大学野球

連載:監督として生きる

「母校を甲子園に」と歩み始めた指導者の道 近畿大学硬式野球部・田中秀昌1

最初に高校野球の監督になってから30年目を迎えた(撮影・作田祥一)

近畿大学といえば大学球界の西の雄です。関西学生リーグで45度の優勝(旧関西六大学時代を含む)を誇り、全日本大学選手権を4度制しています。このチームを率いて7年目に入ったのが近大OBの田中秀昌(ひでまさ)監督(63)。部員の不祥事で2013年秋のリーグ戦を辞退した名門を立て直すため、14年に就任しました。最初に高校の監督になってから30年目を迎えた田中さんの監督人生を、4回の連載で振り返ります。

人情味あふれる語り口、選手時代は「三流やった」

生粋の大阪人であり、人情味あふれる語り口には人を引きつけるパワーがある。選手たちも、初めて取材の輪に加わった記者でさえも、そのテンポのいい話術に引きこまれる。田中さんは高校野球の名門である上宮(大阪)でコーチとして指導者の道を歩み始め、監督としては1993年の選抜大会で全国優勝を経験。無名だった東大阪大柏原高の監督としても2011年夏にチームを甲子園に導いている。自分自身の選手時代については「三流やったなあ。大したことなかったんやで」と笑い飛ばす。 

少年時代のあこがれはONだった(撮影・作田祥一)

小学生のころのスターは巨人の長嶋茂雄であり王貞治だった。テレビをつければプロ野球中継は巨人戦ばかり。毎日のように「三角ベース」で白球に触れていた。野球を始めたのは自然の流れで、中学生になると軟式野球部でプレーした。 

そして上宮高へ進学。「大阪の強豪とは決して言えないレベルでした」と本人は言うが、当時すでにプロの世界に進んだ選手が4人おり、名門の道を歩みつつあるときだった。ただ、浪商、明星、PL学園、大鉄、興国、北陽、近大附という大阪「私学7強」のレベルには程遠く、府内の中堅チームといったところだったという。田中さんは1年生の秋にはサードのレギュラーをつかみ、3年生になると、5番ファーストとして攻守でチームを引っ張った。春に府のベスト4まで進んだが、最後の夏は大阪大会4回戦で敗れ、甲子園は夢と消えた。 

上宮から近大へ、4回生で学生コーチに

「さらにレベルの高い野球がしたい」と門をくぐった近大野球部は、当時から1学年40人近くの部員がいる大所帯だった。激しいレギュラー争いに、何度も心が折れそうになった。3回生の秋のシーズンが終わると、首脳陣から学生コーチへの転身を打診された。ひと足早く現役を退く形にはなったが、そのころから高校野球の指導者に興味があった。 

大学時代から上宮高校の練習を手伝っていた(撮影・作田祥一)

「近大に来てみると周りに甲子園に出た選手が多くて、『自分の母校も甲子園に出られるようになったらな』と思うようになったのがきっかけです。あのころは時間があれば上宮に戻って練習の手伝いをやってました」と田中さん。当時の監督の立ち振る舞いから、高校生とどう接すればいいのかを学んだ。 

小学生のころから見続けた元木大介

ただ、79年に近大を卒業するタイミングでは、上宮から指導者の話は来なかった。上宮の練習を手伝う傍ら、上宮OBの計らいで大阪府議会議員の秘書を務めることになった。毎日夕方まで秘書として働くと、その足で上宮のグラウンドに出向き、練習のサポートに徹した。その夏の大阪大会はベスト8まで勝ち進み、秋は大阪で優勝。近畿大会ではベスト8まで勝ち上がって、翌春に初の選抜大会出場を果たした。1985年に上宮の学校職員となり、野球部のコーチに就任。その翌春に選抜大会に出てベスト8まで勝ち進んだのだが、初めて立った甲子園でノックを打ったのは、いまでも感慨深く思い出すという。 

元木が幼いころから、ずっと見てきた(撮影・朝日新聞社)

徐々に上宮の名は高校野球界に広まっていった。6回目の選抜出場となった89年は元木大介(現・巨人ヘッドコーチ)や種田仁(元・楽天コーチ)らを擁して準優勝。同じ年に初出場した夏の甲子園でもベスト8まで勝ち進んだ。有望な選手を探していた田中さんにとって、元木は小学校のころから見てきた思い入れの強い選手だった。「とにかく練習をよく見に行きました。幼いころから知ってた分、厳しく接しましたよ」。明るく、強いスター性のあった元木だが、何より光ったのは野球に対する真摯(しんし)な姿勢だったという。 

1989年の選抜大会は決勝で東邦(愛知)に逆転サヨナラ負け。手前でうずくまっているのが元木(撮影・朝日新聞社)

上宮の監督に就任、ひたむきだった黒田博樹

田中さんは91年に社会科の教諭として上宮に採用され、8月に監督に就任した。スタートしたばかりの新チームの2年生には、元木が卒業した春に入れ替わりで入学してきた黒田博樹(元・広島)がいた。 

黒田は父の一博さんが元プロ野球選手で、母は体育教師という両親の下で育った。黒田が所属したボーイズリーグのオール住之江は父が監督を務めていた。エースで4番だった黒田を見た田中さんの当時の印象は「体が細くて、厳しい練習に耐えられるかどうか」というものだった。投手としても制球力は決して高くはなかったが、練習に対してはひたむきで、まじめ。上宮では3年間授業でも接したが、授業態度はよく、ほかの先生たちからの評判も高かった。 

ただ、当時の上宮投手陣には黒田以外にも右の本格派の西浦克拓、左の溝下進崇がいた。田中さんは、この二人を中心に投げさせようと考えていた。二人は高校では野手として試合に出ていたが、ともに中学時代は投手だった姿を見ており、とくに西浦は140kmを超える直球が武器で、プロのスカウトからも注目されていた。溝下はピッチングのうまさに定評があった。「このころから『ピッチャーが1人のチームは勝てない』という風潮が徐々に広まってて、(黒田を含めた)3人で夏を勝ちたいというプランを練ってたんです」

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