陸上・駅伝

連載:監督として生きる

自分とは違い、優勝できる選手になってほしい 帝京大駅伝部・中野孝行監督1

箱根駅伝を走りたい。中野監督はその思いを胸に、北海道から東京にやってきた(写真は本人提供)

帝京大は今年の箱根駅伝で、過去最高の順位に並ぶ4位という好結果を残しました。いまでは箱根駅伝の常連校となりましたが、駅伝競走部の中野孝行監督(56)は「でも、ウチは“5強”には入ってないんですよね」と言います。「ものすごく負けず嫌いだから、強いものには牙をむきたい。だから5強の一角、二角、三角、四角を崩して“互角”の戦いをしたいんですよ」とニヤリ。「帝京を箱根に戻してほしい」との要望を受け、2005年11月に監督就任。08年から13年連続で箱根駅伝に出ています。中野さんの歩んだ道を4回の連載で紹介します。1回目は選手時代についてです。

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農家の三男坊が箱根にあこがれて

北海道で生まれ育った中野さんにとって、陸上競技は可能性を広げてくれるものだったという。小学生のころは柔道やソフトボール、野球とさまざまなスポーツをやっていた。地域のロードレースで優勝したのをきっかけに、長距離走への興味が高まり、陸上にのめり込んでいった。中学、高校時代は地区ナンバーワンの長距離ランナーとして活躍。道立白糠(しらぬか)高校2年生のとき、愛媛でのインターハイに出るために初めて飛行機に乗った。そのときに見た松山城が人生で初めて出会った城であり、その記憶は城好きの中野さんの脳裏に強く刻まれている。

高校時代に国体にも出場し、同年代では北海道を代表する選手になれたという思いが、中野さん自身にもあった。そのころに驚かされたのが、同学年で成田高校(千葉)の増田明美さんの走りだったという。当時の増田さんは長距離の複数の種目で日本記録を更新し、その強さから「女・瀬古」と呼ばれていた。増田さんのタイムは中野さんのベストとたった10秒しか違わなかった。「こんなに強い女子がいるものなのか」と、陸上の世界の厳しさを思い知らされた。

中野さんは北の大地を離れて国士舘大に進んだが、その道は平坦(へいたん)なものではなかった。農家に生まれた4人きょうだいの三男坊。長男は家業を継ぐために農業高校に行き、次男は高卒で防衛庁(現・防衛省)に入った。

函館であった国体予選を、当時の国士舘大の監督だった西山一行さんが見に来ていた。西山さんは中野さんに「君は駅伝に向いている」と言ってくれた。これで中野さんに箱根駅伝への思いが芽生えた。箱根駅伝がテレビ放送される前の時代。中野さんもラジオで聞いていた程度で、「関東の大学じゃないと箱根駅伝に出られないんだ」と、そのときに知ったという。

高3のときには北海道代表として国体にも出場した(写真は本人提供)

もともと中野さんには、将来は学校の先生になるという思いがあった。だから教育学部のある大学を考えていた。しかし、上の2人が高卒で就職しているのに、「進学したい」とは言いづらい。関東の大学ならなおさらだ。実際、父親も中野さんは就職するものだと思っていたという。奨学金をフル活用するのを条件に、何とか両親を説得して国士舘大への進学を決めた。

5、6年前のこと、中野さんは親戚の人たちと当時のことを話す機会があった。叔父から「長男があの親父(おやじ)に『あいつは大学にいかせてやってほしい』って頼んだんだよ」と聞かされ、「自分一人で生きてるんじゃないんだな」と、胸が熱くなった。

1年生で初箱根、試走なしでも区間8位

いろんな思いを胸に、1982年の春に東京での新生活が始まった。勉強に陸上にと多忙な毎日だった。何より道内有数のランナーだった自分が、国士舘大の同期10人で10番目の走力しかないという現実がショックだった。そこから中野さんの負けず嫌いに火がつき、箱根駅伝を目指してコツコツと距離を踏んでいく。結局、4年連続で箱根路を駆けた。

1年生のとき、中野さんは4区を走る前提で試走を重ねていたが、ほかの選手の調子から考えて、自分はメンバーには選ばれないだろうと思っていた。それが直前に故障者が出て、当日変更で10区を走ることになった。マネージャーに「先輩! (10区の)コースの下見、してませんよ」と伝えたが、「西山監督には絶対言うなよ」とこっそり言われ、腹をくくった。一斉スタートだったため、道を間違えることはなく、その集団の中で3番目を走れたことが自信につながった。ルーキーの区間8位の活躍に「来年は2区だからな」と西山監督。そこからは“花の2区”を意識して練習を積んだ。

初めての箱根駅伝は当日変更でアンカーを任された。実は試走すらしていなかった(写真は本人提供)

試走もしっかりして迎えた2度目の箱根駅伝、走り始めて1kmのところで背中がブルッとした。悪寒にも似た感覚に「体調が悪いのかな」と思ったという。区間16位とブレーキになってしまい、3度目の箱根駅伝でもエース区間の2区を希望したが、4区に回された。「次は絶対に2区を走る」と奮起し、区間3位の快走。最後の箱根駅伝では再び2区を託された。

最後の箱根路、恩師から最初で最後の檄を受け

すべてを出しきると決意し、鶴見中継所を飛び出した直後、また背中にあの感覚が走った。しっかり準備し、万全を期して臨んだ最後の箱根駅伝だ。「これは体調不良なんかじゃない」と確信したが、あれよあれよと抜かされて、2位だったのが8位に。ラスト1km。前のランナーが見えてはいたが、なかなかその背中をとらえられない。

そのとき、西山監督から「中野、抜かれてばっかりじゃ困るぞ」と檄(げき)が飛んだ。それまで西山監督に怒られたことはなかった。その瞬間、中野さんの胸に最後の日本インカレの悔しさがよぎったという。優勝候補で臨んだ30kmで、中野さんはトップから10秒差、6位とは1秒差の7位だった。そのレース後、西山監督は「やっと走れるようになったと思ったら、もう卒業か」とぽつり。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。最後の箱根駅伝のラスト1kmは、西山監督の期待に応える最後のチャンス。「絶対抜いてやる!」という強い思いで走り、一人を抜いて襷(たすき)をつないだ。

選手たちに勝ち方を教えてあげたい

いまも、あのブルッという感覚の正体が分からない。「2区を走った選手に『どうだった?』って聞くんですけど、今年走った星(岳、3年、明成)なんかも『普通に走りました』っていう程度で……。あれは武者震いとも違うんですよね」。中野監督は「僕にもありました!」と言ってくれる選手を心待ちにしている。

4年生の箱根で2区の区間賞に輝いたのが、駒澤大の大八木弘明さん(現監督、61)だ。いちど就職してから駒澤大に進んだ大八木監督は、中野監督の1学年下にあたる。「もちろん大八木さんが年上ですよ。でもフランクに話してるときなんかはたまに『大八木さん、1学年下だからね(笑)』なんて言うこともあります。大八木さんをイジれる人はなかなかいないんで、空気を読んで、私が責任をもってやってます」。中野監督が笑いながら教えてくれた。

選手として優勝できなかった悔しさが、長く監督を続ける原動力になっている(撮影・佐伯航平)

最後の箱根駅伝は総合9位で、国士舘大として10年ぶりのシード権を手にした。大学時代を振り返ると、やりきったという思いはある。高校時代には全国ランキングで100位にも入れなかったが、大学では上位8人に入った。それでも箱根駅伝も含め、大学に進んでからはいちども優勝していない。「それが、いまだにこれ(監督)をやってる理由なのかな。私みたいな選手になってほしくないから、勝ち方を教えてあげたい。勝つためには武器を持たないといけないし、その準備をしないといけない」

体育の教員免許を取得し、国士舘大を卒業。雪印乳業で10年間走り、実業団で指導者の道を歩み出す。しかしバブル景気が終焉(しゅうえん)を迎え、中野さんの人生も荒波にのまれることになる。

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