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特集:東京オリンピック・パラリンピック

帝京大短カルロス・ユーロ 釘宮コーチと狙うフィリピン初の体操五輪金メダル

フィリピンで出会ってから7年目、ユーロ(左)は釘宮コーチとともに、世界の頂点を目指している(すべて撮影・松永早弥香)

昨年10月にドイツで開かれた体操の世界選手権男子種目別ゆかで、カルロス・ユーロ(帝京大学短期大学1年、帝京)が15.300点を出し、フィリピンの選手として初の金メダルに輝いた。個人総合も10位に入り、東京オリンピックの出場権を手にした。「もっと練習してみたい?」。釘宮宗大(くぎみや・むねひろ)コーチ(35)にそう声をかけられ、母国から日本に渡ったのが4年前。厳しくも温かいコーチのもとで成長を続けている。

フィリピンから日本へ、腹をくくった釘宮コーチ

クリッとした目に身長147.2cmの小柄な体。どこか幼い印象を持ってしまうが、ユーロはこのほど20歳になった。釘宮コーチは彼が13歳のときに初めて会った。当時、日本体操協会からの派遣で、マニラにあったナショナルトレーニングセンターでフィリピン代表を指導していた。センター内には冷房がなく、環境の変化から釘宮コーチは最初の2カ月で約7kgも体重が落ちてしまったという。そんなナショナルトレーニングセンターの近所にユーロの家があったのは、運命だったのだろう。友だちから「一緒に体操やってみない?」と誘われ、ユーロはこの世界に足を踏み入れた。

釘宮コーチに初対面の印象を尋ねると、「上手だなって思いましたけど、日本の選手の方が上手だったので、別にそこまで強い印象はなかったですね」とあっさりしたもの。ただ、ここからの成長は早かった。練習を始めて1カ月後に出場した大会で、ユーロは6種目の総合で49点。日本の小学生にも勝てないレベルだった。しかし1年後には72点まで上げてきた。世界のトップ選手は80~90点で戦っている。「選手って波があるのが普通じゃないですか。彼も波はあるんですけど、どんな状態でも『頑張ろう』と練習ができる子でした」。思えばこのころから、釘宮コーチはユーロとオリンピックを重ね始めたという。「オリンピックに出る」というよりも、すでに「出て、どう戦うか」に意識が向いていた。

釘宮コーチはユーロの成長の早さに光るものを感じた

釘宮コーチの派遣は1年の予定だったが、結局、約2年半にも及んだ。日本に帰ることが決まったとき、心残りはユーロだった。恵まれているわけではない環境で、埋もれてしまうのはもったいない。「もっと練習してみたい?」とユーロに尋ねると、「できるの?」と返してきた。ユーロが日本に渡るには、国際体操連盟や両国の体操協会への手続きなどが必要になり、さらに日本での生活や教育環境の問題もある。そのために膨大な準備作業が釘宮コーチに発生する。「できるかもね」というコーチの言葉にユーロも二つ返事で応じ、釘宮コーチの腹は決まった。

ただ、ユーロの母は反対だった。2週間悩み、最後は「お願いします」と涙を流しながら釘宮コーチに息子を託した。「そのときに思ったのが、もし体操が上手にできなくても、一人の人間として成長させないといけないということでした。彼は体操選手として結果を残すために、フィリピンから一人で日本に来るんです。でも、体操も大事だけど、あの場面でふと思ったのは『人としての成長の方が大事だな』って」。まだ10代の多感な時期を生きていたユーロに対し、人としての成長をサポートしなければいけない。その覚悟を決めた瞬間だった。

帝京高から奨学金制度を活用して大学へ

ユーロが拠点を日本に移した当初、二人は釘宮コーチの実家がある横浜市内で暮らしていた。コーチは帝京大の助教として東京の八王子キャンパスへ、そしてユーロの練習のために東京都北区にある味の素ナショナルトレーニングセンターへと、自動車を走らせる毎日だった。その生活が半年続いたあと、体操と教育の両面から一番いい条件でユーロを受け入れてくれた帝京高校(東京)への進学を機に、二人で都内に引っ越した。

初めは日本の学生と同じスポーツクラスに所属しながら留学生たちが学ぶインターナショナルクラスと協力したカリキュラムを組む予定だったが、結局、スポーツクラスだけのカリキュラムになった。そのため日本語の壁があり、ユーロはふさぎ込んでしまうこともあったという。そして昨春、帝京大学短期大学人間文化学科に進学した。

ユーロは現在、奨学金制度を利用して帝京大短に通い、練習後は釘宮コーチと暮らす家に帰る。生活面での細かいルールは決めず、体操選手として日本で強くなると決意したユーロ自身に任せている。しかし、スイーツ好きでチョコレートやベイクドチーズケーキで空腹を満たすこともあったため、週に3度は釘宮コーチが夕食を作る。ユーロの日本での暮らしも4年目となり、満員電車にも次第に慣れ、好きな食べ物にあんこも加わった。週5日通う大学では、同じクラスに日本人の友だちもできた。

一緒に暮らしていても釘宮コーチはあくまでも指導者。体育館を出ても甘えはない

ユーロが初めて釘宮コーチに会ったとき、厳しい指導者という印象を受けたという。それから約7年。どう印象が変わったか尋ねると、「もっと恐くなりました」とユーロ。それは釘宮コーチが日ごろから意識していることだ。「悩みっぱなしですよ。僕は彼に対して指導者でいないといけない。それを崩したら、もう僕は指導できなくなると思うんで」

ユーロもときには落ち込んで、部屋にこもってしまうこともあるという。そうした姿を目にすると、釘宮コーチは心が苦しくなるが、指導者としてグッと堪える。「僕が指導してるうちは、です。彼が引退したときは、いまとはまた違ったものをいろいろ共有できると思うんですけど。でも、まだ『家族』になっちゃいけない。なりたいんですけどね」

ともに暮らす中で、ユーロは自然と掃除や洗濯にも取り組むようになった。いまも調子が悪いときは部屋にこもってしまうが、その回数も減っている。「そういうのも成長って言うんじゃないですかね」。釘宮コーチは笑いながら言った。

母はコーチに「あなたを疑ったことは一度もない」

もし東京オリンピックで金メダルをとれば、体操ではフィリピン初の快挙だ。そのプレッシャーは釘宮コーチもユーロも強く感じている。ただ二人の思いとしては、東京は挑戦の場。本当の勝負は次のパリだと考えている。「目指す大会は大きくなっても、指導する上で僕が伝えることは一緒です」と話す釘宮コーチも、東京オリンピック出場がかかっていた昨年10月の世界選手権はさすがに緊張した。ユーロの母親とは必要以上に連絡を取り合ってはいないが、フィリピン初の世界選手権金メダルをとったときは連絡した。「僕を信頼して、日本に送り出してくれてありがとう」と伝えると、母は「あなたを疑ったことは一度もない」。その言葉は釘宮コーチの胸に響いた。

ユーロといつかは家族になれたらという思いはある

東京オリンピックではフィリピンや日本だけでなく、世界中の人々が自分の演技を目にする。とくにどんなところを見てほしいですか? 「減点の少ない、きれいな演技を見てもらいたいです」

ユーロは目を輝かせながら、しっかりと答えてくれた。

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