東海大・新井雄大 勝ち切れなかった悔しさ、恩師・仲間の思いを胸にJT広島で戦う
昨年12月の全日本インカレから約2カ月半。新チームが始動し、各大学でこれからに向けたスタートが切られる中、最初で最後の公式戦を戦い終えた4年生たちも、新たなステージでの挑戦が始まっている。東海大学男子バレーボール部で主将を務めた新井雄大(4年、上越総合技術)もそのひとり。大学名と代々受け継がれてきた主将マークを背負った青いユニフォームから、4月に入社予定のVリーグ・JTサンダーズ広島の内定選手として緑のユニフォームをまとい、笑顔でコートに立つ。
インカレは3年連続4位、最後こそは
与えられたチャンスをすぐにつかみ、Vリーグも中盤から終盤に差しかかる中でもスタメンでコートに立ち、代名詞でもある跳躍力とパワーを生かした攻撃で存在感を発揮。新たな場所で経験することの全てが「新鮮で楽しい」と目を輝かせるが、約2カ月半前、大学最後の試合を振り返ると、まだ胸が痛む。
「全カレが終わってから1カ月以上、ずっと頭から離れませんでした。あの悔しさ、あの負けは一生忘れられないと思います」
大学1年生の時からエースとして春・秋リーグや東日本インカレ、全日本インカレに出場を果たすも、日本一を目指した全日本インカレは3年連続4位。センターコートまで進みながらあと2つが勝ち切れず、頂点どころかメダルにも届かず、最後に上級生を勝って送り出すことすらできなかった。
今年こそは、と並々ならぬ意気込みで迎えた最後の1年。名実ともにチームの柱となるべく、主将に就任。昨季までの課題を克服することに加え、チームの武器を強固なものとするために、サーブ&ブロックに重きを置いた。さらにこれまでを振り返ると新井に攻撃本数が偏りがちだったことから、全員がバランスよく攻撃を仕かけるチームになるため、そして自身の将来も見据え、これまでのオポジットからレフトに入るアウトサイドヒッターへポジションも転向。昨年2月に日本代表合宿が始まったため、常に大学で練習ができるわけではなかったが、チームメートとコミュニケーションを取りながら自身もレベルアップに努める。悲願達成に向け、幸先いいスタートを切れたはずだった。
イレギュラーな今シーズン、例年以上にハードなメニューを加え
予期せぬ事態に見舞われたのは3月になってから。緊急事態宣言発令を前に、日本代表合宿が解散となり、同時に大学も一切の登校、練習が禁止。それぞれ実家に戻り、高校での練習に参加したり、自宅周辺を走ったり、限られた中でもできることに取り組んだ。プラスして、離れていてもチームの結束力を高めるべく毎日1時間程度Zoomをつなぎ、全員で顔を合わせてトレーニングを行った。また小澤翔監督も交え、週に一度は4年生でミーティングをして意思疎通を図ってきた。
例年と異なり他校やVリーグチームとの練習試合も行えないため、今自分たちがどれだけの力があるのかを測る指針はない。不安がないわけではなかったが、全体練習が始まった7月からはボール練習に加え、全体練習の後に学内の競技場で300mの直線ダッシュを6本、坂道ダッシュを10本、ランニングマシンに傾斜をつけ20秒ダッシュ8セットを2度繰り返すなど、例年以上にハードな体力強化メニューにも取り組んできた。
その成果が現れたのが、10月に開幕した秋季リーグの代替大会。コートに入るレギュラーメンバーで4年生は新井だけで1、2年生も多く入る若手主体ではあったが、粗さはあるものの、手応えをつかむこともできた。全日本インカレが近づく中、レギュラー主体のAチームとリザーブ中心のBチームで行うゲーム形式の練習時にも、あえて16-20や13-16などビハインドのある状況を設定し、はね返す力をつけるべく実戦練習を繰り返した。
最後のインカレで残した大きな悔い
最後の全日本インカレに向け、どこよりも練習してきた。胸を張ってそう言える自信があった。しかし第2シードで臨んだ最後の全日本インカレの結果は、準々決勝で日本大学に敗れベスト8。思い出す度、よみがえるのは悔しさと自らの不甲斐なさ。
「『勝ちたい』という思いが強過ぎて誰よりも僕が力んでいました。AB戦も『これだけやってきたんだから大丈夫だ』と自信を持つために取り組んできたけど、その反面、『このままで大丈夫なのか』という不安も消せなかった。(敗れた)日大との試合も、いい時はいいけれど、相手が勢いよくくると受け身になって硬さが出てしまう。自分にマークがくるのはいつも通りなので意識することはなかったですけど、『勝ちたい』『勝つんだ』と気持ちを出して引っ張ろうと力み過ぎてしまった。そのせいで周りにもスイッチが入り過ぎて、ガチガチになってしまったんです。経験不足もあったのかもしれないけど、もっとリラックスさせてあげられればよかったとか、いろんなことを思いましたね」
会場近くの宿舎に戻っても、シャワーも浴びずベッドに転がり、天井を見てただ茫然(ぼうぜん)とするだけ。何も考えられずにいたが、その後の全体ミーティングで、口数も少なく人前で話すことを得意としなかった同期たちが、後輩にこれまでの感謝やかなえられなかった思いを泣きながら託す。その姿を見てまた、「勝たせてあげられなかった」という後悔にさいなまれた。
できるならもう一度戦いたい。だがどれだけ願っても、もうかなわない。一生消えない悔しさをねぎらってくれたのが小澤監督だった。
「ホテルの部屋にきて『雄大に助けられた』と言ってくれたんです。自分たちが1年生の時に小澤先生が監督になって、なかなか勝てなかったし、負けたら怒られることもあったけど、でも最後の最後に『お前がいなかったら、この3年間、ベスト4にも入れなかったよ』って。同じことを全カレ前、(前監督の)積山(和明)先生からも言われて、すごくうれしかったんです。だからこそ、小澤先生、積山先生を勝たせてあげたかったし、勝ちたかったです」
東海大で鍛え、育まれた覚悟
エースとして挑み続けた4年間。負ければ「自分が決められなかった」と悔しさばかりが募り、背負う責任は増え続けた。楽しいことよりも苦しいことの方が多くて、最後も完全燃焼とは言い難い、あまりにも悔しい結末。
だがその経験も全て、生かすのはこれから。高校時代からアンダーカテゴリー日本代表にも選出され、様々な経験を重ねてきたが、バレーを仕事とし、より高い場所を見据えた戦いに挑む以上、待ち受けるのはさらに厳しく険しい世界。
不安がないと言えば嘘になる。でもそれ以上に自分がどれだけ強くなれるか、楽しみの方が大きい。なぜなら東海大で鍛え、育まれた覚悟が、これからを戦う力になると信じているから。
「試合に出るのは7人。東海大は40人ぐらい部員がいるので、試合に出られない選手が30人近くいました。でもその一人ひとりにそれぞれ役割があって、コートに立つ選手には責任がある。それだけはいつも忘れないようにやってきたし、試合に出ていなくてもみんなが同じように頑張っているのを分かっていたから、例えコートに入る4年生が自分だけでも、気持ちの中ではひとりじゃなかったんです。だから今、Vリーグの試合に出させてもらえるようになって、みんな連絡をくれたり、気にしてくれているんだ、と思うとうれしいですね。高校時代や大学に入ったばかりの頃を知っている仲間からは『お前がちゃんとレシーブできるのか』って言われるんですけど(笑)、大学で小澤先生や後輩に付き合ってもらってめちゃくちゃ練習しましたから。『お前らは知らないだろうけど、レシーブも練習してきたんだぞ』って、見返してやりたいんですよ(笑)。まだまだヘタクソですけど、もっとできるようになって、最後に勝ちきれるチーム、その中のひとりでありたい。現役時代の小澤先生に負けないぐらい、勝ち運を持った選手になりたいです」
大学時代に味わった悔しさも、重ねた努力も、仲間の期待も力に変えて。新井が大輪の花を咲かせる未来はこれからだ。