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連載:監督として生きる

Vリーグと大学バレーの指導者、前例なき挑戦へ 大商大・酒井大祐監督1

酒井さんはこの春、サントリーサンバーズのコーチもした上で、新たに大阪商業大の監督として指導を始めた(写真提供・サントリーサンバーズ)

4月1日、サントリーサンバーズの酒井大祐コーチ(38)が大阪商業大学男子バレーボール部監督に就任しました。Vリーグでの指導を継続した上で大学でも指導するという、日本のバレー界では初のケースとなります。連載「監督として生きる」ではそんな酒井さんの東海大時代を含め、4回の連載で紹介します。初回は東海大に進み、新たにリベロという道を選んだときの話です。

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「誰かがやらないと次にはつながらない」

コートでは、しんがり。一番後ろから全員の動きを見渡し、ブロッカーやレシーバーと連係を取り、スパイカーが打つ際は大きな声で相手ブロックの枚数、空いた場所を叫ぶ。初めてバレーを見た人が決まって「どうしてあの人だけユニフォームが違うの?」と疑問を抱く、守備に特化したポジション、リベロとして活躍。一番後ろから、声とプレーで仲間の背を押す。現役時代の酒井さんはまさにそんな表現がピタリとハマる、チームを支える大黒柱と言うべき存在だった。

ただし、後ろばかりにいるわけではない。バレーにおいては挑戦を恐れず前へ。新たな道を拓く、先駆者でもある。いまでこそ珍しくないが、現役時代、Vリーグではまだ圧倒的に少なかったプロ選手として、まさに「バレーボールで生きる」道を貫いてきた一人だ。そして指導者として2年が過ぎた今年、また新たな挑戦に踏み出した。それが大商大バレー部への監督就任だ。

「海外の指導者は、代表チームの監督をしながらヨーロッパ各国でクラブチームの監督をするのが当たり前です。でも、日本では基本的にそんな考えがまず生まれない。確かに企業が母体なので、いままではなかった発想かもしれませんが、個人的にはそういう道もありじゃないか、と思ったんです。誰かがやらないと次にはつながらない。そう思っていた中で、OBでもない僕に『大商大で指導をしないか』とお話をいただけたことはありがたく、これまでやってきたこと、いま学んでいることが生かせるんじゃないかと思い、挑戦しようと決めました」

リベロ導入初期、ビブスを着て試合へ

大商大監督就任に至る経緯へ触れる前に、まずは酒井さんのルーツへさかのぼる。1981年、福島県原町市(現・南相馬市)生まれの酒井さんがバレーを始めたのは小学2年生から。バレーが盛んな土地で厳しい練習を重ね、中学のころから全国大会を経験。福島代表として全国大会にも数多く出場する相馬高校に入学後もレギュラーとして活躍した。2000年、東海大へ進むとリベロに転向した。

自らサーブを打ち、レシーブもして、ブロック、スパイクで得点をとる他のポジションと異なり、リベロはサーブを打つこともできず、直接得点をとることはできない。リベロが国際ルールとして採用されたのは1998年のこと。いまでこそ、他のポジションと異なるユニフォームを着るのが当たり前だが、酒井さんが東海大でリベロに転向したころはまだ、ユニフォームの上からビブスを着てプレーするのが常だった。

入学すぐにレギュラー入り、責任を感じた

現在の大学生ならば、バレーを始めたころからリベロはポジションとして採用されていて、レシーブが得意な選手は自ら進んでリベロになることも珍しくはない。だが、リベロが導入されたばかりのころはどうか。多くの選手がスパイカーやセッターから転向し、それまでの「守備も得意なスパイカー」ではなく、「守備専門」として役割を果たさなければならない難しさに直面する。例にもれず、酒井さんも転向当初は「葛藤があった」と振り返るが、言葉とは裏腹に大学入学間もなく、レギュラーの座をつかんだ。

酒井さんが東海大の学生だった当時、リベロはビブスを着て試合に出ていた(ビブスを着ているのが酒井さん、写真は本人提供)

試合に出る機会がなかなかない選手からすれば、1年生から試合に出られるなんてうらやましいと思うだろう。だが実際はどうか。試合に出る喜びがある一方で、試合に出るからこそ味わう苦しさもあった。酒井さんはそう言う。

「まず、同級生に申し訳ない気持ちになるんです。入ったばかりの1年生のころは、練習の準備や片づけ、試合時の準備。数えきれないほどの仕事があるんですが、試合に出る選手はそれも多少免除されます。そうなると、自然に他の同級生がやらなければならない負担が増えるし、ときには先輩にもお願いしないといけない。それだけでも申し訳ないのに、なおかつ試合でヘマなことをしていたら、出ていない上級生からしたら『そんなプレーをするなら代われよ』と思いますよね。後になって振り返れば、そうやって試合に出る責任が生まれていくんです。同級生がスタンドで応援してくれ、自主練習に付き合ってボールを拾ってくれ、床を拭いてくれるから、自分はプレーができる。何とか応えないといけないと思っていたし、何より、申し訳ない、やらなきゃいけない、と必死でした」

小学校や中学校、高校とは違い、全国から選手が集う大学という環境。酒井さんにとって東海大での4年間は、プロバレーボール選手、そして指導者になったいまへとつながる、色濃い時間であったのは間違いない。

先生の存在の大きさ、脈々と続く東海大の伝統 大商大・酒井大祐監督2

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