日大アメフト部を去った副将・小田原利之、フェニックス魂で再出発の春
社会人アメフトの春の関東王者を決めるパールボウルトーナメント準決勝が6月2日にあり、オービックとIBMが勝って17日の決勝進出を決めた。
社会人ルーキーとして躍動
オービックと富士通の試合前、オービックのディフェンスの先発メンバーに、気になっていた名前を見つけた。小田原利之。この春、日大を卒業したルーキーだ。昨年のいまごろは、日大フェニックスの副将だった。例の一件で、最後の秋のシーズンがなくなった。
小田原は準決勝の前の試合から、ディフェンス第2列のLB(ラインバッカー)として先発出場するようになった。準決勝では、日大3年生だった2017-18年シーズンのライスボウルで敗れた相手である富士通相手に奮闘した。身長172cm、体重79kgの体で飛び抜けたスピードがあるわけでもないが、11年目を迎えたフットボールの経験値に裏打ちされたプレーの読みで勝負する。ルーキーらしく先輩からのアドバイスも受けながら、必死で富士通オフェンスに食らいついた。ヘルメット越しの顔が、いきいきとしていた。
世田谷ブルーサンダースでアメフトを始めた。小学校のときからアメフトがしたくて、習い事の先生にそんな話をしていたら、チームを見つけてきてくれた。そして日大三高から日大へと進んだ。2016年にはU-19日本代表で国際大会を経験。3年生のときにはDB(ディフェンスバック)のスターターとして、27年ぶりの甲子園ボウル制覇に貢献した。
副将になり、ラストイヤーを迎えた。2年連続の学生日本一へ、努力を積み重ねていた。それが昨年5月6日の関西学院大学との定期戦を境に、一気に状況が変わった。秋のリーグ戦に出られなくなり、小田原は夏に部を去った。ほとんどの4年生が、彼と同じ道を選んだ。
昨年11月、私は電車で小田原に出くわした。金髪になっていたので驚いた。「オービックの練習に行こうと思ってます」。彼は言った。だから気になっていた。その後が。
なくなった最後の秋シーズン、練習台としてやりきった
準決勝のあと、オービックの古庄直樹ヘッドコーチに小田原のことを聞いた。「2年前のライスボウルでプレーを見て、彼には興味を持ってました。そしたら彼もウチでやってみたい、と。去年の秋のシーズン中から練習に来てました。試合には出られないから、ダミーチーム(仮想敵としての練習台)にしか入れない。でも、いいプレーをしたら、めちゃめちゃ喜んでました。4年生のシーズン、ほんまはこうやって日大の選手として喜びたかったんやろな、と思いました。選手たちには、すごい刺激になったと思います。試合に出られない小田原が、あんなに必死でやってくれたから」
オービックの練習グラウンドで、小田原の4years.は続いていた。
そして、この春から正式にオービックシーガルズの一員となった。人材業界の企業で働きながら、週末はクラブチームであるシーガルズの練習に参加し、来年1月3日のライスボウルを目指している。小田原はシーガルズを選んだ理由について、「いちばん勢いがあるし、社会人になってもキツい練習をして、勝つためにしっかりアメフトと向き合ってやるチームだからです」と言った。
日大の監督とコーチには感謝しかない
そして昨年5月6日、関学との定期戦からの1年について尋ねた。
「自分でコントロールできることと、できないことがあると思うんです。あの反則に至るまでに宮川をフォローできてれば、とは思います。でも、そのあと騒ぎが大きくなってからのことは、僕にはコントロールできない。悔しいですけど、現実を受け入れて、次にできることを考えるしかなかったです」
退部の決断については「スパッと決めました」と言った。「前の監督とコーチがいなくなるって決まった時点で、僕はチームを去ろうと思いました。あの人たちが僕をつくってくれたから。育ててもらいました。端から見たら、手荒い指導だったかもしれないけど、自分の甘さを教えてくれました。体当たりで教えてくれました。新チームになって、5月まではほんとに学んだことが多かったんです」。選手側が反発することもあったが、コーチたちは逃げずに向き合ってくれた。いまも感謝の気持ちは変わらないという。
6月17日のパールボウルは東京ドームが舞台だ。小田原にとっては昨年1月3日のライスボウル以来の東京ドーム。「あのときも緊張しなかったし、これも日大の教えなんですけど、目の前のことに集中するだけです。ほかの試合と一緒。いつもと変わらないです」
小田原は日大フェニックスの魂を持って、これからも戦っていく。