サッカー

16年間のプロ生活、34歳で知らされたキャリアの現実 元Jリーガー・渡邉大剛さん

渡邉さんは34歳で現役引退後、当初はサッカー業界以外で新しいキャリアを歩もうと考えていた(撮影・松永早弥香)

「アスリートのセカンドキャリア問題を解決したい」。その思いを胸に、渡邉大剛さん(36)は16年間のプロサッカー選手としての経験を生かし、サッカー選手の代理人とともに、アスリートのセカンドキャリア支援・体育会系人材紹介を担う「リスタンダード」で新たなキャリアを歩んでいる。しかし現役引退直後は、34歳で社会に飛び出す難しさを思い知らされた。だからこそ、学生や選手たちに現役時代からできる行動をうながしている。

小3の時にJリーグ開幕、将来の夢は「サッカー選手」

渡邉さんは長崎県で三兄弟の長男として生まれ、幼稚園の時には兄弟で野球をしたりサッカーをしたりして過ごしていたという。弟の渡邉千真選手(横浜FC)と渡邉三城さん(2016年に引退)も後に、兄の背中を追ってサッカーの世界に進んでいる。

本格的にサッカーを始めたのは小2のころ。よく一緒に遊んでいた友だちがサッカー部に入り、「自分もサッカーを始めればまた友だちと一緒に遊べるな」と思ったのがきっかけだった。また翌年の1993年にはJリーグが開幕。華やかな舞台で活躍する選手を見てあこがれが募り、小学校の卒業文集にも将来の夢のところに「サッカー選手」と記していた。

国見中学校でも迷わずサッカー部へ。ただサッカーでは一度も全国大会に出られなかった。「特に僕たちの代は期待されていたのに、それがかなわなかったことはやっぱり悔しかったですね」。そんな思いもあり、サッカーの試合が終わった中3の夏からは目標をフットサルの全国大会に切り替え、グラウンドや体育館で練習を継続。そこで全国制覇を成し遂げた。

中2の時、国見中の1つ上の徳永悠平さん(2020年に引退)から「一緒に東福岡(高校)に行こう」と誘われ、塾にも通い始めた。しかし“目と鼻の先”と呼べるほどの近所でサッカーの名門でもある国見高校(長崎)は、小さい時から高校選手権などでいつも応援していたチームだ。結局、徳永さんは国見に進み、渡邉さんも地元の国見に進学した。

名将・小嶺監督の下で鍛えられ

渡邉さんが1年生の時に国見はインターハイ、国体、選手権で優勝し、高校三冠を達成。当時の3年生には国見中の先輩でもある大久保嘉人選手(セレッソ大阪)や、松橋章太さん(13年に引退)などもいた。翌年には選手権で2連覇を成し遂げ、3年生になって前人未到の3連覇へ挑むにあたり、渡邉さんは選手権前にひとり、頭を五厘刈りにした。気合というよりも目立ちたかったから、というのが当時の心境だったという。その大一番で市立船橋(千葉)に0-1で敗れ、高校最後の試合を終えた。

サッカーの名門・国見高で渡邉さんは人間的にも鍛えられた(写真は本人提供)

チームの中心メンバーだった渡邉さんに対し、小嶺忠敏監督(現・長崎総科大附高の監督)は「自信と過信は紙一重」と苦言を呈してくれていた。

「小嶺先生には僕は結構、自信家に見えたようで、その言葉はことあるごとに言われました。『継続は力なり』『実るほどに頭を垂れる稲穂かな』『鍛錬は千日の行、勝負は一瞬の行』など、小嶺先生はたくさんの言葉を僕たちに語りかけながら指導をしてくださいました。サッカーだけではなくて、挨拶や礼儀、気遣いとか、まず人としての部分をすごく教え込まれましたね」

高校時代を振り返ると規律も厳しく練習もハードで毎日がしんどかったが、渡邉さんには「プロになる」という夢があったため、気持ちを切らすことなく練習から全力で挑み続けた。そうした姿が京都サンガのスカウトの目にとまり、高校卒業後の03年、京都でプロの世界に飛び込んだ。

プロ16年間で出会った16人の監督

高校までは指導者の管理下で過ごしていたが、プロでは全てが自分の責任だった。何時に起きて何時に寝るのか、練習以外の時間は何をするのか。当初はよく分からず甘えていたところもあったというが、先輩たちの姿を見て少しずつプロ選手としての生活リズムを整えていった。「プロの世界で試合に出て活躍して成功したいという思いはありましたし、腐ってしまったらもうはい上がれないので、『どんな時でも腐ってはダメだ』『常に全力で挑むと心に決めていました」

1年目は試合出場ゼロだったが、頑張れば道は開けると信じてやり通した。2年目からは徐々に出場できるようになり、07年シーズンにはチームのJ1昇格にも貢献した。その後、渡邉さんは11年には大宮アルディージャへ、16年にはKリーグチャレンジ(現・Kリーグ2)の釜山アイパークへ、16年にはカマタマーレ讃岐へ完全移籍し、19年2月、34歳の時に讃岐で現役引退を発表。J1リーグで214試合出場16得点、J2リーグで183試合出場8得点、Kリーグチャレンジで5試合出場を記録している。

大宮アルディージャでプレーした後、渡邉さんは韓国のKリーグチャレンジにも挑戦した(写真は本人提供)

渡邉さんは25歳の時に左脚のアキレス腱を断絶し、競技生活の中で初めて大きなけがをした。しかし体をつくり直すチャンスととらえ、「必ず強くなってピッチに戻ってくる」という強い気持ちでリハビリに取り組んだ。33歳の時にも左膝の半月板を手術しているが、同じ気持ちで前向きに考えられたという。

しかしその翌年に讃岐で契約満了を告げられ、J1やJ2のチームからオファーがなければ引退しようと考えた。「フィジカル的にもメンタル的にもまだまだできるという思いが強かったんですけど、需要がないと続けられない世界ですし、自分の居場所はもうないんだろうなと思い知らされました」。やり切ったという思いはない。J3からはオファーはあったが、これから長く続く人生を考え、決断した。

Jリーガーの平均引退年齢は20代半ばと言われている中、34歳まで続けられた要因を渡邉さんは“順応性”と表現した。

「僕はプロ生活の16年間で16人の監督を経験しているんですけど、これはなかなかないことだと思います。それぞれの監督にはそれぞれの色がありますから、『前監督の時には試合に出られたのに、監督が代わったら出られなくなった』と言う選手もいると思うんです。その中で僕は、自分のプレーと監督が求めているプレーを照らし合わせて、どうやったら試合に出られるか、評価してもらえるかをずっと考えていました。そのひとつのきっかけはけがでした。けがした後はそれまでと違う感覚になっていて、自分のプレーを見直すきっかけにもなったし、監督が求めているものに自分をはめていこうという意識にもつながりました。その意味で順応性は現役生活ですごく磨かれたと思うし、長く現役を続けられた要因だったと思います」

カマタマーレ讃岐で渡邉さんはプロサッカー選手のキャリアを終えた(写真は本人提供)

選手活動と並行しながらキャリアの基板をつくる

渡邉さんが具体的に「セカンドキャリア」を考えるようになったのは、引退を発表した後からだという。現役時代にも漠然と「こういうことをやりたいな」という思いはあったが、具体的な準備はしていなかった。

「現役の時はサッカーを極めるために一生懸命やっていたと思うんですけど、でもそれがなくなった時に自分には武器がないのは問題だなと感じました。その武器を少しでも持っていたら、他の業界にいっても戦えると思う。年齢も大きな問題です。現役を長く続ければ続けるほど、それはすごく幸せなことですけど、30半ばで他の業界に飛び込んだ時に、企業側からすると中途採用になりますから、『あなたには何ができるんですか?』と問われてしまう。新卒だと会社が育てるというスタンスですけど。そうした社会の仕組みや、年齢によってとらえ方が変わってくることを理解しておくことは大事だなと思いました」

サッカーに対する未練があり、気持ちの整理をつけるため、サッカーに関連する情報は全て見なくなった。「あの時は正直、サッカーを少し嫌いになっていましたね」と当時を振り返る。当初はサッカー以外の仕事をやりたいと考え、色々な人の話を聞いていた。しかし「せっかくここまでキャリアを積み上げてきたんだから、サッカーを手放すのはもったいないよ」と知人に言われことで、改めてサッカーと向き合った。サッカー関係で興味があるのはなんだろうと考え、すぐに浮かんだのが代理人だった。

同じタイミングで、弟・三城さんを通じて品川CC横浜の代表兼GM・吉田祐介さんと話をする機会をもらい、神奈川県社会人1部リーグで戦う品川CC横浜でサッカー選手をしながら、同チームのスペシャルスポンサーであるリスタンダードでブランディングアンバサダーとして勤務する誘いを受けた。正直、サッカー選手としてプレーするモチベーションは高くなかったが、吉田さんからの「プロとしての経験値をチームに還元してほしい。(リスタンダードで)ビジネススキルを学べて経験も積めるので、これからに生きるのではないか」という言葉が響いた。19年2月に現役を引退し、5月には代理人として、そして7月には品川CC横浜とリスタンダードでの新しいキャリアを始めた。

ビジネスに比重を置きたいと考え、社会人サッカーは1年半で引退したが、その間は選手としてプレーする一方でリスタンダードでビジネスの基礎を学んだ。また、アスリート動画メディア「RossTime」のインタビュアーとして元アスリートとセカンドキャリアについて語り合うなど、自分のキャリアを生かしながらビジネスを広げてきた。引退してからは代理人の仕事をしながら、リスタンダードで業務委託として体育会の大学生を対象としたセミナーを実施している。現在は新型コロナウイルスの影響を受け、大学内でのリアルな場からオンラインに切り替えているが、オンラインになったことで全国の大学生を対象に実施できるようになり、学生にとってもより気軽に参加できるようになった。

コロナの影響でリアルな場でのセミナーはできなくなったが、現在はオンラインで学生たちと向き合っている(写真は本人提供)

セミナーの参加者は大学1~3年生が中心で、多い時だと100人規模になることもある。プロサッカー選手としての経験や、代理人としての仕事、社会人サッカー選手の考え方、卒業後に広がる社会についてなど、様々なテーマを通じて学生たちに今後のキャリアを考えるきっかけをもたらしている。今後はセミナーから派生して、より学生と企業をマッチングする面談も担っていきたいと考えている。

隙間時間を活用し、自分の興味の幅を広げる

渡邉さんは高校を卒業した後、1年だけ大学に通っていた時がある。国見の小嶺監督から「京都に入るんだったら、立命館大学にはプロサッカー選手をしながらでも通えるカリキュラムもあるから、大学にいきなさい」と言われたことがきっかけだ。渡邉さんも「2~3年でプロの契約を切られた時に大学を出ておけば、そこからやり直しがきくんじゃないか」と考え、プロ2年目から大学に通った。

しかし1年で退学し、大学に通ったのも数回だったという。当時の寮からキャンパスまでは車で片道1時間半。午前中に練習し、昼から授業に出て、寮に帰って夕食を食べ、また翌朝から練習。そんなハードな毎日の中でプロ選手としてコンディションを整えるのが難しく、また、2年目からは試合に出られるようになったことでサッカーで生きていく道も見え始め、サッカーに専念することにした。

サッカーに全てを注いできた日々が、現在の渡邉さんのキャリアにつながっているのは間違いない。しかし当時を振り返り、大学で何を学びたいのかという意識が自分には欠けていたと振り返る。だからこそ学生たちには、今の内に自分の興味の幅を広げ、深掘りしてほしいと伝えている。

「引退してから思ったんですけど、現役の時でも隙間時間は絶対あったなって。丸1日とれなくても、1~2時間だけならサッカー以外のことにも目を向けられたと思います。それは大学生にも当てはまると思うんですよね。授業があって練習もある日は難しいだろうけど、授業が少ない日とかオフの日とか、ちょっとした隙間時間に本を読んだり自己分析をしたり、就活エージェントに登録して人に話を聞いたり。そういう時間を見つけることもすごく大切なことだと思うんです」

学生も選手も現役時代からアンテナを張り、引退した後のことを考えてほしい。渡邉さんは自身の経験も踏まえて情報が発信することで、ひとりでも多くの選手が考えや行動を変えるきっかけになれたらと思っている。その考えは代理人としての仕事にも通じている。「一昔前だったら、代理人は契約交渉の場だけ頑張ればいいというところがあったと思うんですけど、僕はプレーヤーも経験しているので、プレーヤーとしての考え方やセカンドキャリアについてもサポートできると思うんです」

サッカー選手だった自分がサッカー界に限らず活躍する姿を見せることで、選手たちに希望を与えられたら。渡邉さんにとって、それは自分を育ててくれたスポーツへの恩返しでもあるのだろう。

4years.のきょうだいサイト「好書好日」でも、代理人としての渡邉さんのインタビューを掲載中! 「サッカー界の闇をエンターテインメントに 漫画『フットボールアルケミスト』木崎伸也さん×渡邉大剛さん対談」

in Additionあわせて読みたい