法大アメフト本山大雅、戻ってきた最後のリーグ戦「すべてはチームのために」
関東大学リーグ1部TOP8 第3節
9月29日@法政川崎総合グラウンド
法政大(3勝)24-21 東京大(3敗)
アメリカンフットボールの関東大学1部TOP8の第3節で、法大が24-21で東大を振り切って、開幕3連勝とした。この一戦で、2年ぶりのリーグ戦出場を果たした選手がいた。
かつてはサッカー少年、昨年6月に大けが
法大のキックオフの際、キッカーを務めた本山大雅(たいが、4年、横浜栄)だ。昨年の6月、中央大との試合で大きなけがをした。LB(ラインバッカー)で出ていたが、相手のヒットを受けてぶっ飛ばされてきた味方に巻き込まれて転倒。このとき上半身も下半身ともに大けがを負い、練習に復帰するまでに7カ月かかった。アメフトを見るのも怖く、部をやめようと思ったこともあった。しかし、ずっとアメフト一筋できた本山は、ほかに何をすればいいのか分からなかった。チームに残り、また選手として出場することを目指す道を選んだ。
サッカー少年だった。小学校1年生で始め、中3まで9年間続けた。横浜市立日限山中学校の同級生に、いま早稲田大ラグビー部で主将を務めるSH齋藤直人(桐蔭学園)がいて、彼の話を聞くうちにコンタクトスポーツに魅力を感じるようになった。そして、高校では別のスポーツに挑戦したいと考え始めた。ただ、体育の授業などで斎藤の並外れた身体能力を目の当たりにして「ラグビーじゃ齋藤には勝てない」と思ったそうだ。
中学校の先生がアメフトを勧めてくれた
思ったことがすぐに口に出てしまう性分の本山はある日、サッカー部の隣で練習していた野球部の顧問の先生に「負けん気が強いから」と、アメフトを勧められた。かつて富士通フロンティアーズの選手で、DBとして日本代表でも活躍した三上俊介さんだった。アメフトの試合を見たことはなかったが、熱心に勧められるうち、アメフトで活躍する自分を想像して、夢を膨らませるようになった。
アメフト部がある学校を選び、県立横浜栄高校に進学。入部時は身長180cm、体重60kg。RBとLBにキッカーでもプレーした。2年生の夏には、1日6食の生活で体重を85kgまで増やした。当り負けない自信がつくと、アメフトがもっともっと楽しくなった。1学年上には、のちに関西学院大のエースRBとなった山口祐介らがおり、高2の秋は、関東大会ベスト4まで勝ち上がった。このころは、「試合をすれば勝つ」という状態で、アメフトがとにかく楽しかった。自然と大学でも競技を続けることを考えはじめたころ、本山の活躍を見ていたいくつかの強豪大学からの誘いが舞い込んだ。実際に練習を見て回り、生き生きとした雰囲気にひかれ、法政に進むと決めた。
法政では1年生からLBとして出場機会を得た。はじめて出た試合は、春の関西大との定期戦。試合で対峙した関大のTE青根智広(現・パナソニック)のパワーに驚いた。「大学ではこんな強いヤツらと勝負しないといけないのか、全然違う世界だなと感じました」。当たるのが怖くなったこともあった。2年生になる前にスピードを買われてDBへコンバート。3年生になると、恵まれた体格を生かすためにLBに戻った。そんな矢先の大けがだった。
学生ラストシーズンはキッカーに専念
戦列に復帰したのがこの春の関学戦だった。LBとキッカーで出場し、もう怖さはほとんどなかったという。そして、久しぶりにLBとして試合に出られるのが楽しかった。しかし、6月の練習で再び負傷。練習にも入れずに、同じポジションで活躍する下級生らを見ていると、「LBはもういいかな」と思った。
本山にとって不幸中の幸いだったのは、キックするときの軸足は痛めていなかったこと。LBが難しそうなら、キッカーとしてできることをやろう。そう決めた。法政OBで「キッキングアカデミー」を主宰する丸田喬仁さんに毎日練習の動画を送り、指導を受けている。ボールを蹴るまでの助走の仕方から、気持ちのつくり方まで指導を受けるうち、飛躍的に飛距離が伸びた。いままでは我流で力任せに蹴っていたが、キックひとつでもこれだけ奥深いのだと知ると、日々の練習と自分の成長が楽しくて仕方なくなったという。
東大戦前の練習では調子がよく、キックオフのときのキッカーとしてスタメンに指名された。試合会場は法政のホームグラウンド。「リラックスしすぎた上に、久しぶりにかぶる試合用のヘルメットがしっくりこなくて、納得のいかない蹴り出しでした」と苦笑い。2本目以降はタッチバックまで蹴り込むナイスキックを披露した。「LBのときはメインメンバーじゃなかったからと、気持ちのどこかに引け目がありました。でも、キッカー専属になったいま、自分の活躍よりもチームに何かひとつでも貢献するのが大事だと思ってやってます」
4年生の秋、ようやく戻ってきた晴れ舞台。本山はチームのためにと燃えている。