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連載:監督として生きる

問題だらけの無名校で目指した「全国制覇」 近畿大学硬式野球部・田中秀昌2

上宮高校時代の黒田博樹について熱っぽく語る田中さん(撮影・作田祥一)

近畿大学野球部の田中秀昌監督(63)の監督人生を振り返る連載の2回目です。田中さんの指導者としてのキャリアは、母校の上宮高校(大阪)で始まりました。34歳だった19918月に野球部の監督に就任。このときの2年生ピッチャーに、のちにヤンキースでも投げることになる黒田博樹(元・広島)がいました。

 努力できる才能のあった黒田博樹

黒田の立場は右の本格派の西浦克拓、左の溝下進崇に次ぐ3番手の投手だった。当時の上宮にはのちに明治大に進んで中日に入団した主将の筒井壮(現・阪神コーチ)もいて、能力の高い選手が多かった。田中さんの構想は徐々に形になっていき、秋の大阪を制すと、近畿大会でも準優勝。翌年春の選抜大会出場が確実視されたが、前監督時代の不祥事で選抜出場の推薦辞退に追い込まれた。 

黒田たちの最後の夏は、大阪大会5回戦で敗れた。最後まで背番号1をつけることはなかったが、黒田はコツコツと地道に努力し続けた。「3番手という立ち位置も理解して、自己評価をちゃんとやってました。努力できるという才能があったし、常に野球に対して真摯(しんし)な態度でしたね。ただ、高校の時点では同級生も含めて誰も黒田がプロにいくとは思っていなかったんじゃないですかね」と、田中さんは振り返る。 

黒田は日本のプロ野球とメジャーリーグで通算203勝を挙げた(撮影・朝日新聞社)

黒田は当初、関西の大学に進むことを考えていた。だが、両親の「親元から離したい」という要望があって関東の大学へ進学先を変え、専修大へ。帰省するたびにボールが速くなっていき、徐々に注目度が高くなっても、黒田博樹という人間はまったく変わらなかった。田中さんは言う。「黒田は何より人への恩や心を大事にするんです。そういう考え方は、厳しいお母さんの下で育てられて、培われたものなんだと思います」 

2005年に黒田がセ・リーグの最多勝に輝いたとき、高校時代の恩師として田中さんが広島のテレビ局からインタビュー取材を受けたことがあった。その際に広島のテレビクルーから、黒田がマスコミを大事にしているという話を聞いた。「アイツはお世話になった人や、無名のときから支えてくれた人を大切にする。どれだけ有名になっても、そういう姿勢は変わらないですね」 

1993年春の選抜大会で、田中監督の率いる上宮は初の全国制覇を果たした(撮影・朝日新聞社)

上宮で選抜V、請われて東大阪大柏原へ

そしてついに1993年の選抜大会で、田中監督の率いる上宮が初の全国制覇を果たした。母校で大きな功績を刻んだあと、田中さんに思いもよらない話が飛び込んでくる。上宮の監督を勇退したあと、近大OBで、柏原高(当時、2006年から東大阪大柏原高)を運営する学校法人村上学園の村上靖平理事長からこんな言葉をかけられたのだ。「ウチを甲子園に連れていってほしい」と。 

柏原は決して評判のいい学校ではなかったし、野球でも無名だった。それでも田中さんは腹をくくって引き受けた。就任してみると、あまりの意識の低さに愕然(がくぜん)とした。「練習態度も含めて、すべてがひどかったですね(苦笑)。ただ、能力的にまったく力がないという雰囲気ではなかったです。とにかくピッチャーを中心に守りをしっかりしないと勝てない。まず、そこから手をつけていこうと思いました」 

03年4月から柏原のコーチとなり、8月から監督となった。コーチを務めている間は中学生の視察にも行った。上宮時代の田中さんの実績が決め手になり、有望な中学生がごっそりと入ってくるようになった。 

柏原高校の監督になってからの数年は、グラウンド外でも苦悩の日々だった(撮影・作田祥一)

グラウンドでは夏の甲子園の大会歌である『栄冠は君に輝く』を流し、監督就任2年目にはグラウンドに「目指せ全国制覇」「闘志なき者は去れ」という横断幕を掲げた。「本当は『目指せ甲子園』なんですけど、そんな悠長なことを言ってたら大阪から甲子園には出られない。周りからは『何言うてるんや』って言われましたよ。そりゃそうですわ。でも、それくらいの意識を持ってやっていってほしかったんです」

絶えぬ不祥事、繰り返した選手との対話

ただ、尽きなかったのはチーム内のいざこざだった。 

「不祥事が常について回って……。何かあるたびに報告するため、最初の5年間は府の高野連によく足を運んでました」と田中さん。上宮時代にはなかった類いのトラブルが起こるのは日常茶飯事で、グラウンド内だけでなく、外にも目を凝らさないといけない日々。「ほとんどが対外試合禁止まではいかずに警告や謹慎で済みましたけど、あり得ないことが毎日起こってました」。何かあれば衝突し、トラブル、そして問題が起きる。頭を抱える事例も多かったが、それでも田中さんは選手との対話を繰り返した。 

「自分で決心してここで監督をしているわけだし、理事長と『甲子園にいく』という約束をした以上、引き下がれなかった」。指導に手を焼きながらも、自身が選んだ道を信じ、ひたすら前だけを見つめていた。 

今年のドラフト候補である佐藤輝明にアドバイスする田中さん(撮影・作田祥一)

田中さんのプランでは、甲子園にいくのに9年はかかると思っていた。上宮でも恩師の山上烈氏が監督に就任してから甲子園出場まで9年かかっていたからだ。「激戦の大阪ではそんなにすんなりと甲子園には出られない。ただ、9年のスパンで何とかできると思いました。3年ごとに「ホップ」「ステップ」「ジャンプ」という感じでね。9年で甲子園にいけなかったら自分が無能。いけなかった時点で辞表を出すつもりでした」 

監督に就任して初めての公式戦だった03年秋の府大会でいきなりベスト4まで勝ち進んだ。当時の大阪には大阪桐蔭、履正社に加え、PL学園も君臨していた。3位決定戦で大阪桐蔭に敗れて近畿大会出場は逃したが、この当時の「私学3強」を脅かす存在になっていった。

監督として生きる

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