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連載:監督として生きる

東大阪大柏原を夏の甲子園に導き、大粒の涙 近畿大学硬式野球部・田中秀昌3

監督として生きる
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東大阪大柏原高校の監督として前田健太を擁するPL学園に立ち向かった(撮影・作田祥一)

近畿大学野球部の田中秀昌監督(63)の監督人生を振り返る連載の3回目です。母校の上宮高校(大阪)の監督として1993年の選抜大会優勝に導き、2003年には柏原高校(当時、06年から東大阪大柏原)の監督になりました。東大阪大柏原の名が高校野球界で知られるようになったきっかけは、二つの「金星」でした。 

柏原がマエケンのPLを下し、藤浪の大阪桐蔭に勝った

一つは06年夏の大阪大会。エースで4番の前田健太(現ツインズ)がいるPL学園を準々決勝で破った。この試合、PLの先発は右の冨田康祐(元DeNA)。前田は4番センターだった。「この試合に勝てば次の相手が大阪桐蔭やったんです。自分らもナメられたもんやな、と。選手には『初回からどんどん攻めたろう』ってゲキを飛ばしました」 

思惑通り1回に1点、2回に7点を奪い、5回表の攻撃を終えて9-1と大量リードを奪った。しかしその裏、PLは前田の満塁ホームランなどで一挙5点。9-6とされたが、そのまま逃げ切った。春の選抜大会で4強まで進み、夏の大阪大会も優勝候補筆頭だったPLを相手に快勝。前田健太の春夏連続甲子園出場の夢を打ち砕いたのだ。 

2006年夏の大阪大会準々決勝で東大阪大柏原に敗れ、前田健太(右)らPL学園の選手たちはがっくり(撮影・朝日新聞社)

そして、もう一つが11年の夏、大阪大会の決勝だ。東大阪大柏原は初の甲子園出場をかけて大阪桐蔭とぶつかった。相手のエースは2年生の藤浪晋太郎(現・阪神)。東大阪大柏原の打線には石川慎吾(現・巨人)をはじめ強打者がずらり。戦力として充実していた。この試合の話になると、田中さんは「いま思うと伏線だったのかなと思うのが」と語り始めた。 

1年前の夏に、1回戦で今宮工科に(5-10で)負けたんです。これがもうショックで。自分がスカウトしてきた選手が主力で、夏の初戦で、しかも公立に負けるなんて情けなくてね。(柏原の監督として)7年目の夏だったんですけど、その試合のあとに村上(靖平)理事長に『もう、監督やめます』って言ったんです。そうしたら理事長から『私はずっと応援しますから、次の新チームで頑張ってください』って言われて。こうなったら誰でも、やってやろうって目の色が変わりますよね」 

公立に1回戦負けを食らい、より本格的に強化

夏の1回戦負けのあと、新チームで臨んだ秋の大阪大会は5回戦でPLに敗れた。冬場はプロのトレーナーを呼んで肩甲骨周りと股関節周りのトレーニングに徹底的に取り組み、バットも振り込んだ。スイングスピードの計測器も購入してバッティングを磨き、春の大阪大会5回戦では坂本誠志朗(現・阪神)のいた履正社を5-4で撃破。続く準々決勝は大阪桐蔭と対戦。8回まで3-4と1点差だったが、9回に2点を追加されて負けた。それでも藤浪からホームランも放ち、手応えはあった。 

5月、6月の練習試合の内容もすごくよかったので、夏までの流れは順調でした」と田中さん。夏の大阪大会は3回戦で近大附、準々決勝で大阪産大附を破り、準決勝では東海大仰星を11-08回コールドで下しての決勝進出だった。 

狙い通りの終盤勝負が実り、初の甲子園

そして大阪桐蔭との決勝。1回に相手の先発藤浪から1点を先取したが、3回に4点を許して逆転され、4回にも2失点で1-6と点差を広げられた。だが、その裏に1点を返し、7回にも3点を奪って1点差まで詰め寄った。これは田中さんのプラン通りだった。「藤浪君は前日の履正社戦からの連投でした。もし藤浪君が(先発で)来れば、終盤勝負に持ち込めばいけると思ったんです」 

中盤以降の代打攻勢がはまったのも大きかったが、田中さんが大事にする「初回と7、8、9回に点を取ること」が実行できたのも勝因だった。藤浪が7回途中で降板し、最後は6-6から押し出しの死球で試合が決した。ゲームセットの直後、校歌を聞きながら田中さんはベンチ前で大粒の涙をこぼした。 

田中監督に率いられ、2011年夏に初の甲子園出場を決めた東大阪大柏原の選手たち(撮影・朝日新聞社)

「あの試合までの8年間は、ほんとにいろんなことがあったんでね。誰にも言えないようなことも含めて……。それが走馬灯のように頭の中を駆け回ってました」 

監督就任8年目で実現した甲子園出場の悲願。田中さんは、この初出場の持つ意味は大きかったと感じている。「大阪桐蔭や履正社と比べたら、自分たちはワンランク力が下でした。でも、こういうことが起きるのも野球。ほかのライバル校にとっても勇気づけられる勝利だったんじゃないかなと、いまでも思いますね。数年前に大阪偕星(学園)も出ましたけど、あの2校以外が甲子園に出ることが大阪のレベルアップにつながる。そう思ってます」 

夏春連続の甲子園出場を逃した選手たちの闘争心に、物足りなさを感じていた(撮影・作田祥一)

甲子園で2試合を経験し、2年生エースの福山純平が残った新チームは秋の大阪大会で準優勝した。だが近畿大会の初戦で敗れ、選抜大会の出場は絶望的となった。夏春連続の甲子園出場が絶たれ、悔しさの中にいた田中さんはある案を思いついた。 

「翌年の練習始めの1月3日に(夏の大阪大会の開会式の会場である)京セラドームに集合して、甲子園球場まで歩きました。夏の大阪大会から始まって、甲子園に行くんだという意味を込めて。ただ、この日の京セラドームは「嵐」のコンサートがあって、結構な人がいましたけど……()。もちろん道はもちろん2回下調べをして、危険なところがないかチェックもしました。午後1時ぐらいから3時間ほどかけて歩いて、最後は甲子園の裏にある素盞嗚(すさのお)神社でお参りをして、選手全員が絵馬を書きました。秋の戦いを見ても闘争心が足りなかったし、もっと燃えるものを持ってほしかったんです」 

本気で目指した甲子園の連続出場

田中さんの中には新たなプランがあった。東大阪大柏原で甲子園初出場を果たし、1勝して一つの歴史を作った。だが、1度の甲子園出場だけでは世間には響かない。「甲子園にもう一回いかないと周りから認めてもらえないし、中学生には印象も残らないでしょう。だから続けて2年、3年と本気で甲子園を目指してました」 

意を決し、再び情熱を注ぎながらチームを鍛え上げていた13年の秋。思いもよらぬ話が舞い込んできた。母校の近大から、監督就任の打診があった。部員の不祥事で榎本保監督が辞任。近大は後任を探していたのだ。

いよいよ母校近大から監督就任の声がかかった(撮影・作田祥一)

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