陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years. 2020

國學院大・浦野雄平 4年間を糧に、自分の可能性をさらに広げる一歩へ

昨年のホクレンディスタンスチャレンジ網走大会での浦野。2大会連続で13分台を出した(撮影・藤井みさ)

出雲駅伝初優勝、箱根駅伝は史上最高の総合3位。「歴史を変える挑戦」のスローガンを体現してきたのが、キャプテンの土方英和(4年、埼玉栄)とダブルエースと呼ばれる浦野雄平(4年、富山商)だ。学生界を代表するランナーとなった浦野の4年間を振り返ってもらった。

國學院大・土方英和 笑顔で卒業、すべてが成長した「最高」の4年間

決してエリート選手ではなかった

中学までは野球をしていた浦野だが、新しいことに挑戦してみたい、と高校から陸上を始めた。野球継続を期待していた両親には、「箱根駅伝に出る」ことを条件に陸上への転向を認めてもらったという。高3のときには北信越インターハイ1500m、3000m障害で優勝したが、全国ではまったく歯が立たず「全然エリート選手じゃなかったです」と振り返る。さまざまな大学のスカウトが来たが、その中でも前田康弘監督は唯一直接来て、話しかけてくれた。直接話をしたことが心に響き、國學院大への進学を決意した。

浦野が入学した2016年は、前年にそれまで5年連続出場していた箱根駅伝への出場が途切れたタイミング。同級生には高校時代から結果を出していた青木祐人(愛知)、そして土方。彼らに少しでも近づけるように、一緒に強くなりたい、と思って練習に取り組んだ。

エリートではなかったという浦野。努力を積み重ねてここまできた(撮影・藤井みさ)

土方も影響を受けた先輩として挙げていたが、当時4年生の蜂須賀源(現・コニカミノルタ)の存在は浦野にとっても大きかった。「源さんにはジョグに連れて行ってもらったり、チームで一番夏も距離走る人で、そういう背中を見て僕も土方も育ちました。先輩が抜けた後も毎年、夏に関わらずチームで一番走るようになりました」

初の箱根で区間下位に沈み、悔しさで奮起

練習を積み、着実にタイムを伸ばしていった浦野だったが、1年生のときの箱根駅伝予選会ではチーム内で8位だった。全日本大学駅伝ではメンバーに入っていたものの、出走できず。その後11月の記録会で10000mで学年内1位のタイムを出すなど調子を上げ、箱根駅伝のメンバー決めでは6区を江島崚太(当時2年、 諫早)と競い、出場を勝ち取った。

両親との約束である「箱根駅伝を走る」ことは実現したが、結果的には区間17位。下りへの苦手意識もあって、「ただ走るだけ」になってしまった。レース後、シンプルに悔しい、チームの足を引っ張ってしまったという思いがこみ上げてきた。もっとしっかり走りたい。箱根駅伝の直後に前田監督に「次は僕が1区行きます」と宣言し、もっとチームのために、強い選手になると決意した。

浦野、そして土方にも大きな影響を与えていた蜂須賀をはじめ、慕っていた4年生が抜ける新シーズン。「自分たちがやらなきゃ」と土方、青木と話し合ったという。「それが(チームが)強くなるきっかけだったのかなと思います」。チームの核が抜ける。だからといって弱くなってはいけない、という気持ちで浦野たちの学年の意識はまとまっていた。

昨年の関東インカレ2部5000mでの浦野。留学生に食らいつき日本人トップ(撮影・佐伯航平)

偶然の出会いもあった。2月の合宿は神奈川大と同じ場所で、当時学生界のエースと呼ばれていた鈴木健吾(現・富士通)がいた。ある日、周回コースをジョグしているとき、鈴木が逆まわりに走っていた。「周回する度にだんだん会うのが早くなって、ということは健吾さんの方が全然スピードが速くて。学生界のエースと言われる健吾さんがこれだけ走ってるんだったら、もっとやらなきゃって。自分が甘いなって思って」。蜂須賀から受け継いだ「走り込んで強くなる」ことに加え、より一つひとつの練習の質、ということも考えるきっかけとなったという。

偶然の出会いも浦野の意識を変えるきっかけになった(撮影・藤井みさ)

迎えた2年目の箱根駅伝では1区を任された。前年とは違い、走っていて「楽しい」という感覚を味わえた。区間2位と好結果を残したが、本来は直前に前田監督から「2区行ってくれないか」と言われていたという。だが11月に一度足を痛めていたため、それを断った。「だからこそより一層、責任感をもって走りました」。結果的に区間順位は浦野が1区2位、青木が3区5位、土方が4区3位。自分たちがやってきたことは間違いではなかった、という自信を得ることができた2年目だった。

5区の区間新で一躍注目の選手に

浦野が一躍有名になったのは、3年生のときの箱根駅伝5区の区間新記録だ。さまざまな記事にも書かれているが、浦野はこの年、エース区間の2区を走りたいとずっと思っていたという。前田監督には「2区行く準備してます」と言い続け、目標シートにもずっと「2区を走る」と書いていた。だが、チームのために浦野が担当することになったのは、特殊区間である5区。1年の時の6区と上り下りが逆になったが、下りより上りのほうが得意だと本人も言い、その適性を前田監督も見抜いていた。

迎えた当日、自信はそれなりにあったが、タイムがどれだけ出るのかは分からなかった。結果は区間新記録。往路が終わった瞬間に「あ、こりゃ来年も(自分が5区)かなって覚悟しました(笑)。前田さんに『来年は往路優勝いけるな!』って言われて、まじかよ~って」と笑って振り返る。

好記録で一躍注目された。「僕は何も変わらないけど、周りが変わりました」(撮影・松嵜未来)

箱根後の大きな目標にしていたのが、ユニバーシアードハーフマラソンへの出場だ。3月の学生ハーフマラソンで3位までに入れば出場権を得られるが、箱根からのいい流れをもってきていた浦野は、この年4区で区間新を樹立した相澤晃(東洋大)に次いで自分が上位に入れると自信を持っていた。先頭集団を引っ張る場面もあり、積極的にレースを進めたが、最終的には中村大聖(駒澤大)、伊藤達彦(東京国際大)、そして土方にもかわされ、5位に終わる。

自信と過信は紙一重。もしかしたらこのときの浦野は、自分の力を過信しすぎていたのかもしれない。目標としていたものを見失い、3月中は完全に気持ちが落ちてしまっていた、と振り返る。

4月になり、新学年になったタイミングで気持ちを切り替えられた浦野。ユニバーシアードはだめだったが、「関東インカレで2種目取りに行こう」と照準を定め、2部5000m、10000mでともに日本人トップ。7月にあったホクレンディスタンスチャレンジでは5000m13分45秒94と自己ベストを更新し、土方とともに「今年の國學院はやってくれそう」という雰囲気を感じさせる存在となった。4年になって活躍が続いたことについて聞くと「3年生までは力がついていてもなかなかレースに出ることがなかったので、タイミングの問題というのもあります。いざ(レースに)出てみると結果がついてきて、自信になりました」と競技力とともに意識も高まってきたことを話す。

期待に応えられず「ごめん」のゴール

迎えた駅伝シーズンはチームのエースとして臨むものの、出雲3区3位、全日本2区2位、箱根5区3位。いずれも区間記録を更新したが、区間賞を取れなかった。Twitterでも「3大駅伝全て区間新だったけど区間賞取れなかった件について…」と思わずつぶやいた。そのことについて聞いてみると「なかなか取れなかったですね……」とやはり残念そうだ。「まわりにも力がある選手がいるというのは分かってたんですけど、それでも力を示したかったです」

出雲駅伝優勝、「うれしいけど悔しい」とレース後に語った(撮影・藤井みさ)

特に、最後の箱根駅伝は悔いの残るレースとなってしまった。2区への思いがあった前年とは違い、「箱根を走ることは今しかできないので、チームのために自分の力を捧げよう」と決め、はじめから5区を走るつもりでしっかり準備して臨んだ。襷(たすき)をもらった時点で前との差は1分28秒。チームの目標である「往路優勝」が見える位置でのスタートだった。しかし前を走る青山学院大の飯田貴之(2年、八千代松陰)に追いつけず、「ごめん」の仕草でゴールした。

「チームのみんなもはっきりとは言いませんけど、『5区に浦野がいるからなんとかしてくれる』って気持ちでつないでくれますし、前田さんからも『お前がいるから往路優勝という目標を掲げられたんだ』と送り出してくれたので、すべての人の期待に応えたいなという思いがあったんですけど、結果2位で、ああいう形のゴールになりました」。設定タイムよりも1分以上遅かった。失敗レース、と形容した。

往路2位でのゴールにも笑顔なし。個人では納得のいかない箱根だった(撮影・佐伯航平)

「総合3位はうれしかったです。そこを目指して1年間やってきたので」というものの、やはり個人としては悔しさが残る。いつもなら箱根駅伝の事後番組を何度も見たりするが、今年はほとんど見ていないという。「それぐらいなんかショック大きいレースでした、やっぱり」。自分の力でチームを勝たせたかった。その思いは今も胸にくすぶっている。

3000m障害にもチャレンジしたい

今後は実業団、富士通で競技を続ける。チームメイトとなるのは昨年日本選手権5000m優勝者の松枝博輝(順天堂大)、リオオリンピック3000m障害代表の塩尻和也(順天堂大)、東京オリンピックマラソン代表の中村匠吾(駒澤大)など日本を代表するランナーたちだ。まずは10000m27分台、5000m13分30秒切りを目指す。「海外のレースも機会があればチャレンジして、より競技者としてのレベルを上げていきたいです。強い選手に揉まれて、自分も強くなれればなって思います」

将来的にどんな選手になっていたいですか? 改めて聞いた。「トラックからマラソンという流れは決めてるので、最後はマラソンで終わりたいです。マラソンという花形競技で世界大会で活躍したいなって気持ちが最近より強くなってきました。まずはトラックに集中して、スピードを磨けるところまで磨いて、納得した形でマラソンにいきたいです」。國學院大での4年間、走り込んで強くなるというスタンスでやってきて、体の耐久性は身についている。その上で、いかに強度の高い練習をしていくか。これまでの取り組みは、確実に次のステップに生きてくる。

なんでもチャレンジしてみたいという浦野。可能性は無限に広がっている(撮影・藤井みさ)

「ロードもトラックもオールマイティーにこなせるのが持ち味」と自分を形容する浦野。そのときそのときでベストの種目をチョイスしていきたいという。「3000m障害もやってみたいなって気持ちが強くなってますし、1500mもやってみたいなって思いもありますし、やっぱり自分の可能性をどんどん広げていきたいなって思います。より自由が効くと思うんで」。3000m障害にチャレンジ! 思わず驚いて「初めて聞きました」と声に出すと、「初めて言いました」とはにかんだ。

「どこまでそれが実現するか分からないですけど、できることをしっかりやって、まずは日本選手権優勝とかタイトルをとりたいなって思ってます」

自分の可能性を広げ続ける浦野。國學院大のエースから、日本の陸上界のエースへの一歩が始まる。

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