陸上・駅伝

特集:第96回箱根駅伝

「自分のチームにワクワク、ドキドキ」國學院大の歴史を変えた前田康弘監督のいま

箱根駅伝レース後に「男泣き」でも話題となった前田監督。じっくりとお話をうかがった(撮影・藤井みさ)

2019-20年の駅伝シーズンで、國學院大の歴史は確かに変わった。10月の出雲駅伝で学生三大駅伝初優勝を果たし、今年1月の箱根駅伝では往路2位、復路3位で総合3位に輝いた。その集団を導いたのは選手時代、駒澤大黄金期の礎を築いた前田康弘監督だ。國學院大でのこれまでを振り返ってもらうとともに、指導者として大切にしていることなどについて聞いた。

監督の涙腺を緩ませた10区殿地の走り

今年1月3日、東京・大手町。10区を走ってきた殿地(どんじ)琢朗(2年、益田清風)が創部以来最高の総合3位でゴールしたのを見届けると、前田監督の目には熱いものがこみ上げてきた。もともと10区は高嶌凌也(3年、日体大柏)が走るはずだった。調子もよかった。だがこの4日前に急遽、殿地に代えた。「12月に入ってからの(調子の)上がり方、走りの余裕などすべてがよかったんです。これは殿地でいこうと。独断で決めました」

前田監督は日々、選手の息づかいまで感じ取りながら、個々の状態を見極める作業を繰り返している。その判断に間違いはなかった。ただし殿地は監督の見立て以上の走りだった。5位で襷(たすき)を受け取ると、帝京大、東京国際大、明治大との激しい3位争いから抜け出したのだ。

4人の争いを抜け出し、笑顔でゴールした殿地(撮影・北川直樹)

「持ちタイムからいくと(競っていた)4人の中では一番下。それなのに監督車から声をかけると、ガッツポーズで前に出る合図を送ってきましてね。そのまま引っ張り続けた。そこには駆け引きなどなく、あったのは『俺は勝つ』という気迫だけ。それを見ていたら、忘れていた大事なものを思い出しまして……。その時点で涙腺は緩んでましたね」

就任当初に感じたプレッシャー

前田監督は駒大時代、2、3年生のときの全日本大学駅伝連覇に貢献し、4年生の2000年は主将として箱根駅伝総合初優勝の原動力になった。実業団の富士通を経てコーチとして國學院大にやってきたのは07年。2年間務めた後、09年8月に監督(当初は監督代行)に就任した。32歳の若さだった。

「(1882年創立と)学校としての歴史が古い中、運動部の監督でほかの大学出身者は僕が初めて。野球部や柔道部など、大学が力を入れている部は國學院のOBが監督なんです。なので当初はどうしたらいいか、少し戸惑ったりもしましたね」。加えて、3年以内に箱根駅伝に出場しないと、というプレッシャーもあった。当時、國學院大は2大会連続で本戦出場を逃していた。

2011年、箱根路に國學院の幟が立った(撮影・藤井みさ)

就任した年こそ本選出場はならなかったが、翌年は高校時代に無名だった選手たちを師である駒大・大八木弘明監督譲りの猛練習で鍛え上げ、4大会ぶりに箱根路へと導いた。順位も10位と初のシード権をとると、翌年も10位に入った。以後の3大会も本選に名を連ね、5大会連続出場を果たした。それまでは2大会連続出場が最高で、運動部全体でも大舞台とは縁遠かった國學院大。正月の風物詩である大会に5年連続で校名が出るのは一つの快挙であった。

まさかの予選落ちで自分を省みる

ところが、このまま箱根常連校への道を進むかと思われていた中、2016年は予選会落ちを味わう。

「これはもう自分の甘さですね。チームの状態がよくなかったんですが、どうにかなるだろうと高をくくってました。5年連続で箱根に出ていたことで、どこかで慢心があったのだと思います」

前田監督は自らを省みて、まず己を律した。危機感も感じていた。もし翌年も予選会を通過できないようなことがあれば、培ってきた指導者としての信用に疑問符が付くだけでなく、選手勧誘の大きな痛手となる。近年、箱根を走りたいと考えている有望な高校生は、2年連続で箱根に出られなかった大学は選択肢から外す傾向があるという。勝つには練習しかない。「最後の結果がよければ、どんなに練習がキツくても、ありがとうで終われる」という信念のもと、ハードな練習を課した。

己を律したが、当時はとにかくピリピリしていたと語る(撮影・藤井みさ)

ちょうどそのころに入学してきたのが、土方英知(4年、埼玉栄、4月よりHondaに入社予定)であり、浦野雄平(4年、富山商、4月より富士通に入社予定)であった。浦野は入寮してすぐにチームの雰囲気が張り詰めていると感じたという。監督のテンションがそのまま選手を支配していたのだろう。「いまほどは選手との信頼関係は築けてませんでした」と、前田監督は話す。

この年、予選会を突破して箱根路に戻ったが、結果は16位。シード権争いにも絡めなかった。このまま箱根に出るだけでいいのか? 前田監督の前に新たな壁が立ちはだかった。

「大八木さんからは『お前はエースをつくれないから優勝争いができない』と、まっすぐに突き刺さる言葉をもらいました。わかってたことなんですが、はっきり言われました(苦笑)」

考えていた以上の速度でチームが成長

迷いながら指導していた中、翌2018年の箱根で光が差す。総合順位は14位だったが、3人の2年生(当時)が大躍進。1区の浦野が区間2位になると、3区の青木祐人(4年、愛知、4月よりトヨタ自動車入社予定)は区間5位。4区の土方は区間新記録で区間3位になった。3人が区間5位以内に入るのは想定外だったが、「この三人が『自分のやってきたことは間違ってない』というメッセージをくれた気がしました」

前田監督は三人の学年で勝負しようと腹をくくる。「これまでの歴史を変えられると思ったんです」。新チームになると、主将には最上級生ではなく、土方をすえた。

2019年の箱根駅伝、浦野が区間新記録で走ったことも、シード権獲得に大きく貢献した(撮影・松嵜未来)

以後は前田監督の見立て通りに進んでいく。土方らが3年生のときは、全日本で6位の好成績をおさめると、箱根では7位に。過去最高順位でシード権を獲得した。主将の土方はこの後すぐ、学校関係者を前にした報告会で「来年は総合3位になる」と宣言するのだが、実は昨年の7位は出来過ぎだったという。

「自分が考えていた以上の速度でチームが成長した、というのが本音です。今年シード権が取れたらいいな、と思っていたので。懸案だった5区に、本当は2区を走りたいと言っていた浦野が自分の我を抑えてはまってくれたのも大きかった」

上意下達から対話重視の指導法に移行

チームが急成長した裏には、指導法の変化もあった。それまではどちらかというと上意下達だったが、コミュニケーションを取った上で決めるやり方にしたのだ。「練習の動きだけでは把握しきれないところや、選手目線のほうが正しいこともあるので。さすがに部員全員とはいきませんが、中心選手には『どうしたいのか』について話を聞くようになりました」

土方は昨年の関東インカレハーフマラソンで優勝するなど、名実ともにチームをけん引した(撮影・北川直樹)

ただし選手の要望を聞き過ぎてもチームはまとまらない。過去にも選手の要望を尊重したことがあったが、ああしたい、こうしたい、のオンパレードで終わってしまった。だが、いまの4年生、とくに土方や浦野は違った。「なぜそうしたいのか、きちんと理由が言えるので、意見のキャッチボールができるんです。これは彼らが自分たちで作り上げたスキル。実業団でも生かせるものだと思います」。前田監督は今後も対話重視の指導を続けていくつもりだ。

「同志」でもあった土方と浦野との別れ

國學院大躍進の象徴となった土方と浦野も3月で卒業だ。2月17日には思い出の詰まった選手寮を出ていった。その日は奇しくも前田監督の誕生日。2年生のときから本音でチーム作りをしてきた、いわば同志でもある彼らとの別れは、寂しさもあるようだ。だがもちろん、すでに先を見すえている。「土方と浦野がいなくなるからこそやらなければならないし、ここからが勝負だと思ってます」

土方の後の主将を引き継ぐのは2年生の木付琳(きつき・りん、大分東明)。木付は土方の置き土産でもある。3年生にリーダー向きの存在が見当たらなかった中、土方が木付を推し、その上で「1年間、僕に預けてください」と申し出て同部屋で生活。主将に求められることを言葉で、そして背中で伝えた。昨年の時点で今年度のチーム作りが始まっていたわけだ。

土方は殿地の走りを見て「これからの國學院を任せられる」といった。今後のチームにも期待だ(撮影・藤井みさ)

前田監督は「来年の箱根は(成績が)しゃがんでしまうかもしれませんが、2年計画で木付の代が4年生になったときにはジャンプアップするつもりです」と、すでに青写真を描いている。今年3位になったことで、強豪高校でも國學院大の評価が高まり、来年は即戦力になる選手が入学してくる可能性もある。

前田監督は昨年の出雲から今年の箱根まで、チームを率いていて楽しかったという。「文系の学校として知られる國學院が、スポーツの分野で注目されることにやりがいを感じましたし、チームがどこまでやれるかと、ずっとドキドキ、ワクワクしてました。自分のチームにワクワクできるなんて、こんな素晴らしいことはありません。選手たちに感謝ですね」

もっとドキドキ、ワクワクできるチームに。新シーズンのスローガンは「覚悟と証明」「歴史を継承し新たな未来へ」。國學院大は次の進路を、初の箱根駅伝総合優勝に定めた。

in Additionあわせて読みたい