陸上・駅伝

連載:監督として生きる

選手の決心固める賭けが実り、2度目の予選会を突破 帝京大駅伝部・中野孝行監督3

選手たちは中野監督を「すごく自主性を重んじてくれる監督」と話す(撮影・安本夏望)

帝京大は今年の箱根駅伝で、過去最高に並ぶ4位という好結果を残しました。駅伝競走部の中野孝行監督(56)は2005年11月に就任し、08年から13年連続で箱根駅伝に出ています。中野さんの歩んだ道を4回の連載で紹介します。3回目は帝京大の監督として初めて出場した箱根駅伝を巡るストーリーです。

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勝負の夏合宿を前に、覚悟の「放置」

06年10月、帝京大の監督として初めて臨んだ箱根駅伝の予選会で12位。前年と同じ順位だったが、タイムは約4分30秒も縮まった。中野監督は選手たちが本気になっているのを感じとった。そして「自分色にしよう」と決め、練習をガラッと変えた。走行距離を増やし、補強運動やストレッチにもしっかり取り組んだ。それは中野監督自身が現役時代、故障に悩まされた経験がもとになっていた。

07年8月の夏合宿前のある“事件”を機に、チームの雰囲気が決定的に変わった。うだるような暑さの中、毎日走り続けていると、どうしても気持ちは滅入ってしまう。中野監督の目から見ても、選手たちはダレ始めていた。箱根駅伝を本気で目指すなら、この夏が勝負だ。選手たちを前にして、「俺はお前たちを箱根に出すために来たのに、覇気がないじゃないか。もう今日から見ない!」と言い放ち、チームを離れた。もちろん完全に放置していたわけではない。こっそり村上泰弘コーチに「ごめん。俺は見ないけど、ちゃんと見ててくれ」と託していた。

3日間と決めてチームを離れている間、選手たちの間には「また指導者がいなくなるのか」という危機感が生まれ、キャプテンを中心にチームが一つになっていった。中野監督にとっても賭けだった。「やるのは私じゃなくて彼らだから。彼らが決心してやっと、練習に意味が生まれるんです」。その3日間、中野監督も「俺は本気になれているのか」と自問自答をしていた。

予選会を2位通過、驚きの声に「最高だな」

決意を新たにして夏合宿に入った。選手たちは標高1800mの万座高原(群馬)で鍛えられ、さらに士別(北海道)で走り込んだ。中野監督は「彼らにとっては地獄だったと思う」と振り返る。それでも選手たちの走りや雰囲気、一人ひとりの表情を見ていて、今年の予選会は面白いレースになるという確信があった。ただ予選会を前にして、エース格の2人の調子が思わしくない。「箱根駅伝に出る」という目標であれば、無理をさせても走らせるべきだろう。しかし中野監督の中ではすでに「箱根駅伝でどう戦うか」という思いがあったため、あえて彼ら2人を走らせない選択をした。

中野監督は「これでダメだったらもう仕方ない」と腹をくくり、予選会に臨んだ。当時は20kmを12人が走り、上位10人の合計タイムで本戦出場を争っていた。帝京大の選手たちは快走を続け、15kmの時点で中野監督は「通った」と確信した。結果発表のときは選手たちのいる場所から離れ、コーヒーを飲みながらたたずんでいたという。

結果は城西大と同タイムの2位通過。帝京大の前評判は「もしかしたら予選会を通過するかもしれない」という程度。前回12位ということもあり、2位という結果は驚きを持って受け止められた。会場内に響き渡る驚きの声を「最高だな」とかみしめていた中野監督に、村上コーチからの電話が入る。「早く来てください」と言われたが、「僕はいいよ。学生たちが喜んでくれたらそれでいいじゃないか」と返した。しかし「胴上げをしないと絵的にまずいんで」と言われると、重い腰を上げた。

「胴上げをしないと絵的にまずいんで」と言われ、歓喜の輪の中へ(写真は本人提供)

中野監督にとって予選会通過は当然の結果ではあったが、プレッシャーがなかったわけではない。実はその年の夏合宿、チームの視察に訪れた帝京大の強化室長がチームのために29人乗りのマイクロバスを用意してくれていた。「これで箱根駅伝を逃したらどうしたらいいんだ……」という思いが監督にはあり、マイクロバスのことは選手たちには内緒にしていた。そして3年ぶりの箱根駅伝をつかんだ選手たちを前に「大学からプレゼントだ!」と発表。喜ぶ選手たちを見ながら、内心では「俺にとってはプレッシャーの塊だったんだぞ……」と思った。マイクロバスはいまも現役だ。

10人とも初の箱根で、いきなり8位

中野監督にとっては18年ぶりとなる08年の箱根駅伝。国士舘大で走っていた当時はテレビ中継がなかった。「学生も変わったけど、箱根を取り巻く環境が一変してて、浦島太郎状態でした」。予選会の前から本戦でどう戦うかを意識してきてはいたが、前年に関東学連選抜チームで箱根を走った馬場圭太(当時3年、長崎北陽台)を故障で欠き、選手はみな、初めての箱根駅伝となった。1月2日の往路当日。中野監督と帝京大の縁をつないでくれた一人である順天堂大の澤木啓祐特任教授からは「予選会がまぐれだったのかどうか、今日分かるな」と言われたが、「失うものはない。当たって砕けろ」と、心は決まっていた。

そんな“初陣”で帝京大は往路12位、復路5位で総合8位と、3年ぶりの本戦出場ながらシード権を手にした。中野監督はつい「これでもシードがとれるのか」と思ってしまったという。翌年は19位に大転落。「あー、これが本当だな」と思い知らされた。ときに予選会に回りながらも、13年には歴代最高に並ぶ4位となり、箱根駅伝に13年連続出場となった今年も4位に入っている。

スカウトで大事にするのは選手の目

いまでは箱根駅の常連校と呼ばれるようになった。新入生のスカウトもしやすくなったのでは? 中野監督はやや顔をしかめて「ちょっとだけ。ものすごくよくなったわけじゃない」とひとこと。高校の先生からは「帝京だとこのぐらいの記録だとダメですよね」と言われることがあるという。そのたびに中野監督は「とりあえず見させてほしい」と答えている。

「確かに記録はないよりあった方がいい。でも、それだけじゃない。高校生ですでに5000mが13分台でも、大学でどうなるかというのはありますよね。高校の指導者も見ます。指導者の方針があった上でどういう走りをしているか、というところです。あとは、選手が飢えてるかどうか。目がギラギラしてるかどうか」

長崎の離島からやってきた西村

中野監督が初めてスカウトして07年の春に入部した選手の中で、西村知修(ともなお、30)はいまも記憶に深く刻まれている一人だ。当時はまだ箱根の本戦には復帰できておらず、教員になっている先輩たちに「いい選手がいたら教えてください」とお願いして、選手を探していた。その中で長崎の離島である五島で中学校の教員をしていた宮島哲郎さんから「面白い選手がいるからいっぺん来いよ」と言われ、飛行機で向かった。

長崎には陸上の強豪、諫早高校がある。新上五島町出身の西村は五島高校で孤軍奮闘していた。1500mでインターハイに出場し、当時から5000mを13分台で走れる逸材だった。実際、複数の実業団からも声をかけられていた。中野監督は何よりも、西村のギラギラした目に魅せられた。「東京は物騒だから……」と渋る母親を説得するため、何度も五島まで足を運んだ。

五島からやってきた西村は1年生のときから活躍し、4年連続で箱根駅伝を走った。4年生のときには主将としてチームを引っ張り、4区で当時の区間記録を30秒も更新する54分34秒の快走。「一番に声をかけ、一番に返事をくれた選手。最初に区間賞をとってくれたのも彼でした」と中野監督。西村は実業団に進み、2年前に現役を退いた。西村と彼の母と、中野監督の間にはいまも交流がある。

帝京大は“日本一諦めの悪いチーム”から“世界一諦めの悪いチーム”へ(撮影・藤井みさ)

キラリと光る逸材を求めて全国に飛び、帝京大で伸ばす。高校時代は決して有名でなかった選手も、“世界一あきらめの悪いチーム”を目指す中野監督の帝京大でもまれ、全国で戦える選手になっていく。「2008年に箱根駅伝に復活したときは、何とか10人がそろうようなチームでした。でもここ最近は、あら探しして10人に絞るチームになってます。だから12月が近づくと、俺って嫌な性格だなって思ってしまうんです」。中野監督が苦笑いで言った。

今年の箱根駅伝も最後までメンバーに悩んだ。結果は4位。レースを終えた直後、中野監督は「悔しい!」と口にしたが、いまは「選手たちの成長を見てとれたことが素直にうれしかった」と振り返る。

全員がエース、みんなの力で箱根駅伝で勝ちたい 帝京大駅伝部・中野孝行監督4完

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