麗澤大学・難波天 無名の高校時代から箱根駅伝を走り、さらに上のステージへ
今年の箱根駅伝の1区を、関東学生連合チームのメンバーとして走った麗澤大学の難波天(たかし、4年、三国)。大学時代どんな4年間を過ごし、そして次のステップに向かうのか。卒業を前にこれまでを振り返ってもらった。
思いがけなかった大学からの声かけ
福井県坂井市出身の難波は、中学校まではサッカーをしていた。「でもサッカーは下手くそだったので、高校に入ったらやめようかなって。帰宅部になろうと思ってたんです」。三国高校に進み、中学の時に仲良かった友達が一緒にやらない? と誘ってくれたのが陸上だった。短い距離を全力で走るのも、跳んだり投げたりもできなさそう。ということで消去法で選んだのが長距離だった。「入部間もないころの練習メニューに40分ジョグがあったんですが、肺が潰れるぐらいキツかったです(笑)」と笑って思い返す難波。だが不思議と「やめよう」と思ったことはなかったという。練習すればしただけ記録が伸びていくのが面白くも感じていた。
高校3年の5月にあった春季高校総体、3000mSCは9分45秒34で優勝。5000mを16分00秒00の9位で走ったあとに、大会を見に来ていた麗澤大学の山川達也監督に声をかけられた。山川監督も福井の出身だ。大学から声がかかるとは思ってもいなかった難波は、「ただただ嬉しかった」と振り返るが、母子家庭、さらには双子ということもあり県外に出ての進学は難しいとも思っていたし、この先陸上を続けようとはその段階では考えていなかった。
気持ちが変わったのは、3週間後にあった北信越高校総体のときだ。福井県でトップになった3000mSCでインターハイに出たいと思い、6位入賞を目指して臨んだものの組10位で予選敗退。悔しさを感じながら「陸上はこれで終わりか」と思っているときに山川監督とばったり会い、スタンドで3000mSCの決勝を2人で観戦した。「今決勝を走っている選手は、箱根駅伝を目指して関東の大学で陸上を続けるよ。このまま負けたままでいいの?」。そう諭すように話してくれた。「箱根駅伝に出たいとかではなかったんですけど、もうちょっと陸上を続けて、負けた選手たちに勝ちたいなって思ったんです」
とはいえ家の事情で、双子のうち大学進学は1人しかできないだろう。その上、県外に進学するとなると……と、母は反対した。「自分が陸上をやりたいからといって、弟を我慢させるのはどうなのか?」とも言われた。最終的には山川監督がお母さんに話してくれ、そして弟の翔(かける)さんが進学を譲ってくれて、難波は麗澤大学に進学することになった。
いきなりの故障で焦り、徐々に出始めた結果
はじめて親元を離れての生活。寮では先輩と同部屋となり、まずそのことにも驚いた。「朝練もしたことなくて、まず朝起きる時間が早いし、夜寝る時間は決まっているし……最初は洗濯物を干すだけで『帰りたい』と思ってました」と笑う。2月に仮入寮してから、生活に慣れるまでは半年ぐらいかかった。いままで1日1回だった練習が2回になり、「頑張ろう」という気持ちのあまりオーバーワークとなり、4月には故障してしまった。1つ上には国川恭朗(現・SUBARU)がおり、2年生にしてすでに主力。福井にいた頃とは比べ物にならないぐらい強い選手ばかりが周りにいる環境で、「走りに来てるのに走れなくて、何しに来てるんだろうって」と焦りがつのった。
大学デビュー戦となったのは7月の世田谷記録会。それまでの自己ベストは15分03秒81だった難波は、チームメートから「16分かかるなよ!」と笑って送り出された。ここで14分48秒の自己ベストを出し、生まれてはじめての14分台に嬉しさがつのった。ちなみに大学に入学してから3000mSCは一度も走っていない。「監督に向いてないよって言われました」と笑う難波。高校の時は3000mSCが得意だと考え、メイン種目にしてきたが、監督の言うことを素直にとらえて長距離でのタイムを伸ばすことに取り組んだ。
7月に入ると初めて30km走を経験。しかし、25kmを過ぎてから目の前がクラクラし、先輩や同期に「たれてんじゃねえぞ!」「つけよ!」などと声をかけられ、背中を押されながらなんとかゴールした。もちろんチームメートの声がけは難波を励ますためのものなのだが、この時の彼にとっては距離走は怖いものとなってしまった。夏合宿でもたびたび距離走で遅れ、故障者がメインのBチームに落とされたことがあった。そこで4年生の先輩と2人だけで30kmを走ったとき、砂利道の悪路だったにもかかわらずなぜか走れてしまい、それ以来距離走への苦手意識を克服できた。
予選会15位で箱根出場が「目標」に
難波が入学する前年、麗澤大学は箱根駅伝予選会で22位。「正直なところ、『箱根駅伝出場を目指す』と大きな声で言えるチームではなかったと思う」と振り返る。難波自身も、箱根駅伝に出たいというよりは、予選会のメンバーに入って自分の結果を残したいという「ある意味自己満の目標だったと思います」。距離走も走れるようになった難波は、予選会メンバーの補欠になった。結局この年は走ることはなかったが、チームは15位となり、初めて結果発表のボード上に名前が載った。「横にいたのが同期の竹内(奨真、岡崎城西)だったんですが、ハイタッチしました(笑)。出られなかった大学で、麗澤大学だけが喜んでました(笑)」
予選会15位の結果は、チームを変えた。それまで「(箱根に)出場しよう」とは言っていたが、どこか「言っているだけ」という雰囲気もあったが、全員が本気で箱根駅伝出場を狙おう! という雰囲気が高まってきた。難波も「来年は自分が走って決めるんだ! と妄想を膨らませていました」と振り返る。
2年次の難波は予選会まで1度も故障がなく、順調に練習を積めた。秋のトラックレースでも主力と同じぐらいのタイムを出せるまでにも成長していた。しかし夏の距離走は、克服したとはいえ相変わらず弱い。一度集団から離れてしまうとトラウマがよみがえり、うまく走れないでいた。9月に入ってから予選会に向けてポイント練習が始まると、自然と調子は上がった。「ペースの速い練習はできるんです。実践向けの練習は得意というか」。手応えをある程度持って10月を迎えた。
しかし難波は、予選会のメンバーには選ばれなかった。14人のうち、9人までを監督が決めた。残りの5人をどうするか、となり、選手同士で話し合って決めることとなった。最終候補の7人の中に入った難波。学年ごとにいいと思った選手に投票して決めることになったが、難波は1票も入れてもらえなかった。
「すごい悔しかったです。思わず手をあげて、『選ばれなかった理由を教えてください』と言ったんです。そうしたら、距離に不安がある、好不調の波が激しい、熱さに弱かったり天候に左右されやすい、と3つの弱点を言われました」。メンバー決めのあとは部屋に戻って一人で泣いた。そこに当時キャプテンの西澤健太(八千代松陰)、副キャプテンの吉鶴実(鶴翔)、主務の小西凌(滋賀学園)が来て慰めてくれた。「メンバー外の選手にも気をつかってくれて、本当に助かったという気持ちでした」。その年の2018年、麗澤大学は箱根駅伝予選会で12位、出場には次点だった。走った選手たちは特に悔しい顔をして泣いていた。だが難波は素直に悔しがれなかった。それがまた、悔しかった。
悔しさから弱点を克服、3年目で初の予選会出走
距離への不安、好不調の波、天候に左右されやすい。3つの弱点を克服しようという気持ちで難波は練習に取り組んだ。5000m、10000mの自己ベストも伸び、年が明けて2月の神奈川ハーフマラソンでは1時間05分04秒で学生12位となった。青山学院大学の選手にも先着し、力がついてきていることを実感できた。
しかしハーフマラソン後の帰省を経て大学に戻った際に、右の臀部(でんぶ)を故障。それまで入学当時以来けががなかったので、そこまでケアに力を入れていなかったのが引き金となってしまった。治りかけて復帰するときに焦ってしまい、今度は右の膝を痛める。さらに治りかけたときに今度は左の臀部を痛める……といった調子で、7月頭までほとんど通常の練習ができなかった。夏合宿でも距離を減らしてもらったりと、予選会をギリギリ走れるように合わせていった状態だった、と難波は振り返る。
3年生にして初めて予選会を走ることになった難波。独特の空気感に、緊張とワクワクが入り混じった。後半ラスト5kmであげていく想定だったが、気温25度に迫る季節外れの暑さもあり、最終的にはタイムを落としてしまった。想定していたレースではなかったと言いながらも、全体の107位、チームでは10人中7位。自分にしてはよくやったと言えるレースだった。
しかしチームはまたも次点の11位で、箱根駅伝出場を逃すことになった。しかも10位の中央大学とはわずか26秒という僅差。「悔しかったです。僕が夏もっとしっかり練習を積めてたら、26秒は埋まってたんじゃないかと思って。それから、国川さんがエースとしてタイムを稼ぐ役割だったんですが、緊張していたし、1人に背負わせてしまったなと思いました。暑さもあって後半にかけて失速してしまったのもあります」
ラストイヤーの予選会は会心の走りも……
ラストシーズンこそは。そう思って臨んでいたが、2月末の福岡クロカンのあとに難波はまたも左の臀部を故障してしまった。走り始められたのは5月ごろ。新型コロナウイルスの影響で試合が中止になったタイミングではあったが、チーム内の他の選手と比べても走れていないことに焦りがあった。
2年連続予選会次点となった麗澤大学は、メディアからの注目も年々大きくなってきた。その中、今シーズンは同期の杉保滉太(4年、浜北西)と後輩の椎野修羅(3年、愛知黎明)が「ダブルエース」として取り上げられることが多くなった。「それが何より悔しかったです。3年の秋ぐらいまでは自分も2人と同じぐらい走れていると思っていたので……。杉保と修羅はホクレン(ディスタンス・チャレンジ)にも出られてるのに、と思ってモヤモヤしていました」
前年の二の舞にならぬよう、故障明けは基礎的な練習からはじめ、徐々に体力を戻した。そして10月、最後の箱根駅伝予選会を迎えた。前年とは異なり、新型コロナウイルス感染拡大防止のために自衛隊立川駐屯地を周回するコース。無観客で、大学から行ける人数も少数に制限された。
それまでの麗澤大学記録は国川の持っていた1時間2分21秒。難波は「1秒でも更新したい」と1時間2分20秒を目標にスタートラインに立った。山川監督からも「5km14分40秒で15kmまではおしていけ」と指示があった。あとの6kmは「なるようになるよ」。その通り、14分40秒の集団に難波はついた。
「15km過ぎたら、だんだん先頭集団が見えてきたんです。そしたら城西の菊地(駿弥、4年、作新学院)くんと砂岡(拓磨、3年、聖望学園)くんがまずダッシュで抜け出して。順大の三浦(龍司、1年、洛南)くんと筑波の猿橋(拓己、4年桐光学園)くんも抜け出して先頭集団に追いついていきました。特に今回、筑波とは同じぐらいの力と言われてたので、『俺も行かないとやばい』と思って、勇気を振り絞っていったんです。そしたら追いついちゃって、びっくりでした」
1時間1分47秒、全体の11位でゴール。ゴール後、めちゃくちゃいい走りができた! と余韻に浸っているとすぐに椎野がゴールしてきた。ゴールする選手を見ていたが、なかなか他のメンバーがゴールしてこなくて、焦る気持ちがつのった。
結果は10時間36分07秒で13位。10時間57分12秒だった前年より合計タイムを20分以上縮めたが、またも本戦には届かなかった。「本当に悔しかったです。次点にもなれなくて……。先輩方がいままで順位をあげてきてくれたのに申し訳ないと思いました。今年は本当に、本戦に出るつもりでみんなで練習を詰んできてたので。(予選会を)走れなかった選手にも本当に申し訳ないと思いました」
だがこの予選会の走りで難波は、関東学生連合チームのメンバーに選ばれることになった。メンバー入りが決まり、キャプテンの竹内をはじめとした同期たちが「俺らの代で箱根を走れるのはお前しかいないけど、頑張ってくれ」と激励してくれた。チームでは叶わなかったが、出られるのならやってやる。そう心に決めて箱根駅伝までの時間を過ごした。
最初で最後の大舞台、「経験」の大事さを痛感
上りが弱点という難波は、1区か3区を希望していた。希望通りにエントリーされた1区。当日は大手町のスタートに立ち、「東京箱根間往復大学駅伝競走」の垂れ幕に「テレビで見てたやつだ」と感心したりもした。「何をしていいかわからなかったので、周りの選手を見てアップしたりしてました。東海の塩澤(稀夕)くん、國學院の藤木(宏太)くん、順大の三浦(龍司)くん、青学の吉田(圭太)くん……すごいメンバーが揃っていて、恐怖に震えてました(笑)」
1区はハイペースになる。10km通過が28分30秒になることも覚悟しておけ。関東学生連合チームの弘山勉監督(筑波大学)、そして山川監督からもそう言われていたが、レースは予想外のスローペースになった。3分10秒ぐらいまで落ちているとは思っていたが、実際は3分30秒オーバーという、ジョグともいえるペース。「先頭には出るな」という監督の指示を守り、他の選手の力を利用して走ることを心がけた。「三浦くんはレース運びもうまいと、予選会と全日本大学駅伝を見て思っていたので、ただひたすら三浦くんを追いかけてました」
レースは六郷橋から動いた。東洋大の児玉悠輔(2年、東北)が前に出たとき、「ここで離されたら終わりだ」と直感的に感じ、苦手な上りだが力を振り絞った。下りになる前に仕掛けようと思ったが、躊躇した。少し後ろに下がったと同時に、法政大の鎌田航生(3年、法政二)がスパート。必死になんとか前を追いかけ、10位相当での襷(たすき)リレーとなった。
自分の走りを100点満点で評価するとしたら?「100点満点でいうと、ギリギリ合格点ですけど、物足りないんで50点ですね。チームとしては10番を狙ってたんで、2区より先にも他校に強力な選手がいるので、もっと前の位置で渡さないといけなかったです。レースを振り返ってみると、もう少し余裕度を持って走れば3番までいけたかなという気持ちがあります。やっぱり経験ってすごく大事なんだなと実感しました」
弘山監督は学生連合のメンバーに、「この経験を通して何を成し遂げて、各大学に還元していくかを考えてほしい」とメッセージを送っていた。難波は1月4日の夜に、寮にいる部員たちの前で話をした。「箱根を走ったあと、LINE、インスタ、Twitterにすごくいろんな人から反応があって、箱根に出るのはすごいよ!ってまずおちゃらけた感じで話して。それから、他の大学はもっと箱根のために準備をしてきているから、今の現状に満足していては足りないよという話をしました。ただ単に練習をするだけじゃなくて、気持ちを入れた練習をしないと。考えて走らないといけない、ということは後輩に伝えました」
引退するつもりだったが、挑戦すると決めた
卒業後、難波は実業団・トーエネックへと進む。しかし11月末にあった学生連合の合同取材では、「大学で陸上は引退し、地元に戻る」と言っていた。どういう心境の変化があったのだろうか?
「大学3年の秋ぐらいから、実業団の方には声をかけていただいていて、合宿にも参加させてもらったりして迷ってたんです。でも陸上で一番大きい舞台って箱根駅伝かなと思っていたので、その先で続けるのはきついかもな、という思いもあって。辞めたら未練は残るだろうけど、地元に帰りたいなと思っていたんです」。もともと地元の友人とは仲がよく、大学時代はなかなか交流もままならなかった。遠距離で付き合っている彼女も地元にいた。社会人になったら楽しく、友人たちと仕事帰りにお酒を飲みたい。そう思っていた。
難波は昨年11月29日の東海大学記録会で5000m13分44秒71の自己ベストを更新し、自分でも「もう少しやれるんじゃないかな」という気持ちが芽生えてきていた。そして12月中旬、学生連合チームの合宿最終日に、中央学院大学の川崎勇二監督から呼び止められた。「なんで続けないの?続けたほうがいいよって。いろんな選手を見てきたけど、その選手たちの中でも持っているものがあるよ、もし続けるんだったらチームは紹介するから、って熱く語ってくださいました」。合宿からの帰り、山川監督と2人で車に乗っているときにも「競技を続けている姿を見たい」と言ってくれた。「挑戦は誰にでもできることではない」とも。難波の心が動き、競技を続けることに決めた。
だが、気がかりだったのは「地元に帰る」といい続けていた彼女のこと。「裏切るようになってしまったなと思ったんですが、『応援するよ』と言ってくれて。自分にはもったいないぐらいの彼女です」とはにかむ。
トーエネックにはMGC出場、12月の日本選手権10000mで4位に入った河合代二、東洋大のエースだった服部弾馬(はずま)など力のある選手が揃っている。特に河合は麗澤大学の大先輩だ。「一緒の大学で競技していた選手が、あんなに日本トップクラスのレベルに行けるのはすごいと思うし、尊敬しています。代二さんの記録に迫り、勝てるような選手にいつかなりたいです」
長い距離が苦手な難波は、今のところはマラソンをやろうとは思っていないのだという。「トラックと、ニューイヤー駅伝で活躍したいです。実は10000mが一番得意なので、1年目から27分台が目標です。それから、同期の杉保と水野(優希、豊川工)も競技を続けるので、国川さんも含めた麗澤大学OBで日本選手権に出て、みんなで活躍したいです」
そう話す難波の目は、しっかりと前を向いていた。高校ではインターハイにも出られなかった選手は、麗澤大学の4年間で実力も心も大きく成長し、トップレベルの世界を見られるようになってきた。まだまだ伸びしろを感じさせる難波。卒業後の活躍も楽しみだ。