J2山形・阪野豊史、明大時代のジャイアントキリングがつないだ縁
サッカーの天皇杯は7月3日と10日に2回戦があり、ここからJ1、J2のチームも出てきます。天皇杯の醍醐味(だいごみ)の一つが、大学のチームがJリーグのクラブを「食う」番狂わせです。3日に6試合、10日に2試合、大学がJのクラブに挑むゲームがあります。4years.ではプロに挑む大学へのエールも込めて、さまざまな記事をお届けします。第五弾は、天皇杯史上初めて大学がJ1に勝ったゲームについて。明治大学時代に当時J1だったモンテディオ山形を破り、いまJ2の山形に在籍するという奇縁を持つ阪野豊史(さかの・とよふみ)選手(29)に取材しました。
学生らしく、気持ちを前面に出してプレー
2009年10月31日、天皇杯史上に残るアップセットが起きた。大学チームが初めてJ1クラブを撃破したのだ。日が傾きかけたNDソフトスタジアム山形に、モンテディオ山形サポーターのブーイングが虚しく響くなか、明大の選手たちはメンバー外の選手らで構成された小規模な応援団とともに歓喜に酔いしれていた。3-0のスコア通りの完勝だった。
当時1年生だった阪野さんは、試合前日から仲のいい同期の三田啓貴(現・ヴィッセル神戸)と高ぶる気持ちを抑えられずにいた。新幹線で移動し、ホテルに宿泊し、試合会場に向かうのも初めて。「なんか、プロっぽいな」とワクワクした。阪野さんは照れ笑いを浮かべて10年前のあの日を思い出す。
「点を取って、新聞に載ろうぜ! やってやろうよ、って言ってました」
ともに19歳だった。血気盛んで野心を隠すこともなかった。チャレンジャー精神を持ってJ1クラブに臨み、恐れるものは何もなかった。2回戦でJ2の湘南ベルマーレを下し、自信を深めていたのだ。浮ついた雰囲気はなく、当時の神川明彦監督のもと、「打倒J1」に集中していた。試合に絡んでいた選手たちのほとんどはプロ志望。10番だった山田大記(現・ジュビロ磐田)を筆頭に小林裕紀、丸山祐市(ともに現・名古屋グランパス)、宮阪政樹(現・松本山雅)ら、メンバーの半数以上がいまなおJリーガーとして活躍している。
「勝てば勝つだけ注目される状況で、そんな選手たちが燃えないわけがないです。僕らは学生らしく気持ちを前面に押し出してプレーしてました」
交代で出て4分後、人生を変えたゴール
前半に同期の三田が先制ゴールを挙げ、後半には阪野さんとポジションを争う山本紘之(現・日本テレビアナウンサー)が2点目をマーク。明治大は2点のリードを奪っても攻めの手を緩めない。阪野さんはベンチで、試合に出たくてうずうずしていた。後半36分、ようやく名前が呼ばれた。どん欲なストライカーは、がむしゃらにゴールへ向かった。交代からわずか4分後、ペナルティーエリア近辺でパスを受けると、左足で丁寧にゴールネットへ流し込んだ。
「あのときは目に見える結果がほしかったので、うれしくて、うれしくて。三田も点を取ってたし、俺もやってやったぜ、という感じでした」
翌日、明大の活躍ぶりは新聞にも大きく掲載され、大学生の番狂わせは話題となった。天皇杯でJ1クラブから奪ったゴールの価値は想像以上のものだったようで、親族、友人、知り合い、恩師とあらゆる人から連絡をもらい、お祝いのメッセージをもらった。1年生のころはプロサッカー選手になるという夢も漠然としており、一般企業に就職する道も考えていた。それが、天皇杯の1ゴールでがらりと変わった。あらためて思い返しても、言葉に実感がこもる。
「僕の人生を変えたゴールかな。たくさんの人に応援してもらえるって、こういうことなんだと実感したんです。あのときからプロ選手になりたいと強く思うようになりました」
阪野さんは浦和レッズのアカデミー組織で育ったが、高校卒業の段階ではプロ契約を結べずに明大へ進学。リーグ戦で1年目から点を取っても、堂々と胸を張れなかった。ユースで同期だった山田直輝(現・浦和レッズ)と高橋峻希(現・柏レイソル)や1学年下の原口元気(現・ハノーファー=ドイツ)はすでにJ1で活躍していた。「点を取っても大学レベルでしょ、って思われてる気がして」と口ごもる。だからこそ、天皇杯でJ1相手に奪ったゴールは特別だった。
「自分からユースの同期たちにも報告しましたし、堀孝史さん(浦和ユース元監督で明大OB)にも連絡しました。僕にとって、あの1点は何よりも大きかった」
つながった山形と阪野の縁
天皇杯で明大の選手たちに注目したのは、メディアだけではない。当時、現場でメモを走らせていた山形の宮武太スカウト(現アカデミーダイレクター補佐)も、この試合をきっかけに阪野さんを追うようになった。
大学3年生のときに、どこよりも早くオファーを出したのも山形。練習に参加し、キャンプにも帯同した。現場からも点取り屋としての才能を高く評価されたが、最終的には古巣の浦和レッズに復帰した。
それでも、縁は切れなかった。出場機会に恵まれずに苦しんだ浦和でのプロ公式戦初ゴール(2013年10月16日)は、忘れもしない天皇杯の山形戦。2016年、レンタル移籍した愛媛FCのときも、山形戦ではホームでもアウエーでも得点した。このシーズンの終了後、3度目のオファーを受けて、ついに山形に完全移籍することになった。
「ほんと、縁があるなと思います。10年前の天皇杯のあのゴールがなければ、いまここにいなかったかもしれませんしね。プロになった後も、ずっと気にかけてもらってました。J1昇格という結果を出して、恩返したいです」
2017年に加入して以降、まだ目標を達成できてはいないが、昨シーズンの天皇杯では山形のユニフォームを着て快進撃に貢献した。準々決勝ではJ1王者の川崎フロンターレから金星を挙げ(3-2)、ベスト4に進出。本拠地のNDソフトスタジアムは、3点目となった阪野さんのゴールに沸きに沸いた。
「昔(大学時代)と同じ感覚でした。僕らはチャレンジャーだったので。もしフロンターレとリーグ戦で戦えば、何十回戦って1回勝てるかどうか。でも、一発勝負は別物。それが天皇杯です。サポーターに勝ち進んだ姿を見せられたのはよかった。応援してくれる人がいるから、プロ選手は存在できるし、プロチームも成り立ってるんです」
天皇杯のピッチに立つたび、原点を思い出す。山形にとっては思い出したくない過去かもしれないが、チームの看板となるエースがいまここにいるのも、あのジャイアントキリングがあったからこそ。
天皇杯が始まると、毎年のように明大が山形を倒す映像をテレビで目にするという。
「自分たちが対戦する相手は別ですけど、天皇杯ではつい大学生を応援したくなります。今年は母校の明治も出てますからね。前評判をひっくり返すには、しぶとく立ち向かっていく気持ちが大事。プロは、それを一番嫌がるから。次の相手は強いけど、頑張ってもらいたいです。トーナメントの勝負だけは、何が起きるか分からないから」
アップセットの立役者を演じてきた男の言葉には重みがある。7月3日、明大の後輩たちはJ1で2連覇中の川崎フロンターレと戦う。昨年、J2の山形が倒した相手だ。