代表候補落選でプロを決意、勝つために自分にも厳しく 大商大・酒井大祐監督3
4月1日、サントリーサンバーズの酒井大祐コーチ(38)が大阪商業大学男子バレーボール部監督に就任しました。Vリーグでの指導を継続した上で大学でも指導するという、日本のバレー界では初のケースとなります。連載「監督として生きる」ではそんな酒井さんの東海大時代を含め、4回の連載で紹介します。3回目はプロバレー選手として戦った日々についてです。
勝つため、強くなるため その言動がチームと衝突
東海大入学の際は、「卒業したら教員になりたい」と思っていた。だがリベロに転向し、レギュラーとして試合出場を重ねる内に、「もっとバレーボールを極めたい」と考えるのは自然な流れだった。
なかなか進路が決まらず、一時は就職活動をし、やはり故郷の福島に戻って教員になろうか、と迷うこともあった。だが広島県をホームとするVリーグのJTサンダーズ(現・JTサンダーズ広島)から声がかかり、バレー選手としての生活をスタート。当初はJTサンダーズの親会社であるJTの社員として入社し、バレーボール部に所属したが、3年目の2006年に退社し、プロ契約を結ぶ。安定した環境で満足するのではなく、一人のバレー選手として世界を視野にレベルアップを遂げるためには退路を断たねばならない、と考えた末の決断だ。入社直後の1年目から日本代表候補に選出されながらもアテネオリンピックの最終予選に出場は叶(かな)わず、翌05年にはユニバーシアード日本代表に選出されたが、06年の日本代表候補からは落選。そんな苦い経験が大きな転機となった。
企業に属する実業団選手ならば、極論を言えば選手を引退しても会社に戻り、営業や製造業などバレーから離れるとはいえ、安定した仕事と収入が得られる。だが、プロになれば日々の生活や試合など、バレー選手としての生活に困らなくとも、大きなけがや会社の経営悪化といった要素に留まらず、現場やフロントスタッフが代わりチームの強化方針から外れることがあれば、容赦なく切られる。ならば、勝つために誰よりも貪欲(どんよく)に。練習中も試合中も嫌われることを恐れず、それが勝つため、強くなるためなら、と言動で示す。「とにかくガツガツしていた」と酒井さんは振り返る。
「いま振り返ると、とくに若いヤツらに対して『自分はやっているんだから』という上から目線だったと思います。周りのために言っているつもりだけれど、言い方もとげとげしかったと思うし、周りのためと言いながら人のせいにしていたと思うんです。当然そんなヤツについてこないですよね。チームの状態も良くないから勝てないし、負けるからまた雰囲気も悪くなる。実際、後輩から『みんながみんな、酒井さんみたいにやるわけじゃないし、そういうところがウザいってみんな思っています』と直接言われたこともあって。当然、何だコイツ、って思ったし、一生しゃべらないとか思いましたよ(笑)。でも、そんな風に感じさせることしかできないならやめようか、自分がここにいない方がいいんじゃないか、と思ったこともありました」
8チーム中7位になり、下部リーグの上位チームとの入れ替え戦に臨み、あわや負けるのでは、とまで追い込まれたこともある。だが、どん底まで落ちたら後は上がるだけ、とばかりに監督を海外から招聘(しょうへい)するなどチーム強化に着手した結果、JTサンダーズは15年に創部84年で初優勝を遂げた。
新チームでも周りにも厳しく、その何倍も自分に厳しく
ようやく果たせた悲願。最高の喜びを得られた一方、勝負の世界の厳しさも知る。優勝を置き土産に、JTは酒井さんとの契約満了を発表。次年度の方針や、監督が描くチーム構想。そもそもプロである以上、1年1年が勝負の世界である以上、仕方がない。とはいえ「なぜ」という思いも拭いきれずにいた酒井さんに手を差し伸べたのが、サントリーサンバーズだった。
新たなチームでもやるべきことは同じ。「勝つためならば嫌われてもいい。できることは何でもやった」と振り返るように、周りにも厳しく、そしてその何倍も自分に厳しく取り組んできた。
年々、サーブ戦術に重きを置くバレーの世界では、外国人選手に象徴されるように、目にもとまらぬ速さでズシリと重いパワーサーブが主体だ。さらに相手のウィークポイントを狙った戦術サーブで、より優位な状況をつくろうとするのが当たり前となっている。サーブで崩し、点を取ることが狙いである以上、負けないためにはいかにサーブで崩されず踏ん張れるか。また、サーブレシーブもしてスパイクも打つ、そんなアウトサイドヒッターの選手が狙われる状況をカバーするために、どれだけ守備範囲を広げられるか。
自分がレシーブをするときは、次の攻撃につなげやすいボールを返球するのは大前提だ。自分本位なプレーをするだけではなく、周りをカバーし、人を動かす。リベロが担う役割は大きく、その一つひとつを例え派手でなくとも着実にこなす。それが酒井さんの持ち味であり、最大の武器でもあった。
夢につながる五輪最終予選、そして迎えた現役最後
サントリーサンバーズでも出場機会を重ね、16年には日本代表としてリオデジャネイロオリンピック最終予選にも出場した。サントリーサンバーズに移籍した当初から、次は選手としてではなく指導者として新たな進路を視野に入れてはいたが、できる限り現役選手でありたいという思いはあった。
06年にプロ選手として新たなスタートを切ったときから、夢に描いたオリンピック出場。最終予選は2勝5敗で8チーム中7位に終わり、オリンピック出場を逃した。夢には届かなかったが、選手として自らプレーすることで周りに何か与えられることがあるなら。その後も戦う体と心、そして技を磨き、プロバレー選手として鍛錬を重ねた。普段食べるものの一つひとつも「これはドーピングにかかっていないか」と、常に気遣っていた。そして18年5月、黒鷲旗全日本男女選抜大会を最後に、現役生活に幕を閉じ、コーチとしての道を選んだ。
選手とコーチ。同じバレーの現場にいながら、見る景色は違う。選手から指導者へと転身するOB、OGの多くが「教えて、やらせるよりも、自分でやった方がどれだけ楽か思い知った」と口を揃えるように、コーチとして新たなスタートを切った酒井さんも「最初は何が正解かも、何をしたらいいのかもまったく分からなかった」と振り返る。
多くの人に会って話を聞き、その都度学ぶ。転機とはそんなときに訪れるもので、教えることの楽しさをより強く実感し始めた酒井さんが「大商大で監督をしないか」と打診されたのは、まさにコーチとして3年目を迎えようとしていたころだった。