷静に言った。「まだまだです。こんなんじゃチームに恩返しできてないです。次の試合と甲子園ボウルで、もっともっと活躍しないと」
支えになった主将の言葉
小野寺に異変が起きたのは夏合宿の真っ最中だった。数日前から、無理をしていた。食事がのどを通らず、隠れて吐いた。でも自分は副キャプテンだ。DBの主任でもある。大事な夏合宿を抜けられない。自分が闘志を見せなくてどうするんだ。練習に参加し続けた。
もともと「自分がやる」という気持ちが誰よりも強い男。誰よりもフットボールに打ち込むことでチームを引っ張ってきた。それがオーバートレーニングにつながった。そして、合宿の練習中に倒れた。本当にバタンと倒れた。内科系の疾患。4日間入院し、2週間待って練習に戻った。すぐにまた倒れた。医者には「もうシーズン中の復帰はできないかもしれない」と言われた。目の前が真っ暗になった。
埼玉の実家に戻り、療養から始めた。9月、小野寺にとって最後のシーズンが始まった。もちろんプレーはできないが、試合会場には行った。初戦の日体大戦。終盤に追い上げられると、小野寺は居ても立ってもいられず、チームドクターに「自分を出してくれ」と食ってかかった。「みんなが苦しんでるのに、俺には何もできない。代わりに出るDBをどうやってうまくさせたらいいのか」。焦った。悩んだ。そんなとき、主将のDL斉川尚之(獨協)に言われた。「チームのことは俺たちに任せろ。お前は自分が復帰することだけ考えてればいいから」。はやる気持ちが少し和らいだ。焦ることなく、一歩ずつ前進した。いつしか血圧も心拍数も安定してきた。グラウンドに出られるようになった。パスカバーの動きの確認から始めた。トレーニングのウェイトを少しずつ上げた。
11月11日にチームは開幕5連勝を決めた。リーグ戦は残り1試合。「法政戦は甲子園ボウルと思って勝ちにいく」との方針が決まった。自身も関西学院大でDBだった植田勘介コーチが言った。「俺は小野寺にフィールドに立ってほしい」と。ディフェンスの主要メンバーも、そう言ってくれた。小野寺にゴーサインが出た。意気に感じ、たまりにたまったものをぶつけ、法政から二つのインターセプト。試合後は満面の笑みで「紺碧の空」を歌い上げた。
「壁が高いほど燃えるんです」
アメフトの強い早大学院高では野球部だった。早大野球部での活躍だけを思い描いていた。外野手だったが、右ひじを痛め、野球は続けられなくなった。新しいスポーツに挑戦することを考えたとき、アメフトが浮かんだ。「壁が高いほど燃えるんです」と小野寺。教えてもらったことはすぐにできるようになる器用さと、誰より強い責任感でアメフト経験者を差し置いて頭角を現し、2年生からDBで先発出場を果たした。
小野寺は当時の4年生でLBの加藤樹を尊敬していた。侍のような先輩だった。「加藤さんを日本一の男にする」と、関学との甲子園ボウルに臨んだ。関学オフェンスの第1プレーで小野寺のサイドが狙われた。まんまと決められた。あとは、何もさせてもらえなかった。完敗だった。「関学はスキがなかった。悔しい思いをしました」と小野寺。甲子園で借りを返し、日本一になる。その思いだけで走ってきた。
倒れて何もできないとき、「自分がやってきたことは間違いだったのか」という思いが頭を巡った。何も考えられなくなった。それでもあきらめることだけはしなかった。仲間が、コーチが助けてくれた。そして早稲田の背番号21は、真っ暗闇から晴れ舞台に帰ってきた。