ホペイロ目指し早稲田に進み、Jリーグから東京五輪組織委員会へ 広報・吉川真行さん
現在の勤務地は、東京湾が見える晴海トリトンスクエアの中層階。コロナ禍の影響でリモートワークがメインになっているが、夏が迫るにつれてオフィスで出向く回数も増えてくるかもしれない。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の広報局プレスオペレーション部に所属する吉川真行さん(30)は、忙しく動き回る日々に備えて、準備に余念がない。主な仕事は五輪競技会場でのメディア対応。当日の運営もさることながら、報道陣の取材がスムーズに運ぶようにあらゆるシチュエーションを想定し、万全の体制を整えるのも大きなミッションとなる。
「今は五輪組織委員会の広報をしていますが、大学生の時には想像もしていなかった仕事です。高校生の頃はサッカー界で働きたくて、ホペイロ(用具係)になることを夢見て、早稲田大に進んだんですから」
ホペイロになるために早稲田大学ア式蹴球部へ
吉川さんはサッカーどころの静岡県で育ち、小学1年生からボールを蹴ることに夢中になった。幼少期のアイドルは、日本代表の司令塔として活躍していた中村俊輔(現横浜FC)。中学3年生の頃にはアディダスの懸賞に当選し、憧(あこが)れのスターがプレーするスコットランドへ。中村が所属した名門セルティックの本拠地セルティックパークに足を踏み入れると、本場の雰囲気に圧倒された。
「あの大きな歌声、あの会場の盛り上がり、とにかくすごかったんです。地響きがしていましたから。セルティックの入場曲『You'll Never Walk Alone』を歌えるところだけ、現地のサポーターと一緒に歌ったりしたのは今でもよく覚えています。あれを経験してしまうと、サッカーにどっぷり浸(つ)かってしまいます」
高校入学前から選手としての限界は感じていたが、静岡市立高校に進んでからも熱は冷めなかった。むしろ、現実的にサッカー界で働く道を模索するようになる。「僕は道具が好きで、暇さえあればスパイクを磨いている高校生でした。『その時間があれば、練習しろよ』と言われたくらいです」。誰よりも道具を大事に扱う青年は、サッカー専門誌でホペイロと呼ばれる職業があることを初めて知った。海外では当たり前のような職種でも、当時の日本でそれを生業にしているのは名古屋グランパスの松浦紀典さん(現京都サンガ)ら、ほんのひと握り。それでも、プロの用具係は将来の夢となった。
「高校生なりにどうすれば、ホペイロになれるのかを調べました。自分の中で出した結論は、サッカー業界に多くの人材を送り込んでいる早稲田ア式蹴球部に入ることでした。選手としてではなく、マネージャーとしてです。そこを足がかかりにしようって」
主務としてチームを支え、Jクラブのインターンを重ね
目的意識を持って受験勉強に励み、2009年に早稲田大学のスポーツ科学部に現役合格。男子マネージャーの希望者は同学年でひとりのみで、すぐに入部は認められた。2年生までは練習の補助が主な仕事。先輩マネージャーたちに指示され、朝から晩までグラウンドで動き回ることもあった。それでも、元気いっぱいの大学時代である。多少のしんどさは感じても、苦にはならなかった。早慶戦の運営に始まり、部全体の管理業務も前向きにこなした。高校時代からの思いも消えていなかった。
「自主的に選手たちのスパイクを回収して磨いていました。自分の将来を見すえて、やりたかったんです。当時の古賀聡監督は選手に自分のことは自分でやらせる方針だったので、陰でコソコソとやっていました。ばれていたとは思いますけど」
4年生になるとマネージャーの長である主務となり、チーム運営を仕切るようになった。練習の1時間前には古賀監督からメニューを渡され、滞りなくトレーニングが進むように段取りを組んだ。練習道具の配置など、無駄がないように工夫した。ある日、監督からかけられた何気ない言葉は、今でも覚えている。
「これだけスムーズに練習できるのはありがたいよ」
地道な仕事の積み重ねが評価されたのだ。主務の仕事はグラウンド内の雑用ばかりではない。遠征に行く際には宿泊ホテルや移動手段の手配をする。万全の準備をしても、時には不測の事態が起きてしまう。4年生の時に迎えた夏の総理大臣杯での一件は忘れもしない。大阪市内の宿泊ホテルから長居陸上競技場へ向かうために予約していたバスが、先方のミスで来なかったのだ。
「慌てふためきました。ホテルから現金を借りて、急いでタクシーをかき集めたんです。6、7台に分けて選手を移送しました。僕は最後の1台に古賀監督と一緒に乗って、試合会場に向かったのですが、車内では何も言われなくて……。逆に怖かった。試合には何とか間に合いましたが、主務としては最悪の状況でした。でも、何とかしないといけないと思い、必死に動いていました。今、振り返れば、監督はその姿を見てくれていたのかな、と思います」
自らの仕事に情熱を注いでいると、かつて鹿島アントラーズなどでプレーした古賀監督をはじめ、Jクラブ関係者の早稲田大OBを通じて、インターンに行く機会に恵まれた。鹿島、大宮アルディージャ、清水エスパルス、FC岐阜でそれぞれ1週間ずつ、主務、マネージャーの仕事体験をさせてもらった。周囲が一般企業の就職活動をする中、ひとりサッカー界に入ることだけを考えていた。
不安がなかったと言えば、嘘(うそ)になる。FC岐阜から正式に内定をもらったのは4年生の秋だ。Jクラブは毎年のように新卒の学生を採用するわけではない。人員に空きが出なければ、入社も難しい。ただ、最後まで諦めずに夢を追い続けた結果、運にも恵まれてプロサッカー界に入ることができた。
FC岐阜を経て湘南ベルマーレへ
13年、J2のFC岐阜に入ってからは毎日が必死だった。最初は主務をサポートする副務を任された。毎朝、クラブの事務所から用具を積んだトラックに乗り込み、日ごとに違う練習場に向かうのが日課。管理が行き届いた施設ばかりではない。ある時は白いラインを自らの手で引き、ある時は野良犬のフンを拾ってからグラウンドを整備することもあった。昼過ぎにトレーニングが終ると、事務所に戻ってビブスなどを洗濯。道具の管理、整備も行った。高校時代に憧れたホペイロのような仕事もこなしたが、そればかりではない。岐阜で何よりも大事だったのは、練習場の確保だ。
「専用グラウンドを持っていなかったため、施設を予約するのは主務、副務にとって、一丁目一番地の仕事でした。場所がないと練習はできませんから。一般市民の方と同じように利用申請を出していました。どうしても予約が取れない時は、先約の方に頭を下げて譲ってもらうこともありました。当時は、それが僕のやるべきことのひとつでした。クラブ内にもそれぞれの役割があります。今思えば、大学時代もそうだったな、と。だから、大変でしたが、めげずにやれたのかもしれないです」
2年目から主務となり、現場のサポートに没頭していた時だった。Jリーグの試合会場で大学時代に進路のことで相談した湘南ベルマーレの大倉智社長(現いわきFC社長)と顔を合わせた。早大ア式蹴球部OBである。あいさつを済ませるや、唐突に言われた。
「そういえば、お前がいたよな。また連絡するわ」
その時は状況をうまくのみ込めなかったが、約3週間後、吉川さんの携帯電話が鳴った。来季、J1を戦う湘南は強化担当に欠員が出るため、人を探していたのだ。電話口から聞こえてくる大倉社長の声は、真剣そのものだった。
「うちに来る気はあるか」
ほとんど即決に近かった。岐阜で2年経験を積んだ後、新たなフィールドを求めて、15年にJ1の湘南へ転職。配属は強化部の庶務ながら、現場のマネージャー、広報部のサポートもした。そして、湘南2年目からは広報担当を任された。
「岐阜時代から興味は持っていました。実際にやってみると、広報は板挟みになる仕事でした。思っている以上に大変なことが多かったです。クラブ側とメディア側の両方の声を聞いて、調整しないといけません。1年目は仕事を回すだけで必死でした。2年目から選手たちにいかに前向きに取材を受けてもらうかを考えて、丁寧に説明するようにしましたが、自分の力のなさを感じることもありました。これは永遠の課題です」
メディアから取材の申請を受けた案件だけをさばくだけが広報の仕事ではない。受け身の姿勢ではなく、広報から積極的に動く必要性を感じていた。露出の場所もサッカー専門誌やスポーツ紙以外にも、もっと幅を広げたかった。17年に動いた案件は思い出深い。売り込んだのは、囲碁のフリーマガジン「GOTEKI」である。
「当時、湘南に所属していた端戸仁(現東京ヴェルディ)選手が囲碁がすごく好きなことを知って、これは面白いと思いました。色々と調べて、囲碁雑誌でも最もとがっている媒体にアプローチし、インタビュー記事を掲載してもらいました」
東京五輪「元気、感動を与えられるような大会にしたい」
自ら動いて世間にベルマーレの魅力を伝えることができた時は、充実感を味わえた。仕事の面白みをしみじみ感じ、広報としての幅をもっと広げたくなってきた。3年間の経験を経て、一度外の世界に飛び出すことを決意。いずれまたサッカー界に戻ってくることを視野に入れていた。転職先は決まっていなかったが、シーズン終了の節目に湘南の水谷尚人社長に退職する旨を伝えた。すると、予想もしていなかった提案を受けた。
「オリンピックに興味はあるか」
東京五輪組織委員会を紹介され、トントン拍子で話が進んだ。吉川さんも前向きだった。「自国開催の五輪に携わるなんて、一生に一度あるかないかの機会ですから」
湘南を退社後、すぐに新たな職場に通い始めた。職種も前職と変わらず広報。担当しているのは経験のあるサッカーに加えて、自転車競技、馬術。本番のテストを兼ねたプレ五輪のイベントでは、慣れない競技のメディア対応で勉強することも多かった。人以上に馬が優先される馬術の世界には驚くばかりだった。
組織委員会内での人の縁もあり、昨年7月からはプロアイスホッケーチーム「横浜GRITS(グリッツ)」で広報の仕事をボランティアで手伝っていたが、4月からは五輪の仕事だけに集中するつもりだ。現在、大会開催について賛否両論の声が上がっているのも事実。それでも、組織として大会を成功させるという目標があり、それを達成するためには、それぞれが役割を果たさなければいけない。大学時代に主務、マネージャーの経験を通して、学んだことである。
「僕の立場から言えば、メディアを通して、見ている人たちに元気、感動を与えられるような大会にしたい。やってよかったね、と言われるようにしないと」
かつてホペイロに憧れた青年も、今はプロの広報マン然としている。大学卒業から8年。社会人経験を積んだからこそ、伝えられることがある。
「学生の間は目標、目的を持って突き進むのは素晴らしいと思います。ただ社会に出れば、その時々で求められることもあります。新たなことにチャレンジして、取り組んでいけば、世界も広がっていきます。道はひとつではないと思います」
濃密な時間を過ごしてきた30歳の口から出る言葉には説得力がある。今でもサッカーのスパイクを見ると、昔の夢をふと思い出すが、歩んできた道に後悔はない。