大学陸上・駅伝

特集:第51回全日本大学駅伝

鶴谷邦弘監督の最後の教え子 日本学連選抜の大経大・富田遼太郎が狙う「打倒関東」

富田は全日本大学駅伝の日本学連選抜メンバーに入った(撮影・松永早弥香)

6月30日の全日本大学駅伝関西地区選考会で、立命館大、関西学院大、京都産業大の3校が本大会への切符をつかんだ。大阪経済大は選考会で3位の京産大に3分31秒遅れて4位だった。「いい雰囲気で選考会に臨めたんですけど、まだまだ全然ダメなんだなって思い知られました」。そう話した大経大の富田遼太郎(3年、大阪)は、各校のエースが集う最終4組で10000m30分25秒40という自己ベストを出し、本大会の日本学連選抜のメンバーに選ばれた。大経大の代表として、そして関西代表として、意地の走りを伊勢路で見せたい。

亡き恩師の思い受け継ぎ、大経大で学生のために努力 竹澤健介

大阪高1年生で初めて走った5000m

関西地区選考会は各校10人が10000mを走り、上位8人の合計タイムで争われた。富田は関西のツートップである石井優樹(関西学院大4年、布施)と今井崇人(立命館大4年、宝塚北)を倒しての4組1着を目指していた。過去2年連続で選考会の全体1位だった石井は、ラストスパートに絶対的な自信を持つ。そのスピードに食らいついていかないと、勝負にならない。そう思いながら、富田はふたりの背中を追った。しかしラスト1000mでふたりがギアを上げると、対応できなかった。結局3番目にゴール。「8割はうまくいったんですけど、最後のスピードが課題です」と、悔しさをにじませた。

富田(51番)は石井(11番)と今井(1番)を意識して選考会に臨んだが、ラスト1000mで離された(撮影・安本夏望)

富田はいまでこそ長距離ランナーだが、陸上を始めた当初は短距離を走りたかった。もともと走るのが好きで、小学生のときはよく、鬼ごっこで遊んでいた。しかし年齢が上がるにつれて、仲間との遊びがドッジボールなどの球技になっていくと、「もっと走りたい」という思いが募った。中学校では迷わず陸上部へ。入学してすぐの体力テストの結果、専門は中距離に決まったが、走れる喜びをかみしめていた。中3のときには全日本中学校選手権に出場し、800mの予選を1分58秒75で通過。準決勝で敗退した。

スポーツ推薦で大阪高校に進学。いきなり「洗礼」を浴びた。入学してすぐの記録会で初めて5000mに出たが、ペース配分が分からなかった。初っぱなから突っ込んで、3000mで完全に足が止まってしまった。棄権したいと思いながら何とかゴールすると、そのまま担架で運ばれた。記録は15分54秒。3年生のときには近畿インターハイの800m決勝で1分52秒86をマークして3位になり、インターハイの本番でも準決勝進出を果たした。それらにもまして、最初の5000mが強く富田の記憶に刻まれている。

鶴谷監督に言われた「勝つとはなんぞや」

もっと強くなりたい。その思いから実業団に進むことも考えたが、大経大の鶴谷(つるたに)邦弘監督に声をかけてもらったことで、大学進学の道を選んだ。全国高校駅伝で報徳学園高校(兵庫)を大会史上初の3連覇に導いた名監督に対し、富田は当初「気のいいおじいちゃん」という印象を抱いていたが、それは入部後すぐに変わった。

「何度も言われました。『お前には勝つ気がない。勝つとはなんぞや』って。怒るというよりは『お前はどうなんや?』って聞いてくれる感じでした。ガンガンに怒られることもあったんですけど、『お前はダメ』じゃなくて『お前はどう思ってんねん?』って感じで。僕もハッとさせられて、今日のレースは本当に完全燃焼できたのか、って考えさせられました」

その鶴谷監督は富田がまだ1回生だった2018年1月に他界。そこから1年、チームは指導者不在の状態になった。まずはチームが一致団結しないといけない。それは全員が分かっていた。練習メニューは選手たち自身が専門書を参考にしながら考えていた。「これでほんとにええんか?」と、不安に感じることもあったという。そんなチームを当時3回生だった山口祐太(4年、大体大浪商)と内山優弥(4年、西脇工業)が中心となってまとめ、鶴谷監督と目指してきた全日本大学駅伝の関西地区選考会に臨んだ。選手たちは胸に喪章をつけて走り、3位で2大会ぶり22回目の本戦出場を果たした。

その全日本で富田は7区を任された。舞い上がることなく、ひとつの大会としてしっかり走り、関東の選手とも勝負することを思い描いて臨んだが、23位で襷(たすき)を受け取るとほぼ一人旅で区間17位に終わった。昨年を振り返ると自分の走りができなかったという思いがあったが、「力不足を感じられる、いいシーズンだった」と前向きにとらえている。

竹澤コーチ(右)は富田を「真面目で一生懸命。陸上が大好きってことがすごく伝わる」と評する(撮影・松永早弥香)

今シーズンになり、早大出身で2008年北京オリンピック日本代表の竹澤健介さんが長距離ブロックのヘッドコーチに就任した。青木基泰監督からは「竹澤さんはすごいキツいからな。お前ら覚悟してやらんと大変やからな」と言われていたが、まったくの手探りの中で競技に向き合ってきた選手たちにとっては、見てくれる指導者がいるという心強さの方が勝っていたという。そして、竹澤コーチは選手に自主性を求めている。富田も「次のステップとして自分から考えて動く必要があるのかな」と、強くなるための道を自分で切り開く覚悟だ。

序盤の区間で関東の選手と勝負したい

日本学連選抜のメンバーとして臨む全日本大学駅伝で、富田は1区か2区で走ることを希望している。自分で流れをつくりたいという気持ちもあるが、それ以上に、強豪ぞろいの関東でもまれてきた選手たちと、まだ差が開いていない区間で勝負したいという気持ちの方が強い。大学進学の際、関東の学校に進むという道もあったが、富田は関西に残りたかった。

「関東以外の大学は“地方の大学”って言われるじゃないですか。確かに関東とそれ以外の地域では力の差があります。でもその“地方の選手”が関東の選手に勝つのって、おもろいなって思うんですよね。きっと見て応援してくださる方々もおもしろいって思ってくれるはず。僕はそれをやりたいんです」

富田は将来のマラソン挑戦を見すえている(撮影・松永早弥香)

大学での目標は10000mで28分台、5000mで13分台を出すこと。「根拠はないんですけど、今シーズン中にはいけるんじゃないかな」という感覚がある。その後は実業団でマラソンを目指す。それは亡き恩師・鶴谷監督との約束でもある。

鶴谷監督が亡くなる前、富田は電話で「これから先、一緒にマラソン走ろうや。お前となら一緒にできるから」という言葉をかけてもらった。恩師からの最後の言葉だった。富田にはもともと、学生時代にベースを築き、実業団ではマラソンを見すえて走りたいという思いがあったという。

「そう言われたとき、すごいうれしかったし、でも同時に悲しい思いもしました。亡くなる直前だったので。だから、僕はそれを実現したいんです」

鶴谷監督の最後の教え子である富田はいま、その先に広がる未来のために走る。

この記事をシェア

in Additionあわせて読みたい

Their Stories大学別・競技別に読む