日大・福田翔大、室伏重信コーチと見据える学生新記録と日本選手権初制覇
昨年9月の日本インカレ男子ハンマー投げで、当時の学生歴代7位となる69m61をマークして初優勝を飾った福田翔大(日本大3年、大阪桐蔭)。その3週間後の日本選手権でも69m30を放って、初出場ながら3位に食い込んだ。今季も5月の関東インカレ1部で快勝。その存在感は学生界だけにとどまらず、国内トップレベルにおいても日に日に高まっている。飛躍の要因はどこにあるのか。今、最も勢いのあるスローワー自身の言葉から探ってみる。
42年ぶりの大会新で関東インカレ2連覇
5月22日の関東インカレは、1回目に65m17でトップに立つと、4回目、5回目と記録を伸ばし、2位に5m以上の大差をつける圧勝だった。優勝記録となった68m84は、川田雅之さん(当時・順天堂大)が1979年に打ち立てた大会記録(67m50)を実に42年ぶりに更新する大会新。しかし、福田には大会連覇の喜びや記録樹立の達成感はほとんどなかったという。
「今の日本のハンマー投げは、71mぐらい投げないとトップレベルでは戦えないので、記録的にはそのあたりを意識して臨みました。結果は68mということで、大会新については特にうれしさはありません。対校戦があったので勝てたことは良かったですが、むしろ71mに届かなかったのが残念だなと感じています」
続く6月4日の学生個人選手権は、「日本選手権の練習のつもりで、前半の3投以内に68mぐらいを投げる」ことを意識したが、最終記録は2回目の66m18。強い風雨の影響で、4回目以降も記録を伸ばせなかった。2位に終わったことを含め、福田は「もっと集中しないといけなかったというか、ああいう悪い条件でも学生の中では勝っていかないといけない」と反省を口にする。
昨年は秋の大舞台で2戦連続69m台をマークするなど、確かな手応えをつかんだ。順調にこなした冬季トレーニングが明けると、「身体面がかなり底上げできていて、練習ベストぐらいまで飛ばすことができていた」という。だが、今季3戦目となる5月3日の静岡国際でトップ8にも進めず(64m83で9位)、できていると思っていた技術が「錯覚だった」と気づかされる。
「試合になるとテンションも上がって、球が速くなったりして練習の時とは感覚が変わってきますし、静岡では軸が傾くなどいろいろ直すところが出てきました。そこからその修正に取り組み、だいぶ改善できましたが、関東インカレではいい投てきを安定して出せる状態ではなかった。試合以前の練習からの問題ですが、体自体の調子は良く、欲が出てしまったというのもあるかもしれません」
福田の試行錯誤の日々からも、ハンマー投げという競技の繊細さや難易度の高さが見て取れる。
花牟禮先生「ハンマーをやったら日本一になれる」
小学生まではテニスやサッカー、水泳など様々な競技をやったが、あまり長続きしなかった。陸上との出会いは、学校での週1回のクラブ活動。「好きな先生が教えていたから」だが、それが箕面六中(大阪)に進んで陸上部に入り、本格的に競技を始めるきっかけとなった。
「投てきが専門の顧問の先生からは投てきを勧められましたが、自分は走り幅跳びに魅力を感じたのか、走り幅跳びを選びました。でも、身長が急に伸びて成長痛などで脚も遅くなり、4m90ぐらい跳べていたのが3m90ぐらいに落ちてしまった。身長が高いからハードルをやるように言われたら、今度は肉離れ。それが中2の冬で、そこから砲丸投げを始めました」
中学時代は結局、近畿大会にすら出場できなかったが、そんな福田に早い時期から声をかけていたのが、当時の大阪桐蔭高顧問・花牟禮武先生だ。福田は「大阪桐蔭はインターハイで上位に入るようなチーム。全国大会に出たこともない自分に、花牟禮先生は『ハンマーをやったら日本一になれる』と言ってくださり、その言葉に惹(ひ)かれて、大阪桐蔭に行くことに決めました」と振り返る。
大阪桐蔭ではハンマー投げをメインに、砲丸投げをサブ種目的に取り組んだ。特にハンマー投げは「いろいろなことを覚えていくたびに順調に記録も伸びて楽しかった」という。ただ、先に全国レベルの実績を残したのは砲丸投げで、2年生の10月にあったU18日本選手権で全国大会初出場(11位)。3年生になると、両種目で全国トップクラスの選手へと成長を遂げ、インターハイではともに4位に食い込んだ。ハンマー投げでは10月の国体少年Aで2位。その2週間後のU20日本選手権では、当時の高校歴代3位となる66m66を放ち、ついに悲願のタイトルを手にする。
「初めての全国優勝だったので、すごく自信になりました。インターハイの4位は2投目以降が全てファウルだったのも悔しくて、そこからチームの同級生とさらに練習を頑張って獲(と)れたU20だったかなと。花牟禮先生とも約束していた日本一でしたし、改めて先生には人生を変えさせてもらったと思います」
花牟禮先生からことあるごとに言われたのは、股関節と肩甲骨の可動域について。例えばバーベルを使ったバックプレスでは、より深くまで下ろす。サーキットトレーニングの大股歩行では、できるだけ大きく脚を開いて腰を落とす。そうした意識は、大学生になった今も福田の内部にしっかりとしみ込んでいるという。
“アジアの鉄人”とともに世界を目指す
2019年春、福田は日本大学で新たな生活をスタートさせた。進学先の候補には、九州や関西、東海地区の投てき強豪大学もあり、様々な人たちから様々な意見を聞いた。その中で日大に決めたのは、室伏重信投てきコーチの存在が関わってくる。
日大OBの重信コーチは、ハンマー投げで日本選手権優勝12回、アジア大会5連覇。オリンピック代表に4度も選ばれ、“アジアの鉄人”と呼ばれたレジェンドだ。現役引退後は指導者として、息子の広治さんをオリンピック金メダリストに育て上げた。ハンマー投げの日本記録は、03年に広治さんが打ち立てた84m86が現在も燦然(さんぜん)と輝くが、歴代2位は重信コーチが1984年にマークした75m96。つまり、日本人選手はかれこれ40年近く、誰一人として室伏親子の記録に届いていないということになる。
「花牟禮先生の考えは、大阪桐蔭でもやっていたジャンプやダッシュなど、ポテンシャルを上げるようなメニューを続けて、そこに重信コーチの技術がハマれば、うまくいくかもしれない、というものでした。世界を経験してきた室伏先生には、世界で通用する技術があるので、そちらに賭けてみようと。また、日本大学に見学に行くと、キャンパスやトレーニングルーム、投てき場のあるグラウンドなど施設が素晴らしく、勉強や陸上を集中してできそうだなと思いました」
地元開催の日本選手権で優勝を
大学1年目は、室伏コーチの指導がなかなか身につかなかったり、体重増加を試みて動きのキレがなくなったりした時期もあった。しかし、冬季が終わる頃には「できる技術が少しずつ増えたのと、夕食後などに弱かったウェイトトレーニングに取り組み、体ができてきた」ことで、福田の記録は徐々に向上していった。
2年目はコロナ禍からのスタートだったものの、自粛期間中も自身を見失うことはなかった。真摯(しんし)な姿勢でできることに励んだ結果、秋からの快進撃となって結実。日本インカレの優勝記録69m61は、室伏広治さんが中京大学2年生だった時のベスト(69m54)を上回った。さらに日大陸上競技部伝統の主要大会優勝者のみが着用を許される、ピンク色の襷(たすき)入りユニホームを手にし、「襷が入って自信になりましたし、責任を感じます。今まで以上に負けられないと思うようになりました」と語る。
今季を迎えるにあたり、福田は「記録は70mの先にある(室伏広治さんが持つ)73m82の学生記録更新。6月に大阪で行われる日本選手権は、できれば72、73mぐらい投げて“地元優勝”すること」を目標に掲げた。近年は70m前後を投げる選手が増えており、そこから一歩抜け出すために、福田が到達しつつある考え方がある。
「技術、技術と言われますが、そればかりでもダメなのかなと。優勝した日本インカレの動画を見て、今より下手な部分も多いですが、球の動きには勢いがありました。技術ばかりを追い求めて、ダイナミックな動きができなくなるより、動き的に多少乱れてもいいので、練習で本気で投げる。出力を上げて投げることに意識を置いています」
実戦や練習を重ねることで、自分なりの強化の方向性が見えてきたという福田。まずは6月26日の日本選手権で、その成果をアピールし、掲げた目標をクリアできるか。お手並み拝見といきたい。