野球

特集:第50回明治神宮野球大会

関大・肥後皓介 4回生エースは雌伏の夏、秋を経て、神宮のマウンドに立った

慶應義塾大との決勝で2番手として投げた関大の肥後(すべて撮影・佐伯航平)

秋の大学野球日本一を決める明治神宮大会で、関西大(関西)が優勝した1972年の第3回大会以来47年ぶりで決勝進出。慶應義塾大学(東京六)に負けて準優勝だった。この大会を通じて見事な応援を披露してきた関大のスタンドが、ひときわ沸いた瞬間がある。右肩のけがで秋のリーグ戦を棒に振った4回生エースの肥後皓介(広陵)が、神宮大会の初戦で復活し、聖地・神宮球場のマウンドに上がったときだ。

初戦で4回生ふたりによる零封リレー

「神宮のマウンドは最高の舞台でした。みんなに支えられて、応援してもらって……。幸せでした。4回生のみんなに、ほんと、支えられて、ここに連れてきてもらって……。自分がチームを勝たせたかった……。それができなくて、悔しいです」
決勝で負けたあと、肥後は目を真っ赤にしながら言葉を絞り出した。

初戦となった準々決勝の金沢学院大(北陸)戦の9回。投手交代で肥後の名前がコールされると、スタンドの部員たちは待ちに待った4回生エースの復活に声を張り上げた。

復帰戦となった金沢学院大戦に勝ち、ガッツポーズ

5-0とリードしていたが、好投を続けてきた先発で左の森翔平(4年、鳥取商)が、この回の先頭打者にヒットを打たれ、続く打者にぶつけてノーアウト一、二塁のピンチを招いた。ここでバトンを受けた肥後は、ライトフライ、空振り三振、ファーストゴロで切り抜けた。関大が神宮大会で47年ぶりに勝った。「後ろに肥後ちゃんがいてくれると心強いです。ギリギリ間に合ってほんとによかった」。森は4回生のふたりによる零封リレーを喜んだ。

春のリーグ戦後、右肩関節唇損傷が判明

肥後は関大入学後、1回生の春からリーグ戦のマウンドに立ち、3回生の春からはエース格として活躍してきた。4回生になったこの春、1勝5敗と勝ち星には恵まれなかったが、9試合で49回3分の2を投げ、56奪三振、防御率はリーグ8位の2.36をマークし、投手陣を支えた。しかし、肥後の右肩には異変が生じていた。リーグ戦後に検査すると、右肩関節唇損傷を負っていることが分かった。

秋の関西学生リーグ戦、関大は投手陣の柱を欠いての戦いとなったが、このピンチに4回生の森が急成長。8試合に登板して2勝を挙げ、同じく8試合で4勝して最優秀選手、最優秀投手、ベストナインに輝いた高野脩汰(3年、出雲商)とともに投手陣を引っ張った。関大はリーグを制した。肥後の右肩も回復に向かい、リーグ戦終盤にはピッチング練習を再開した。チームが神宮大会まで勝ち進むことを信じて調整を続け、リーグ戦の試合ではスタンドから声援を送り続けた。

関大は関西5連盟第1代表決定戦で天理大(阪神)を3-1で破り、明治神宮大会出場を決めた。肥後は当初、ベンチ入りメンバーから外れたが、最終のメンバー変更でベンチ入りが決まった。大学最後のシーズン、最後の最後に間に合った。

慶應打線を止められなかった決勝

準決勝の東海大(首都)戦、肥後は3-4と1点ビハインドの6回に3番手として登板。6~8回の3イニングを投げ、被安打1、1失点で4番手の高野に託した。シーソーゲームとなったこの試合は延長10回、タイブレークにより8-7で関大が勝ち、決勝へ進んだ。

決勝進出を決めたとき、涙をこらえきれなかった肥後

慶應との決勝。肥後の出番は8回にやってきた。ここまで力投を続けてきた先発の森が連打され、ノーアウト一、二塁のピンチ。2点のリードを許している。もう1点もやれない場面だ。打席には慶應の4番郡司裕也(中日4位、4年、仙台育英)。3球目、力んだ肥後は暴投で2人の走者を進めてしまい、無死二、三塁に。4球目の135kmのまっすぐライト前に運ばれ、2点を失った。さらにツーアウト二、三塁から8番の瀬戸西純(3年、慶應)にスリーベースを打たれ、0-6に。9回には3番手の高野が2点を失い、関大は0-8で敗れた。

森(左、14番)に後を託されるとき、肥後は笑顔だった

同じ4回生で仲のいい森が1回に先制点を許しながら、2回から7回まではゼロを並べた。肥後は「自分のピッチングで試合の流れを変えたい」という気持ちでマウンドに向かった。しかし、慶應打線を止められなかった。

「悔しいです。力不足でした……」。肥後は悔しさをこらえながら、言葉を絞り出した。

「限界の先に成長あり」心に残る山口高志さんの言葉

関大の躍進を支えた元剛腕投手がいる。1972年の第3回大会でエースとして関大を優勝に導いた山口高志さん(現アドバイザリースタッフ)が、現在の4回生の入学と同時に投手陣を指導するようになった。

「練習はうそをつかない」
「限界の先に成長あり」

山口さんが言い続けてきた言葉は、肥後の心に残っている。この夏、そして秋、肩を痛めて投げられない間も、山口さんの言葉を胸にリハビリとトレーニングを続けてきた。1972年に関大が優勝したときに山口さんがつけていた背番号11を、今回は肥後が背負い、神宮のマウンドに立った。

「関大での4年間は一生の宝物です」。肥後は言った。卒業後は関西のチームで社会人野球の世界に飛び込む。大学で得た宝物と山口さんの言葉を胸に、果たしえなかった日本一と、2年後のプロ入りを目指して。

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